第32話:『偶像の沈没』
夕暮れの空は、まるで世界中の絵の具を溶かしたように、燃えるような茜色と深い群青色に染まり上がっていた。
防潮堤のコンクリートの上に、私たちは並んで足を投げ出して座っていた。
足元では、満潮を迎えた外洋の荒波が、白い飛沫を上げながら防波堤を激しく噛み砕いている。
吹き抜ける潮風は昼間の生ぬるさを失い、少しだけ肌寒さを帯びて、私たちの髪を激しく乱していた。
私の膝の上には、東京から持ってきた愛用のノートPC。
そして、その横に置かれた、手のひらサイズの漆黒の直方体――紗理奈の部屋から回収してきた、四百八十ギガバイトの大容量外付けハードディスク。
「……開けるね」
「うん」
私はUSBケーブルをノートPCの側面に差し込み、エクスプローラーを立ち上げた。
画面いっぱいに展開される、整然と並んだフォルダの群れ。
【2025_Spring_Lookbook】
【Lumina_Tie-up_Final】
【Live_Stream_Archive_150K】
【Retouch_Raw_500%】
サムネイルの一枚一枚をクリックする。
そこに映し出されていたのは、私が何百時間もの睡眠を削り、ドット単位で傷を消し、毛穴を埋め、光の階調を極限まで計算し尽くして作り上げた、完璧な「さりなちゃん」の姿だった。
陶器のように滑らかな白い肌。
一分の狂いもなく調律された、鈴を転がすような笑顔。
何万人もの大衆が熱狂し、数十万円の資本が振り込まれ、そして私たちの首を真綿のように絞め上げた、至高の偶像。
画面を見つめる紗理奈の横顔を、夕暮れの赤い光が照らし出していた。
日焼けした素肌。風に乱れた蜂蜜色の髪。肘まで捲り上げた腕に刻まれた、白く凹凸のある古傷。
画面の中のアンドロイドと、私の隣にいる生身の少女。
二つの存在を交互に見つめ、紗理奈は穏やかに目を細めた。
「……この子、すごく可愛いね」
「うん。世界一、完璧な女の子だよ」
「あの日、真紀ちゃんが作ってくれた私。……この子がいてくれたから、私、東京で一人ぼっちじゃなかった。真紀ちゃんに見つけてもらえた」
紗理奈は画面にそっと指先を伸ばし、液晶の中の自分の笑顔を優しく撫でた。
けれど、その声には、執着も未練も一ミリも混ざっていなかった。
それは、役目を終えた古いお守りに、感謝を告げるような声だった。
「でも、もうおしまい。……この子は、私の神様じゃなくて、ただの私が背負えなかった重荷だったんだもんね」
「そうだね。大衆のために、もう笑わなくていい。満点じゃなくていいんだよ」
私はマウスカーソルを動かし、外付けHDDのドライブアイコンの上に合わせた。
右クリック。メニューから【フォーマット】を選択する。
【警告:このドライブをフォーマットすると、すべてのデータが完全に消去されます。よろしいですか?】
画面に現れた、無機質なダイアログボックス。
私はトラックパッドの上に右手を置いた。
その上から、紗理奈が自分の温かい右手を、隙間なく重ねてきた。
二人の指先が重なり合い、カーソルが【はい】のボタンへと吸い寄せられる。
「せーの」
「せーの」
カチリ、と小さなクリック音が響いた。
プログレスバーが、一気に右へと駆け抜けていく。
四百八十ギガバイト。
何千時間ものタイムライン。何万枚ものレタッチデータ。何万人もの大衆のコメントのログ。
私たちが命を削って積み上げてきた完璧な虚像が、わずか五秒足らずの間に、ただのゼロと一の電子の塵となって消滅していった。
【フォーマットが完了しました】
画面が空っぽになり、青白いウィンドウだけが点滅する。
これで、論理的なデータは消去された。
けれど――。
紗理奈は、ノートPCの側面に差し込まれていたUSBケーブルへと手を伸ばした。
そして、迷うことなく、指先に力を込めて引き抜いた。
プツン。
乾いた接続解除の音が、潮風の中に響いた。
「真紀ちゃん」
紗理奈は、手のひらの上の黒い金属の箱――外付けHDDを両手で包み込んだ。
ずっしりとした、物理的な質量。
私たちが背負い、首を絞め合ってきた重圧の塊。
「これ、海に捨てちゃお」
「……え?」
「データは消えても、この箱がある限り、なんだかまだ私たちを縛ってる気がするもん。海に返してあげよう。あの日、真紀ちゃんを呑み込もうとした、あの深い海の底へ」
紗理奈のいたずらっぽい瞳が、夕日を浴びてキラキラと輝いていた。
私は目を見張り、それから喉の奥から、くすりと笑い声を漏らした。
「合理的じゃないね」
「いいの! 不完全なんだから!」
紗理奈の手の上から、私は自分の両手を重ねた。
黒く冷たい金属の箱を挟んで、二人の体温が混ざり合う。
私たちは防潮堤のコンクリートの上に立ち上がり、海に向かって身体を開いた。
目の前に広がる、夕暮れの太平洋。
茜色の空の下、砕け散る巨大な白波。
かつて、私の精神が沈みかけ、私の命を呑み込もうとしていた、あの暗い深海。
「せーの、で投げるよ!」
「うん!」
私たちは大きく息を吸い込み、腕を後ろへと限界まで振りかぶった。
防潮堤のコンクリートを、スニーカーの底で力いっぱい蹴りつける。
「せーーのっっ!!!!」
二人の叫び声とともに、全身の筋肉を軋ませて、夕暮れの海へ向かって腕を振り抜いた。
ヒュンッ、と風を切る音。
放物線を描いて飛んでいく、黒い直方体。
それは燃えるような夕日を一瞬だけギラリと反射し、空を舞い――。
――ドボンッ!!
砕け散る白波の真ん中へと吸い込まれ、白い水しぶきをひとつ上げて、深い、深い海の底へと沈んでいった。
ざざぁぁぁぁん、と。
次の大波が、その水しぶきを一瞬にして呑み込み、何事もなかったかのように平らな海面へと均していく。
かつて私を呑み込もうとした深海の底へ。
もう二度と、誰の目にも触れない場所へ。
二人の偶像は、永遠に埋葬された。
突風が吹き抜け、私たちの髪を激しく乱していった。
空っぽになった自分の手のひらを見つめ、紗理奈がポカンと口を開けた。
そして――。
「……あははははっ! 投げちゃった! 本当に投げちゃった!」
紗理奈がお腹を抱えて、防潮堤の上で転がるように笑い出した。
涙を流しながら、声を張り上げて、喉の奥から本物の笑い声を響かせている。
「投げちゃったね……っ!」
私も笑っていた。
安藤家の食卓でも、秀明館の教室でも、一度たりとも出したことのなかった、腹の底からの大きな笑い声。
「あはは……! 高かったのに、あのアメリカ製の頑固なハードディスク……!」
「いいの! さよなら、さりなちゃん! さよなら、何十万人のフォロワー!」
紗理奈は海に向かって両手を広げ、思い切り叫んだ。
「私たち、何者でもなくなったよーーーっ!!」
何者でもない。
インフルエンサーでも、特進トップでもない。
ただの、夕暮れの海辺で笑い転げる、二人の泥だらけの少女。
私たちは防潮堤に座り直し、互いの肩をぶつけ合って笑い続けた。
夕日が水平線の向こうへと沈み、空が群青色から深い藍色へと溶けていく。
重ね合わせた二人の手のひらは、全力で腕を振り抜いた痛烈な余韻で、ジンジンと痛いほど熱かった。




