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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第5章 不完全証明式

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第33話:『傷痕のハンドクリームとお守り』

 夜の帳が下りた海辺の平屋は、虫の音と遠い波の音だけに包まれていた。

 早寝のトメさんが奥の部屋で寝静まったあと、私たちは母屋の縁側に並んで腰を下ろしていた。

 庭の隅に置かれた陶器の蚊遣り豚から、細い青い煙が一本、ゆらゆらと夜気の中へ立ち上っている。

 どこか懐かしい除虫菊の煙の匂いと、夜露に濡れた草の匂い。

 昼間の労働で少し赤く火照った腕を、海から吹き上げる夜風が優しく撫でていく。

 私の膝の上には、あの黒いリュックサックから取り出した、二つの小さな品物が置かれていた。

 一つは、手のひらサイズの擦りガラスのオーガニックハンドクリーム。

 もう一つは、十錠の白い錠剤が一錠も欠けることなく並んだ、銀色の頓服薬シート。

「……これ、ずっと持っててくれたんだね」

 私の隣で、木綿の浴衣の袖をパタパタと仰いでいた紗理奈が、擦りガラスの小瓶にそっと触れた。

「東京の部屋から、回収してきたの。……置いていっちゃったから」

「ごめんね。あの時は……真紀ちゃんから貰った宝物まで持っていったら、私が真紀ちゃんを縛り付けちゃうような気がして……置いていくしかなかったの」

「もう、謝らなくていいよ」

 私はボトルのキャップを外し、ポンプを二回、手のひらに押し込んだ。

 とろりとした乳白色のクリームが、私の手のひらに落ちる。

 夜の縁側にふわりと広がる、清潔なラベンダーと穏やかな柑橘の精油の香り。

 あのバレンタインの甘いカカオの部屋で、そして第三症の夕暮れの無人駅で一人泣きながら嗅いだ、あの香り。

「紗理奈、手、出して」

「うん」

 紗理奈が差し出してきた両手を、私は自分の両手で包み込んだ。

 昼間の魚干しの塩水と、草むしりの土で、少しだけカサついた指先。爪の生え際には、一生懸命に生きてきた人間らしい細かなささくれがある。

 私はクリームを温めながら、彼女の指先から手の甲、そして手首へと、ゆっくりと丁寧に塗り広げていった。

 長袖の萌え袖はない。

 露わになった手首の皮膚には、中学時代に刻まれた、白く硬い古傷の凹凸がはっきりと残っている。

 かつて、私が拡大率五〇〇%の画面越しに「消去」しようとした傷跡。

 他人の好奇の目から隠さなければならないと信じ込んでいた、痛ましい過去の痕跡。

「……痛くない?」

「ううん。すっごく、あったかい」

 紗理奈は目を細め、私の指先の動きをじっと見つめていた。

 私の手のひらが、彼女の傷痕を包み込む。

 隠すためでも、塗り込めるためでもない。

 今日まで必死に、傷つきながらも生き延びて、この海辺の縁側まで辿り着いてくれた彼女の生身を、ただ愛おしむための手当て。

「今度は、真紀ちゃんの番ね」

 紗理奈がボトルを受け取り、自分の手のひらにクリームを取った。

 そして、私の両手を引き寄せると、指の間を絡めるようにして揉み込んでくれた。

 安藤家で何万問もの数式を解き、秀明館の模試で鉛筆を握りしめ続けた私の右手の、固くなったペンダコ。

 深夜までマウスを握りしめ、キーボードを叩き続けた私の強張った指先。

 それを、紗理奈の温かい手のひらが、優しく、柔らかく解きほぐしていく。

「真紀ちゃんの手、まだちょっと冷たいね」

「外気温が下がってきたから」

「ふふ、またそういう理屈言う。……でもね、前よりずっと柔らかいよ。東京にいた頃の真紀ちゃんの手は、本当に陶器みたいにカチコチだったもん」

 紗理奈は私の指先をぎゅっと握り締め、自分の頬へと押し当てた。

