第29話:『防潮堤の告白』
ザバァァァンッ、と。
引き波の強烈な引力が、私の腰を、両脚を、沖の暗い水底へと引きずり込もうとした、その刹那だった。
「――っ、離さないでっ!!」
激しい水しぶきとともに、冷たい海面へと飛び込んできた二つの腕が、私の両手首を真正面から掴み取った。
骨が軋むほどの握力。
ずりずりと沖へ流されかけていた私の身体が、その強引な力によって砂浜の上へと引き戻される。
「真紀ちゃん! 立って! 足を動かしてぇぇっ!」
叫び声。
泥水をかぶり、髪を振り乱しながら、必死の形相で私を抱き起こそうとする少女の顔が、至近距離で視界を埋め尽くした。
私は反射的に手足をバタつかせ、彼女の肩にしがみつきながら、二人で重なり合うようにして波打ち際の濡れた砂の上を這い上がった。
ザザァァァ、と背後で次の大波が砕け散り、白い泡が私たちの足元を洗って引いていく。
間一髪だった。
あと数秒遅れていたら、私は間違いなく、外洋の激しい潮流に呑み込まれて沖へと消え去っていた。
「ケホッ、ゲホッ……っ!」
肺に入り込んだ海水を激しく吐き出し、私は濡れた砂の上に四つん這いになって咳き込んだ。
全身がびしょ濡れで、泥と海藻が肌に張り付いている。
けれど――私の隣で、肩で激しく息をしながら私を支えてくれているその腕は、信じられないほど熱かった。
「……真紀ちゃん……っ、あっち……! 日陰へ行こ……!」
震える声に促され、私は彼女に肩を貸されるようにして、重たい足を引きずりながら防潮堤のコンクリートの壁へと辿り着いた。
巨大な壁が作り出す、冷たい日陰。
壁に背中を預けて座り込んだ瞬間、私の視界の焦点が、ようやく目の前の少女の輪郭を捉えた。
「……あ……」
私の喉から、声にならない吐息が漏れた。
そこにいたのは、画面越しに何万人もの大衆を魅了していた、あの陶器のような偶像ではなかった。
夏の強い日差しに焼かれ、小麦色に健康的な色づきを見せる素肌。
潮風に揉まれてボサボサに乱れた、淡い蜂蜜色の髪。
薄汚れた無地のカーディガンの袖は、肘のあたりまで無造作に捲り上げられ、そこからは――あの日、彼女があれほど必死に隠し、私が拡大率五〇〇%で消し去り続けた、皮膚の痛ましい古傷の凹凸が、真夏の光の下にありのまま晒されていた。
ファンデーションも、コンシーラーも、デジタルフィルターも何ひとつ纏っていない。
傷だらけで、泥にまみれ、けれど泥臭い生命の熱気を放ちながら息をしている、完全な生身の来栖紗理奈。
「……紗理奈……」
私は震える右手を伸ばした。
指先が、彼女の濡れた頬に触れる。
「本当に……紗理奈なの……? 私、死んで……幻を見てるんじゃないの……?」
「幻じゃないよ……っ」
紗理奈の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ち、私の手のひらを濡らした。
「幻なわけないでしょ……! どうして……どうしてここにいるのよぉ、真紀ちゃん……! 私、手紙に書いたのに……完璧な世界に戻ってねって、満点を取ってねって言ったのに……! どうして、こんなボロボロになって……死にそうになりながら、海なんかに来てるのよぉ……っ!」
紗理奈は私の胸元に縋り付き、子供のように泣き叫んだ。
その体温。
その心臓の脈動。
私の胸板を通して、彼女が確かに「生きている」という熱い事実が、暴力的なまでの質量を持って流れ込んでくる。
――カチリ、と。
私の心の中で、何かが完全に崩壊した。
十七年間、安藤家の冷酷な食卓で一度も流さなかった涙。
感情のスイッチを切り、機械化することで守ってきた私の心の防壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
「……戻れるわけ、ないでしょぉぉぉ……っ!」
私の喉の奥から、自分でも聞いたことのないような、引き裂かれた獣のような絶叫が迸り出た。
私は紗理奈の華奢な身体を正面から抱きすくめ、その背中に爪を立てるほどの力で抱きしめ返した。
「あなたがいない世界で……! 誰のための満点を取れって言うのよ……っ! 誰のために数式を解けって言うのよぉ……っ!」
