第34話:『逃げ水の終わりと大人たちの足音』
海辺の町での生活が始まって一週間が過ぎた頃、私たちの日常は、確かな輪郭を持って根を張り始めていた。
朝五時に起き、井戸水を汲み、魚を干し、畑の草をむしる。
午後はトメさんから教わりながら裁縫をしたり、縁側で潮風に吹かれながら昼寝をしたり。
夜には、あの擦りガラスのハンドクリームを互いの荒れた手に塗り合い、銀色の頓服薬を机の隅のお守りにしながら、泥のように深く眠る。
かつて安藤家の冷酷な食卓で息を止め、秀明館の張り詰めた教室で満点の計算式に追われていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思えるほど、海辺の時間は穏やかで、生命の熱に満ちていた。
その日の夕方、私たちはトメさんに頼まれた買い出しのため、港沿いにある小さな商店街へと歩いていた。
「真紀ちゃん、見て! 役場の出張所で、通信制高校の資料もらえたよ!」
紗理奈が、トートバッグから取り出したカラーパンフレットを嬉しそうに掲げてみせた。
日焼けした素肌に、白の半袖Tシャツ。
肘まで露わになった手首の古傷は、もう誰の目を気にすることもなく、夕方の光の中に晒されている。
「学費も、加工場でアルバイトすれば十分に払える金額だった。真紀ちゃんと一緒にレポート出して、スクーリングに行って……三年で、ちゃんと高卒資格取れるよ!」
「うん。カリキュラム見たけど、レポートの提出ペースも無理がない。基礎から一緒に復習していけば、絶対に合格できるよ」
「えへへ、私の専属家庭教師だもんね!」
紗理奈が私の腕に抱きつき、くすくすと喉を鳴らして笑う。
八月のぬるい潮風が、二人の髪を柔らかく揺らしていく。
何気ないお喋りと、駄菓子屋で買ったソーダ味のアイスキャンディー。
何万人もの称賛も、満点の成績表も持たない私たちが手に入れた、世界で一番贅沢な日常のひととき。
――けれど。
現実という名の冷徹な足音は、私たちがどれほど遠くへ逃げようとも、決して見逃してはくれなかった。
商店街の角にある、古い町の電器店の前を通りかかった時だった。
「……あ」
紗理奈の足が、唐突にピタリと止まった。
彼女の視線の先、店先に置かれた展示用の液晶テレビから、聞き覚えのあるニュース番組のアナウンスが流れていた。
『――続いてのニュースです。先月十五日から行方不明となっていた都内在住の女子高校生、来栖紗理奈さん(16)の捜索について、警視庁は本日、広域捜索本部を立ち上げ、全国規模での情報提供を呼びかけています。また、関係者の証言から、同じ高校の同級生である安藤真紀さん(16)も数日前から登校しておらず、警視庁は二人が共に行動している可能性が高いとみて――』
画面に映し出された、二枚の顔写真。
秀明館の学生証に写る紗理奈のすっぴんの顔と、第一ボタンまで留めて冷淡な表情を浮かべる私の顔。
「……っ」
息が、喉の奥で凍りついた。
私の名前。
安藤真紀。
姉の凛が時間を稼いでくれていたはずだった。けれど、模試をボイコットし、家出した私の不在は、ついに安藤家の隠蔽工作の限界を超え、警察の捜索網へと繋がってしまったのだ。
ウー――ウー――。
遠くの国道から、乾いたサイレンの音が響いてきた。
商店街の入り口に、白黒のパトカーが一台、ゆっくりと徐行しながら進入してくる。
助手席から降りてきたのは、スーツ姿の私服刑事だった。
手にはクリアファイルに挟まれた捜索ポスター。電器店の店主に声をかけ、私たちの写真を見せながら聞き込みを始めている。
「……真紀、ちゃん……」
紗理奈の唇から、血の気が一瞬にして引いていった。
彼女の細い指先が、私のTシャツの裾を、爪が食い込むほど強く握りしめてくる。
「見つかっちゃう……っ、警察が……大人が来ちゃった……!」
「走ろう、紗理奈!」
私は彼女の手を強く引き、商店街の路地裏へと飛び込んだ。
夕暮れの細い生活道路を、心臓が千切れるほどの速度で駆け抜ける。
逃げ水。
追えば追うほど遠のき、けれど最後には必ず渇き果てて消える幻。
私たちは、いつまでも逃げ続けられるわけではなかったのだ。
*
