第30話:『海辺の宿り木と泥の素肌』
防潮堤を背に、私たちは松林の細い砂利道を並んで歩いていた。
びしょ濡れのジーンズが重たく足にまとわりつき、一歩踏み出すごとにスニーカーからグショリと海水が滲み出す。
けれど、私の右手は、紗理奈の温かい右手にしっかりと握られていた。
指先が、隙間なく絡み合っている。
冬の朝、秀明館の凍えきった廊下のポケットの中で温め合っていたあの手。
けれど今、絡み合っている手には、あの頃のような凍える恐怖も、他人の目を盗むような後ろめたさもなかった。汗と砂と海水にまみれた、ただの生身の熱だけが、痛いほど直接に通い合っていた。
「……ここだよ、真紀ちゃん」
松林を抜けた先、海沿いの崖下にしがみつくように建つ、一軒の木造平屋の前に辿り着いた。
潮風に長年晒されて黒ずんだ杉板の外壁。庭先には手入れされた家庭菜園と、天日干しにされた緑色の漁網が物干し竿に揺れている。
東京のオートロック付きマンションとも、安藤家の冷たい要塞とも違う、生活の匂いが染み付いた古い家だった。
「ただいま戻りましたー!」
紗理奈が土間の引き戸をガラガラと開けると、奥の台所から、ペタペタと素足で歩く足音が聞こえてきた。
「おや、紗理奈かい。朝の散歩にしちゃあ遅かったねぇ……って、なんだいその様は!」
姿を現したのは、小柄な老婦人だった。
深く刻まれた顔の皺と、日焼けした赤銅色の肌。腰に手拭いを下げたその姿は、かつてこの海で荒波と渡り合ってきた元漁師の風格を漂わせていた。
この家の主、トメさん。
数日前、身一つで行き倒れかけていた紗理奈を拾い上げ、飯を食わせて泊めてくれたという人だった。
「トメさん、ごめんなさい……! あの、この子……」
紗理奈は私の手を強く引き、トメさんの前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「私の、世界で一番大切な親友の、安藤真紀ちゃんです。……東京から、私を探しに来てくれました。お願いです、二人でお手伝いも何でもしますから、真紀ちゃんも一緒にここにいさせてください!」
私もまた、ずぶ濡れのまま土間に膝をついた。
「……突然の訪問、申し訳ありません。ご迷惑をおかけすることは重々承知していますが――」
「はいはい、小難しい挨拶はおしまい!」
トメさんは私の言葉を遮ると、腰に手を当てて、呆れたように大きなため息をついた。
「東京のお嬢ちゃんたちは揃いも揃って、どうしてそう海へ飛び込みたがるのかねぇ。……靴を脱ぎな。泥だらけの服で土間に上がられたら掃除が大変だ。事情なんざ後回しだ、腹が減ってちゃ戦はできねぇし、身体を冷やしたら風邪を引く。早く風呂に入って潮を落としてきな!」
「……え」
私が顔を上げると、トメさんはクシャリと顔を崩して笑った。
「生きてるなら、上等だ。ほら、薪風呂沸かしてあるよ。さっさと行きな!」
*
母屋の裏手にある、離れの風呂場。
トタン屋根の下、薪で沸かされた大きな丸い五右衛門風呂から、もうもうと白い湯気が立ち上っていた。
薪の燃える香ばしい煙の匂いと、熱い湯の匂い。
「……ふふ、真紀ちゃん、髪に海藻ついてる」
「紗理奈こそ、鼻の頭に砂がついてるよ」
脱衣所で濡れた服を脱ぎ捨てながら、私たちは顔を見合わせて、思わず小さく吹き出した。
秀明館の優等生でもなく、何万人ものフォロワーを抱えるアイドルでもない。
ただの、波に呑まれて泥だらけになった、二人のずぶ濡れの少女。
服をすべて脱ぎ去り、洗い場のコンクリートの上に立つ。
湯気の中に浮かび上がった紗理奈の身体を、私は息を呑んで見つめた。
そこには、何の嘘もなかった。
夏の太陽に焼かれた健康的な小麦色の肌。
そして、両腕の手首の内側、そして太ももの側面に白く刻まれた、幾重もの皮膚の古傷。
中学時代、暗闇の中で自分を引き裂こうとした痛ましい記憶の痕跡。
あのワンルームで、私が拡大率五〇〇%の狂気で消去し続けた傷跡が、今、白く濁った湯気の中で、堂々と空気に晒されていた。
「……見て、真紀ちゃん」
