第33話:『傷痕のハンドクリームとお守り』
夜の帳が下りた海辺の平屋は、虫の音と遠い波の音だけに包まれていた。
早寝のトメさんが奥の部屋で寝静まったあと、私たちは母屋の縁側に並んで腰を下ろしていた。
庭の隅に置かれた陶器の蚊遣り豚から、細い青い煙が一本、ゆらゆらと夜気の中へ立ち上っている。
どこか懐かしい除虫菊の煙の匂いと、夜露に濡れた草の匂い。
昼間の労働で少し赤く火照った腕を、海から吹き上げる夜風が優しく撫でていく。
私の膝の上には、あの黒いリュックサックから取り出した、二つの小さな品物が置かれていた。
一つは、手のひらサイズの擦りガラスのオーガニックハンドクリーム。
もう一つは、十錠の白い錠剤が一錠も欠けることなく並んだ、銀色の頓服薬シート。
「……これ、ずっと持っててくれたんだね」
私の隣で、木綿の浴衣の袖をパタパタと仰いでいた紗理奈が、擦りガラスの小瓶にそっと触れた。
「東京の部屋から、回収してきたの。……置いていっちゃったから」
「ごめんね。あの時は……真紀ちゃんから貰った宝物まで持っていったら、私が真紀ちゃんを縛り付けちゃうような気がして……置いていくしかなかったの」
「もう、謝らなくていいよ」
私はボトルのキャップを外し、ポンプを二回、手のひらに押し込んだ。
とろりとした乳白色のクリームが、私の手のひらに落ちる。
夜の縁側にふわりと広がる、清潔なラベンダーと穏やかな柑橘の精油の香り。
あのバレンタインの甘いカカオの部屋で、そして第三症の夕暮れの無人駅で一人泣きながら嗅いだ、あの香り。
「紗理奈、手、出して」
「うん」
紗理奈が差し出してきた両手を、私は自分の両手で包み込んだ。
昼間の魚干しの塩水と、草むしりの土で、少しだけカサついた指先。爪の生え際には、一生懸命に生きてきた人間らしい細かなささくれがある。
私はクリームを温めながら、彼女の指先から手の甲、そして手首へと、ゆっくりと丁寧に塗り広げていった。
長袖の萌え袖はない。
露わになった手首の皮膚には、中学時代に刻まれた、白く硬い古傷の凹凸がはっきりと残っている。
かつて、私が拡大率五〇〇%の画面越しに「消去」しようとした傷跡。
他人の好奇の目から隠さなければならないと信じ込んでいた、痛ましい過去の痕跡。
「……痛くない?」
「ううん。すっごく、あったかい」
紗理奈は目を細め、私の指先の動きをじっと見つめていた。
私の手のひらが、彼女の傷痕を包み込む。
隠すためでも、塗り込めるためでもない。
今日まで必死に、傷つきながらも生き延びて、この海辺の縁側まで辿り着いてくれた彼女の生身を、ただ愛おしむための手当て。
「今度は、真紀ちゃんの番ね」
紗理奈がボトルを受け取り、自分の手のひらにクリームを取った。
そして、私の両手を引き寄せると、指の間を絡めるようにして揉み込んでくれた。
安藤家で何万問もの数式を解き、秀明館の模試で鉛筆を握りしめ続けた私の右手の、固くなったペンダコ。
深夜までマウスを握りしめ、キーボードを叩き続けた私の強張った指先。
それを、紗理奈の温かい手のひらが、優しく、柔らかく解きほぐしていく。
「真紀ちゃんの手、まだちょっと冷たいね」
「外気温が下がってきたから」
「ふふ、またそういう理屈言う。……でもね、前よりずっと柔らかいよ。東京にいた頃の真紀ちゃんの手は、本当に陶器みたいにカチコチだったもん」
紗理奈は私の指先をぎゅっと握り締め、自分の頬へと押し当てた。
柔らかな皮膚の熱が、私の掌にじんわりと伝わってくる。
お互いの傷を晒し合い、お互いの手のひらを労り合う。