「真紀、ちゃん……?」
「ごめんなさい……! ごめんなさい、紗理奈……っ!」
私は彼女の首元に顔を埋め、ボロボロと溢れ出す涙で彼女の素肌を濡らしながら、魂の底に溜まっていた毒のすべてを吐き出した。
「私が……私が神様になろうとしたから……! 安藤家で誰にも愛されなかった私が、あなたに褒められたくて、必要とされたくて……! あなたの傷を消して、毛穴を消して、完璧な人形に仕立て上げて……! 私が、あなたをあの部屋に閉じ込めて、息を吸えなくさせてたの……っ!」
クリニックの主治医の宣告。
隠しフォルダに遺されていた、泣きながら笑顔を練習していた『0042.mov』。
そして、実家の母親から見せられた、あの誇らしげな手紙の数々。
「全部、私のせいだった……! 世界一の味方の顔をしながら、あなたの首に真綿を巻き付けて、海へと突き落としたのは私だったの……っ! あなたが私を救おうとしてくれていたのに、私は足元のあなたの苦しみに、一ミリも気づかなかった……! ごめんなさい……っ、ごめんなさい、紗理奈ぁぁ……っ!」
過呼吸になりながら、狂ったように自責の言葉を叫び続ける私。
優等生の仮面も、特進のプライドも、知性もすべて脱ぎ捨てて、ただの愚かで、醜悪な加害者として泣き崩れる私の頭を。
――ぎゅっ、と。
紗理奈の両腕が、優しく、力強く包み込んだ。
「……違うよ、真紀ちゃん」
耳元に届いたのは、震えながらも、驚くほど澄み切った穏やかな声だった。
紗理奈は私の濡れた黒髪に顔を埋め、涙を流しながら、けれど力強い声で囁いた。
「真紀ちゃんは、私を殺しかけてなんかないよ。……私ね、あの日、身一つでこの町に逃げてきて……海を見て、ずっと考えてたの」
紗理奈の細い指先が、私の背中を優しく撫で下ろす。
あの夏休みの路地裏で、私が彼女にしてあげたのと同じリズムで。
「私、中学の時、この傷のせいで……金髪のせいで、誰にも愛されなくて、死に損なって……東京に行けば、完璧になれば、みんなに愛してもらえるって思い込んでた。だから、真紀ちゃんが魔法をかけてくれた時、本当に嬉しかったの。真紀ちゃんの作ってくれた私が、世界で一番誇らしかった」
紗理奈は私の身体を少し離し、涙で濡れた私の両頬を、自分の泥と潮にまみれた両手で包み込んだ。
至近距離で見つめ合う、淡い蜂蜜色の瞳。
そこには、以前のような怯えや、見捨てられることへの恐怖は、欠片も宿っていなかった。
「でもね、真紀ちゃん。……満点なんて、いらなかったんだよ」
「……え……?」
「百点じゃなくてよかったの。何万人もの大衆の称賛も、タイアップのお金も、完璧なレタッチも……そんなもの、最初から全部いらなかったの」
紗理奈は泣き笑いのような、美しく歪んだ笑顔を浮かべた。
「私、ただ……真紀ちゃんに隣にいてほしかっただけなの。真紀ちゃんと手を繋いで、冷たい指先を温め合って……一緒にご飯を食べて、『今日も生きてて偉いね』って、笑い合いたかっただけなの」
胸の奥が、激しく熱を帯びて震えた。
「神様にならなくていいよ、真紀ちゃん。完璧なプロデューサーじゃなくていい。……泥だらけで、間違えてばっかりで、泣き虫な……生身の真紀ちゃんでいいの。私を救うためじゃなくて、ただ……真紀ちゃん自身のために、ここで息をしててほしいの」
「紗理、奈……」
「生きててくれて、ありがとう。……私を見つけてくれて、ありがとう、真紀ちゃん」
紗理奈の額が、私の額へとこつんと重ね合わされた。
互いの流す涙が混ざり合い、熱い体温が、隙間なく溶け合っていく。
――ドクン、ドクン、と。
二つの傷だらけの心臓が、防潮堤の日陰の中で、完全に同じリズムを刻み始めていた。
止まったのだ。
あの夜から、底なしの暗闇へと沈み続けていた私の精神の沈降が。
冷たい引き波の深海へと引きずり込まれそうになっていた私の魂が。
この、泥だらけで、傷だらけの少女の温もりによって、完全に、その落下を止めたのだ。
外洋の波の轟音が、どこか遠い世界の祝福のように響いていた。
私たちは防潮堤の冷たいコンクリートに寄り添い合いながら、互いの生身の体温を確かめ合うように、強く、強く抱き締め合い続けた。