 柔らかな皮膚の熱が、私の掌にじんわりと伝わってくる。

 お互いの傷を晒し合い、お互いの手のひらを労り合う。

 二人の間にあったはずの「プロデューサーと演者」という歪な境界線は、もうどこにも存在しなかった。

 私は視線を落とし、縁側の板の間に置かれた、もう一つの品物を見つめた。

 銀色に鈍く光る、十錠の頓服薬シート。

「……紗理奈。この薬、どうする?」

 私が尋ねると、紗理奈は私の手から顔を離し、銀色のシートをじっと見つめた。

「捨てる? あのハードディスクみたいに、海に投げる?」

「ううん」

 紗理奈は静かに首を横に振った。

 そして、小さな手で銀色のシートを拾い上げ、両手で大切そうに包み込んだ。

「捨てないよ。これ、持っておく」

「持っておくの?」

「うん。お守りにして、リュックのポケットに入れておくの」

 紗理奈は夜の庭を見つめ、穏やかな声で言葉を紡いだ。

「私ね、きっとこれからも、たまに怖くなると思うの。夜に急に息が苦しくなったり、中学の教室の夢を見たり、ネットの悪口を思い出して、心臓がバクバクしたりすると思う。……心の病気って、海に来たからって、魔法みたいに一瞬でゼロにはならないもんね」

 胸の奥が、静かに打たれた。

 完治。満点。ゼロか百か。

 それは、安藤家が私に強いてきた成果主義と同じ狂気だ。

 病気を完全に消し去らなければならない、弱音を吐いてはならない、完璧な笑顔に戻らなければならないという強迫観念こそが、彼女を追い詰めていたのだから。

「だからね、発作が出たら、この薬を飲めばいいんだって思うの。薬に頼ってもいいし、泣いてもいいし、真紀ちゃんに『苦しいよ』って甘えてもいい。……完璧に治らなくても、不完全なまま、薬を安全綱にして、息をしてていいんだもんね」

「……うん。そうだよ、紗理奈」

 私の目頭が、熱くなった。

「薬があってもなくても。完璧に治っても、治らなくても。……紗理奈は、ここにいていいんだよ」

「えへへ。だから、これは捨てないの。私を守ってくれる、小さなお守り」

 紗理奈は銀色のシートを大事そうに巾着袋へと仕舞い込んだ。

 日常を破綻させないための命綱。

 かつては「弱さの証明」として怯えていたその小さな錠剤が、今、彼女にとって「不完全な生を肯定するためのお守り」へと昇華されていた。

「ねぇ、真紀ちゃん。これからのことなんだけどね」

 紗理奈が、縁側に肘をついて私を見上げた。

「トメさんに聞いたの。この町の近くの港に、水産加工場があるんだって。そこでアルバイト募集してるらしいよ。私、そこで働いてみたい。魚を捌くの、今日やってみたら結構楽しかったし」

「加工場……いいね。私も一緒に働くよ。二人で働けば、家賃も生活費もちゃんと稼げる」

「うん! それでね、通信制の高校のパンフレット、役場にあるってトメさんが言ってた。二人で通信制のレポート出して、高卒の資格取ろ? 真紀ちゃんが勉強教えてくれたら、私、絶対に卒業できるもん」

「任せて。世界一分かりやすい解説シートを作ってあげる」

「わぁ、心強い!」

 紗理奈が無邪気に笑う。

 東大でも、国立医学部でもない。

 何万人からの称賛も、企業の数十万円のタイアップもない。

 海辺の町で魚を加工し、通信制のレポートを広げ、泥臭く、等身大の足取りで歩んでいく未来の青写真。

 それは、安藤家のレールの上には決して存在しなかった、けれど私たちが自分の意志で選び取った、本物の人生の設計図だった。

「真紀ちゃん、ずっと一緒だよ」

「うん。ずっと一緒」

 重なり合う二人の手のひらには、ラベンダーの優しい香りと、生身の温もりが満ちていた。

 蚊取り線香の煙が、満天の星空へと溶けていく。

 遠い波の音が、私たちの新しい呼吸を祝福するように、静かに、一定のリズムを刻み続けていた。

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