紗理奈は自分の手首を持ち上げ、少し恥ずかしそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。
「トメさんにね、最初に見つかった時、怒られたの。『生きてりゃ傷の二つや三つできるわい、隠す暇があったら飯食って血肉にしな』って。……そしたらね、不思議と、隠さなくても平気になっちゃった」
「……綺麗だよ、紗理奈」
私の喉から、自然と言葉が零れ落ちていた。
「レタッチなんてしなくても……傷があっても、紗理奈は世界一綺麗だよ」
「真紀ちゃん……」
私たちは手桶でお湯を汲み、互いの身体にかけ合った。
ザバァ、と熱い湯が肌を伝い、こびりついていた冷たい塩水と泥の粒子を、洗い流していく。
紗理奈がタオルに石鹸を泡立て、私の背後に回った。
「真紀ちゃん、背中流すね」
「うん」
柔らかなタオルの感触と、石鹸の清潔な香りが、私の背中を優しく撫でていく。
私の痩せ細った背中。肋骨が浮き、安藤家のプレッシャーと絶食で擦り切れていた私の生身を、紗理奈の手が、慈しむように一撫で一撫で洗っていく。
「真紀ちゃん、すごく痩せちゃったね……。ちゃんとご飯、食べてなかったでしょ」
「……味が、しなくなっちゃって。水も、喉を通らなかった」
「もう大丈夫だよ。私が、いっぱい美味しいもの食べさせてあげるからね」
紗理奈の手のひらの熱が、お湯の温もりとともに、強張っていた私の筋肉と神経を、芯から解きほぐしていく。
次は私が、紗理奈の背中を流した。
華奢な肩甲骨、柔らかなうなじ、そして手首の古傷。
傷口をなぞるように泡を滑らせると、紗理奈はくすぐったそうに喉を鳴らした。
二人で五右衛門風呂の湯船に肩まで浸かる。
――あぁ、と同時に吐息が漏れた。
熱い湯が、つま先から指先まで、全身の毛細血管を解凍していく。
湯船の中で、自然と重なり合う二人の手。
そこにはもう、ポケットの暗闇も、カメラの死角も必要なかった。
*
風呂から上がり、トメさんが貸してくれた古い木綿の浴衣とTシャツに着替えて母屋へ戻ると、台所からパチパチと魚の焼ける香ばしい音が響いていた。
「ほら、上がったかい。これでも食いな」
居間のちゃぶ台の上に並べられていたのは、豪勢なディナーでも、洗練されたカフェメニューでもなかった。
土鍋で炊かれた湯気の立つ白米。
庭の菜園で採れたばかりの、まだ泥の匂いが残るきゅうりの浅漬け。
七輪でじっくりと焼き上げられた、脂の乗ったアジの干物。
そして、煮干しの深い出汁が香る、具沢山の味噌汁。
「いただきます……」
私は正座し、震える手で木のお椀を持ち上げた。
ふうふうと息を吹きかけ、味噌汁を一口、口に含む。
「――ッ」
舌の上に触れた瞬間、私の心臓が熱く跳ね上がった。
塩気。
煮干しの芳醇な旨味。
大根の甘み。
エナジードリンクのケミカルな味でも、冷めきったポタージュの灰の味でもない。
命を維持するために、大地と海から届けられた、本物の「味」が、麻痺していた私の味蕾を強烈にノックした。
「……あ……」
ポタポタと、お椀の縁に私の涙が落ちた。
味がする。
温かい。
美味しい。
「真紀ちゃん……?」
隣でアジの身をほぐしていた紗理奈が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……美味しいの」
私は涙を拭うこともせず、味噌汁をもう一口啜り、白米を口いっぱいに頬張った。
「すごく……すごく、美味しい……っ」
「良かったねぇ」
トメさんが番茶を啜りながら、目を細めて笑った。
「生きてるってのは、飯が美味いってことだよ。泣きながらでも食えるなら、もう大丈夫だ」
夕暮れの海風が、開け放たれた縁側の風鈴をチリンと鳴らした。
秀明館の教室も、安藤家の冷酷な食卓も、大衆の品定めるタイムラインも、もうここには届かない。
私たちは、病の檻を抜け出したのだ。
傷だらけで、不完全な素肌のまま、泥臭い生身の人間として呼吸を取り戻すための、新しい日々の扉が、今、静かに開かれようとしていた。