息を切らし、泥だらけになってトメさんの家の土間へと飛び込んだ時、夕闇は完全に平屋を包み込んでいた。
「ただいま……っ、トメさん……っ!」
土間にへたり込み、激しい過呼吸の波に呑まれかけている紗理奈。
奥の台所から、トメさんが静かに姿を現した。
彼女は私たちの青ざめた顔と、外から微かに聞こえてくるサイレンの音を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
「……追手が、来たかい」
「トメさん、ごめんなさい……っ!」
紗理奈が土間に額を擦り付けて泣き崩れた。
「私たちがここにいたせいで……トメさんまで、警察に怒られちゃう……っ! 早く逃げなきゃ……でも、どこへ逃げたらいいのか……っ!」
「馬鹿者」
ピシャリと、平手打ちのような重い声が土間に響いた。
トメさんは土間に降り立つと、紗理奈の細い肩を力強く掴み、無理やり顔を上げさせた。
「どこへ逃げる気だい! この海の先にはもう陸地なんざありゃしないよ! 座りな、二人とも!」
トメさんは台所へ戻ると、湯気を立てる鉄瓶から、二つの湯呑みに温かい番茶を注ぎ、私たちの目の前にドンと置いた。
立ち上る、香ばしいほうじ茶の匂い。
「飲みな。胃の腑を温めりゃ、心臓のバクバクは止まる」
私は震える両手で湯呑みを持ち上げた。
熱い陶器の温度が、冷え切っていた指先に染み込んでいく。一口啜ると、喉の奥の強張りが、微かに解けていくのを感じた。
「……トメさん」
私は湯呑みを置き、トメさんの目を真っ直ぐ見据えた。
「私たちは、東京の名門校から逃げてきました。紗理奈はネットで誹謗中傷を受けて壊れかけて、私は……家庭の成果主義と減点法に首を絞められて、模試を放り出して家出してきました。……私たちは、大人の敷いたレールから完全に脱線した、ただの不適合者です」
私の告白を、トメさんは腕を組んで、黙って聞き届けた。
怒りも、失望も、説教の気配すらなかった。
ただ、荒海を生き抜いてきた古老の、深い瞳で私たちを見つめている。
「脱線したかい。……上等じゃないか」
トメさんは低く、静かに言った。
「敷かれたレールを走ってりゃあ、そりゃあ安全かもしれねぇ。だがね、そのレールがてめぇの首を絞めて息が止まりそうになってるなら、線路から飛び降りて泥だらけになるのが生き物の本能ってもんだ。……お前さんたちは、生き延びるためにここへ逃げてきたんだろ」
「……はい」
「なら、逃げ隠れする必要なんざ何ひとつねぇ」
トメさんは私の背中と、紗理奈の背中を、バチンと力任せに叩いた。
「胸を張りなさい。何者でもない自分たちで、不完全な生身のままで生きていくんだってことを、その大人たちに堂々と突きつけてやりな」
――胸を、張る。
逃げるのではなく。
隠れるのでもなく。
私たちが自分の足でここに立っているのだと、大人たちの世界へ向かって証明する。
ジャリッ、ジャリッ。
家の前の砂利道を、複数の足音が踏みしめる音が響いた。
障子の隙間から、青と赤の回転灯の光が、不気味に室内を照らし出す。
パトカーが、家の前に到着したのだ。
ドンドンッ、と激しく木製の引き戸が叩かれた。
「警察です! ご在宅ですか!」
紗理奈の身体が、ビクッと跳ね上がった。
けれど――その瞳から、恐怖の色は消えていた。
彼女は私の右手を、ぎゅっと強く握りしめてきた。
汗ばんだ、温かい、生身の手。
私もまた、彼女の手を力いっぱい握り返した。
「よし」
トメさんが立ち上がり、前掛けを締め直した。
「二人とも、私の後ろにいな。……大人の喧嘩の仕方を、見せてやるよ」
ガラガラガラッ!
土間の引き戸が荒々しく開け放たれた。
入ってきたのは、警察手帳を掲げた二人の私服刑事と、制服警官。
夕闇の冷たい風とともに、東京の現実が、土間いっぱいに雪崩れ込んできた。
「失礼する! 警視庁生活安全課だ! ……いたぞ、来栖紗理奈さんと、安藤真紀さんだな!」
刑事たちの鋭い視線が、私たちを射抜く。
けれど、私たちはもう、一ミリも目を逸らさなかった。
手を繋いだまま、私たちは堂々と立ち上がり、大人の世界との最後の対峙へと足を踏み出していた。