二人の間にあったはずの「プロデューサーと演者」という歪な境界線は、もうどこにも存在しなかった。
私は視線を落とし、縁側の板の間に置かれた、もう一つの品物を見つめた。
銀色に鈍く光る、十錠の頓服薬シート。
「……紗理奈。この薬、どうする?」
私が尋ねると、紗理奈は私の手から顔を離し、銀色のシートをじっと見つめた。
「捨てる? あのハードディスクみたいに、海に投げる?」
「ううん」
紗理奈は静かに首を横に振った。
そして、小さな手で銀色のシートを拾い上げ、両手で大切そうに包み込んだ。
「捨てないよ。これ、持っておく」
「持っておくの?」
「うん。お守りにして、リュックのポケットに入れておくの」
紗理奈は夜の庭を見つめ、穏やかな声で言葉を紡いだ。
「私ね、きっとこれからも、たまに怖くなると思うの。夜に急に息が苦しくなったり、中学の教室の夢を見たり、ネットの悪口を思い出して、心臓がバクバクしたりすると思う。……心の病気って、海に来たからって、魔法みたいに一瞬でゼロにはならないもんね」
胸の奥が、静かに打たれた。
完治。満点。ゼロか百か。
それは、安藤家が私に強いてきた成果主義と同じ狂気だ。
病気を完全に消し去らなければならない、弱音を吐いてはならない、完璧な笑顔に戻らなければならないという強迫観念こそが、彼女を追い詰めていたのだから。
「だからね、発作が出たら、この薬を飲めばいいんだって思うの。薬に頼ってもいいし、泣いてもいいし、真紀ちゃんに『苦しいよ』って甘えてもいい。……完璧に治らなくても、不完全なまま、薬を安全綱にして、息をしてていいんだもんね」
「……うん。そうだよ、紗理奈」
私の目頭が、熱くなった。
「薬があってもなくても。完璧に治っても、治らなくても。……紗理奈は、ここにいていいんだよ」
「えへへ。だから、これは捨てないの。私を守ってくれる、小さなお守り」
紗理奈は銀色のシートを大事そうに巾着袋へと仕舞い込んだ。
日常を破綻させないための命綱。
かつては「弱さの証明」として怯えていたその小さな錠剤が、今、彼女にとって「不完全な生を肯定するためのお守り」へと昇華されていた。
「ねぇ、真紀ちゃん。これからのことなんだけどね」
紗理奈が、縁側に肘をついて私を見上げた。
「トメさんに聞いたの。この町の近くの港に、水産加工場があるんだって。そこでアルバイト募集してるらしいよ。私、そこで働いてみたい。魚を捌くの、今日やってみたら結構楽しかったし」
「加工場……いいね。私も一緒に働くよ。二人で働けば、家賃も生活費もちゃんと稼げる」
「うん! それでね、通信制の高校のパンフレット、役場にあるってトメさんが言ってた。二人で通信制のレポート出して、高卒の資格取ろ? 真紀ちゃんが勉強教えてくれたら、私、絶対に卒業できるもん」
「任せて。世界一分かりやすい解説シートを作ってあげる」
「わぁ、心強い!」
紗理奈が無邪気に笑う。
東大でも、国立医学部でもない。
何万人からの称賛も、企業の数十万円のタイアップもない。
海辺の町で魚を加工し、通信制のレポートを広げ、泥臭く、等身大の足取りで歩んでいく未来の青写真。
それは、安藤家のレールの上には決して存在しなかった、けれど私たちが自分の意志で選び取った、本物の人生の設計図だった。
「真紀ちゃん、ずっと一緒だよ」
「うん。ずっと一緒」
重なり合う二人の手のひらには、ラベンダーの優しい香りと、生身の温もりが満ちていた。
蚊取り線香の煙が、満天の星空へと溶けていく。
遠い波の音が、私たちの新しい呼吸を祝福するように、静かに、一定のリズムを刻み続けていた。




