第31話:『朝露の縁側と塩の味』
障子を透かして差し込む白んできた朝の光と、遠い潮騒の音で、私は目を覚ました。
安藤家の自室にあった、遮光カーテンに閉ざされた人工的な暗闇ではない。
畳の隙間から立ち上る井草の匂いと、海から吹き込む湿り気を帯びた朝露の気配。
隣に目をやると、同じ敷布団の端で、紗理奈が小さく柔らかな寝息を立てていた。
乱れた蜂蜜色の髪が白いシーツに広がり、無防備に放り出された腕には、あの皮膚の古傷が朝の光に照らされている。
悪夢に怯える過呼吸も、夜中に薬を探す指先の震えもない。ただ、生身の命を静かに休めるための、本物の眠りがそこにあった。
「――おーい、二人とも起きな! 朝飯前にひと仕事だよ!」
土間から響くトメさんの太いダミ声に、紗理奈がパチリと目を瞬かせた。
「……ん……朝……?」
「おはよう、紗理奈」
「……えへへ、真紀ちゃんのおはよう、久しぶりに聞けた……」
紗理奈はふにゃりと口元を緩めると、私の胸元に額をすり寄せて小さく伸びをした。
時計の針は、まだ午前五時を少し回ったところだった。
*
朝の労働は、秀明館のどんな過酷な模試よりも、泥臭く、そして鮮烈だった。
「ほら、真紀ちゃんは井戸水汲んで庭に打ち水! 紗理奈は魚の開きを網に並べな!」
「「はい!」」
トメさんに指示され、私は庭の隅にある手押しの井戸ポンプの前に立った。
鉄のレバーを力いっぱい上下させる。ギィ、ギィ、と鈍い軋み音を立てたあと、ドボドボと冷たい地下水がバケツへと溢れ出した。
手を浸す。
――ッ、と息を呑むほどの冷たさ。
水道の塩素の匂いではない、大地のミネラルを含んだ清冽な水が、私の皮膚を鋭く引き締めていく。柄杓で水を掬い、乾いた庭石や菜園の土へと撒くたびに、ジュッと音を立てて土の匂いが立ち上った。
ふと振り返ると、木箱の前にしゃがみ込んだ紗理奈が、一心不乱に作業をしていた。
白の木綿Tシャツの袖を肩の付け根まで思い切り捲り上げ、両腕の手首の古傷を朝日の中に堂々と晒している。
塩水に浸けられたアジやカマスの開きを、小さな手で丁寧に掴み、天日干し用の青いネットの上に等間隔で並べていく。
「紗理奈、手首、染みない?」
私が駆け寄って声をかけると、紗理奈は額の汗を腕の甲で拭いながら、満面の笑顔を向けてきた。
「全然平気! ちょっとピリッとするけど、なんかね、海に洗われてるみたいで気持ちいいよ!」
あの部屋で、誰かに見られることを極限まで恐れ、コンシーラーを何重にも厚塗りしていた少女の姿は、そこには欠片もなかった。
魚の生臭さも、塩水の刺激も、泥の汚れも、すべてを丸ごと受け止めて、彼女は生き生きと笑っていた。
その後は、家庭菜園の草むしりだった。
トメさんに教わりながら、トマトやナスの根元に生えた雑草を、指先を泥だらけにして引き抜いていく。
「真紀ちゃん、見て! ミミズがいる!」
「土が良い証拠だよ。……あ、紗理奈、それ抜いちゃダメ、ナスの新芽」
「えっ、嘘!? ごめんナスさん!」
笑い声が、朝の松林へと吸い込まれていく。
誰かを蹴落とすための偏差値も、大衆の機嫌を伺うアルゴリズムも、ここには存在しない。
ただ、今日一日を生きるために、土に触れ、水を引き、魚を干す。
その原始的で素朴な労働が、凍りついていた私の知性と肉体の強張りを、一段ずつほどいていくのを感じていた。
*
「よし、よく働いたね。縁側に座りな」
七時半を回った頃、トメさんが母屋から、竹の皮に包まれた包みを持って現れた。
私たちは井戸水で泥だらけの手足を洗い流し、庭に面した縁側に並んで腰を下ろした。
トメさんが竹の皮を開く。
そこに置かれていたのは、大人の両手でも余るほどの、巨大な黒海苔のおにぎりが三つだった。
「おにぎり……! トメさん、すっごく大きい!」
「当たり前だよ、腹が減ってちゃ力が出ねぇだろ。塩と海苔だけだが、かまどで炊いた新米だ。食いな」
私は、両手でおにぎりを持ち上げた。
ずっしりとした重み。
竹の皮から立ち上る湯気と、パリッとした海苔の香ばしい磯の香り。表面には、荒削りな粗塩の白い結晶がキラキラと光っている。
口を大きく開け、端から思い切りかぶりついた。
「――ッ」
米粒の一粒一粒が、熱い弾力を持って舌の上でほどけていく。
噛み締めるたびに溢れ出す、米本来の濃厚な甘み。
そして、それを引き立てる、ガツンと舌を打つ力強い塩気。
ただの、塩むすび。
具材も入っていない、米と塩と海苔だけの塊。
けれど、その暴力的なまでの「命の味」が、乾ききっていた私の五臓六腑へと、ダイレクトに染み渡っていった。
「……ん……っ」
喉が詰まり、またしても瞳から涙が零れ落ちそうになるのを、私は懸命に咀嚼することで押し止めた。
パウチのゼリー飲料を喉に流し込み、エナジードリンクで空腹を誤魔化し、食事を「ただの燃料」として処理していた、あの東京の灰色の自室。
父の顔色を窺いながら、冷めたスープを飲み込んでいたあの食卓。
あんな場所で、私は息をしていたつもりになっていたのだ。
「真紀ちゃん、美味しいね!」
隣で口の周りに米粒をつけた紗理奈が、リスのように頬を膨らませて笑った。
「うん……すごく、美味しい」
「私、こんなに美味しいおにぎり、生まれて初めて食べたかも!」
「ガツガツ食いな。米粒残したらバチが当たるよ」
トメさんが番茶を差し出しながら、からからと喉を鳴らして笑う。
縁側の風鈴が、海風を受けてチリンと澄んだ音を響かせた。
足元には、太陽に温められた庭石。
見上げる空は、吸い込まれそうなほど深い夏の青。
腕には日焼けの微かな熱と、潮風の匂い。
特進トップの席次も。
何万人ものフォロワーの数字も。
安藤家の名門の看板も。
何ひとつ持っていない、ただの泥だらけの二人の女子高生が、縁側で大きな塩むすびを頬張っている。
何者でもない。
私たちは、世界中の誰にとっても、何の役にも立たない存在になってしまった。
なのに――なぜだろう。
私の胸の奥は、これまで生きてきた十七年間の中で、最も深く、最も温かく、完璧に満たされていた。
「……ねぇ、真紀ちゃん」
最後のお米の一粒を飲み込んだ紗理奈が、麦茶を一口飲んで、静かに空を見上げた。
「ん?」
「今日ね、夕方になったら……海、行こっか」
紗理奈の横顔。
その瞳には、穏やかで、けれど確固たる強さを秘めた光が宿っていた。
「うん。……行こう」
私は自分のリュックサックの奥にある、あの重たいノートPCと外付けHDDの感触を思い出していた。
二人を縛り、二人を壊しかけた、あの完璧な虚像の記録たち。
生身の呼吸を取り戻した私たちが、次に何をすべきなのか。
言葉にしなくても、二人の心は、完全に同じ答えを導き出していた。




