第28話:『引き波の深海』
防潮堤のコンクリート階段を駆け下りた瞬間、足首まで沈み込んだ砂の熱気が、スニーカーの底を突き抜けて皮膚を焼いた。
見渡す限りの、荒涼とした外洋の砂浜。
観光地のような整備されたビーチなどではない。漂着した流木やちぎれた漁網、無数の白い貝殻の破片が散乱し、何キロにもわたって灰色の砂丘が続いている。
水平線の向こうから昇りきった真夏の太陽が、白く濁った光線を容赦なく頭頂部に叩きつけていた。
一歩、足を踏み出す。
ズブリ、と足をとられ、熱砂が靴の中に容赦なく侵入してくる。
重い。
リュックサックに入ったノートPCと外付けHDD、そして三十万円の札束が、まるで鉛の塊のように私の両肩に食い込んでいた。
「……紗理奈……」
呼ぼうとした声は、喉の奥の粘膜に張り付き、かすれた呼気となって潮風に掻き消された。
喉が、焼けるように痛い。
二日間の完全な絶食。水すら吐き戻し続けた私の肉体は、とっくに極度の脱水状態に達していた。唇はひび割れて血が滲み、舌は乾ききった木片のように硬直している。
額から噴き出す汗はとっくに止まり、体温調節を失った皮膚は、内側から熱湯で煮え立つように火照っていた。
ザザァァァァァン、と。
視界の右手に広がる太平洋が、ビルの二階ほどもある巨大な白波を巻き上げ、轟音とともに崩れ落ちていく。
飛沫が霧となって風に乗り、私の顔面を濡らす。しょっぱい塩の味が、乾いた唇を鋭く刺激した。
どこにいるのか。
売店の店主は「防潮堤の道をまっすぐ歩いて行った」と言っていた。
だが、この広大で遮るもののない海岸線のどこに、あの華奢な少女が身を隠す場所があるというのか。
すでに波に呑まれ、あの暗く冷たい太平洋の水底へと引きずり込まれてしまった後なのではないか。
――そんなはずはない。
私は首を激しく横に振った。
あの子は、死ぬためにここへ来たのではない。
あの冬の日に夢見た、誰も自分たちを知らない、満点も取らなくていい「何者でもなくていい場所」を求めて、たった一人で逃げ延びてきたのだ。
私が殺しかけたあの子の息の根を、この海にまで奪わせるわけにはいかない。
足を引きずるようにして、私は波打ち際へと歩を進めた。
けれど――視界が、急速に色を失い始めていた。
青かったはずの海が、白黒の静止画のように色褪せていく。
耳をつんざいていた波の轟音が、まるで水中で耳を塞がれたかのように、ボウ、ボウ、という遠くの鈍い振動へと変質していく。
限界だった。
私の心臓は、壊れたメトロノームのように不規則なリズムで胸板を乱打し、膝の関節がガクガクと震えて体重を支えきれなくなっていた。
ドサッ。
湿った砂の上に、私は両膝から崩れ落ちた。
両手を砂に突き、激しく喘ぐ。
息が吸えない。肺が熱い鉛を呑み込んだように重く、酸素が脳へと届かない。
――ズザザザァァァッ。
寄せてきた巨大な白波が、私の腰のあたりまでを一瞬にして呑み込んだ。
冷たい。
真夏の熱気に晒されていた下半身を、外洋の荒波が容赦なく氷水のように冷やしていく。
ジーンズが水を吸って鉛のように重くなり、スニーカーの中に無数の小石が流れ込んでくる。
そして――次の瞬間、引いていく波の、凶暴なまでの「引力」が私の身体を捉えた。
ザバババババッ、と。
私の膝の下の砂が、足元の土台ごと一気に海へと削り取られていく。
引き波の圧倒的な質量が、私の腰を、両腕を、沖に向かって強烈な力で引きずり倒そうとする。
「……あ……」
私は、踏ん張るのをやめていた。
砂を掴んでいた両手の力を、ふっと抜いた。
冷たい海水が、胸元まで満ちてくる。
仰向けに倒れ込んだ私の視界いっぱいに、雲ひとつない、どこまでも残酷に澄み切った真夏の青空が広がっていた。
――ああ。
これが、深海か。
第三症のあの夜、上り列車の中で始まった精神の沈降。
あの底なしの暗闇が、今、物理的な海の質量となって、私を迎えに来てくれたのだ。
安藤家の食卓の正論も。
秀明館の張り詰めた成果主義も。
大衆の薄情な忘却も。
私が犯した、取り返しのつかない罪の重さも。
この巨大な外洋の引き波の中に溶けてしまえば、すべてはゼロになる。
解けない計算式なんて、最初から存在しなかったのだ。
『真紀ちゃんは、完璧な世界に戻ってね』
紗理奈。
ごめんね。私は完璧な世界になんて、戻れなかったよ。
あなたのいない世界で満点を取るくらいなら、私はここで、あなたと同じ波に呑まれて消えてしまいたい。
冷たい海水が、耳朶を塞ぎ、髪を揺らし、首元まで這い上がってくる。
私は安らかに、重たい瞼を閉じようとした。
意識の電源が、完全に落ちようとした――その瞬間だった。
「――真紀ちゃんッ!!!!」
潮風を、波の轟音を、世界中のあらゆるノイズを切り裂いて。
魂の底から絞り出されたような、悲痛な叫び声が、私の鼓膜を強烈に撃ち抜いた。
幻聴ではない。
スピーカー越しでも、カメラ越しでもない。
世界でただ一人、私の冷え切った手を温めてくれた、あの少女の生身の叫び。
カッと、見開かれた私の視界。
激しい水しぶきを上げて、荒波の砂浜を、こちらに向かって必死に走ってくる一つの小さな影が、涙で滲む網膜の奥に飛び込んできた。




