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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第5章 不完全証明式

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第34話:『逃げ水の終わりと大人たちの足音』

 海辺の町での生活が始まって一週間が過ぎた頃、私たちの日常は、確かな輪郭を持って根を張り始めていた。

 朝五時に起き、井戸水を汲み、魚を干し、畑の草をむしる。

 午後はトメさんから教わりながら裁縫をしたり、縁側で潮風に吹かれながら昼寝をしたり。

 夜には、あの擦りガラスのハンドクリームを互いの荒れた手に塗り合い、銀色の頓服薬を机の隅のお守りにしながら、泥のように深く眠る。

 かつて安藤家の冷酷な食卓で息を止め、秀明館の張り詰めた教室で満点の計算式に追われていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思えるほど、海辺の時間は穏やかで、生命の熱に満ちていた。

 その日の夕方、私たちはトメさんに頼まれた買い出しのため、港沿いにある小さな商店街へと歩いていた。

「真紀ちゃん、見て! 役場の出張所で、通信制高校の資料もらえたよ!」

 紗理奈が、トートバッグから取り出したカラーパンフレットを嬉しそうに掲げてみせた。

 日焼けした素肌に、白の半袖Tシャツ。

 肘まで露わになった手首の古傷は、もう誰の目を気にすることもなく、夕方の光の中に晒されている。

「学費も、加工場でアルバイトすれば十分に払える金額だった。真紀ちゃんと一緒にレポート出して、スクーリングに行って……三年で、ちゃんと高卒資格取れるよ!」

「うん。カリキュラム見たけど、レポートの提出ペースも無理がない。基礎から一緒に復習していけば、絶対に合格できるよ」

「えへへ、私の専属家庭教師だもんね!」

 紗理奈が私の腕に抱きつき、くすくすと喉を鳴らして笑う。

 八月のぬるい潮風が、二人の髪を柔らかく揺らしていく。

 何気ないお喋りと、駄菓子屋で買ったソーダ味のアイスキャンディー。

 何万人もの称賛も、満点の成績表も持たない私たちが手に入れた、世界で一番贅沢な日常のひととき。

 ――けれど。

 現実という名の冷徹な足音は、私たちがどれほど遠くへ逃げようとも、決して見逃してはくれなかった。

 商店街の角にある、古い町の電器店の前を通りかかった時だった。

「……あ」

 紗理奈の足が、唐突にピタリと止まった。

 彼女の視線の先、店先に置かれた展示用の液晶テレビから、聞き覚えのあるニュース番組のアナウンスが流れていた。

『――続いてのニュースです。先月十五日から行方不明となっていた都内在住の女子高校生、来栖紗理奈さん(16)の捜索について、警視庁は本日、広域捜索本部を立ち上げ、全国規模での情報提供を呼びかけています。また、関係者の証言から、同じ高校の同級生である安藤真紀さん(16)も数日前から登校しておらず、警視庁は二人が共に行動している可能性が高いとみて――』

 画面に映し出された、二枚の顔写真。

 秀明館の学生証に写る紗理奈のすっぴんの顔と、第一ボタンまで留めて冷淡な表情を浮かべる私の顔。

「……っ」

 息が、喉の奥で凍りついた。

 私の名前。

 安藤真紀。

 姉の凛が時間を稼いでくれていたはずだった。けれど、模試をボイコットし、家出した私の不在は、ついに安藤家の隠蔽工作の限界を超え、警察の捜索網へと繋がってしまったのだ。

 ウー――ウー――。

 遠くの国道から、乾いたサイレンの音が響いてきた。

 商店街の入り口に、白黒のパトカーが一台、ゆっくりと徐行しながら進入してくる。

 助手席から降りてきたのは、スーツ姿の私服刑事だった。

 手にはクリアファイルに挟まれた捜索ポスター。電器店の店主に声をかけ、私たちの写真を見せながら聞き込みを始めている。

「……真紀、ちゃん……」

 紗理奈の唇から、血の気が一瞬にして引いていった。

 彼女の細い指先が、私のTシャツの裾を、爪が食い込むほど強く握りしめてくる。

「見つかっちゃう……っ、警察が……大人が来ちゃった……!」

「走ろう、紗理奈!」

 私は彼女の手を強く引き、商店街の路地裏へと飛び込んだ。

 夕暮れの細い生活道路を、心臓が千切れるほどの速度で駆け抜ける。

 逃げ水。

 追えば追うほど遠のき、けれど最後には必ず渇き果てて消える幻。

 私たちは、いつまでも逃げ続けられるわけではなかったのだ。

     *

 息を切らし、泥だらけになってトメさんの家の土間へと飛び込んだ時、夕闇は完全に平屋を包み込んでいた。

「ただいま……っ、トメさん……っ!」

 土間にへたり込み、激しい過呼吸の波に呑まれかけている紗理奈。

 奥の台所から、トメさんが静かに姿を現した。

 彼女は私たちの青ざめた顔と、外から微かに聞こえてくるサイレンの音を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。

「……追手が、来たかい」

「トメさん、ごめんなさい……っ!」

 紗理奈が土間に額を擦り付けて泣き崩れた。

「私たちがここにいたせいで……トメさんまで、警察に怒られちゃう……っ! 早く逃げなきゃ……でも、どこへ逃げたらいいのか……っ!」

「馬鹿者」

 ピシャリと、平手打ちのような重い声が土間に響いた。

 トメさんは土間に降り立つと、紗理奈の細い肩を力強く掴み、無理やり顔を上げさせた。

「どこへ逃げる気だい! この海の先にはもう陸地なんざありゃしないよ! 座りな、二人とも!」

 トメさんは台所へ戻ると、湯気を立てる鉄瓶から、二つの湯呑みに温かい番茶を注ぎ、私たちの目の前にドンと置いた。

 立ち上る、香ばしいほうじ茶の匂い。

「飲みな。胃の腑を温めりゃ、心臓のバクバクは止まる」

 私は震える両手で湯呑みを持ち上げた。

 熱い陶器の温度が、冷え切っていた指先に染み込んでいく。一口啜ると、喉の奥の強張りが、微かに解けていくのを感じた。

「……トメさん」

 私は湯呑みを置き、トメさんの目を真っ直ぐ見据えた。

「私たちは、東京の名門校から逃げてきました。紗理奈はネットで誹謗中傷を受けて壊れかけて、私は……家庭の成果主義と減点法に首を絞められて、模試を放り出して家出してきました。……私たちは、大人の敷いたレールから完全に脱線した、ただの不適合者です」

 私の告白を、トメさんは腕を組んで、黙って聞き届けた。

 怒りも、失望も、説教の気配すらなかった。

 ただ、荒海を生き抜いてきた古老の、深い瞳で私たちを見つめている。

「脱線したかい。……上等じゃないか」

 トメさんは低く、静かに言った。

「敷かれたレールを走ってりゃあ、そりゃあ安全かもしれねぇ。だがね、そのレールがてめぇの首を絞めて息が止まりそうになってるなら、線路から飛び降りて泥だらけになるのが生き物の本能ってもんだ。……お前さんたちは、生き延びるためにここへ逃げてきたんだろ」

「……はい」

「なら、逃げ隠れする必要なんざ何ひとつねぇ」

 トメさんは私の背中と、紗理奈の背中を、バチンと力任せに叩いた。

「胸を張りなさい。何者でもない自分たちで、不完全な生身のままで生きていくんだってことを、その大人たちに堂々と突きつけてやりな」

 ――胸を、張る。

 逃げるのではなく。

 隠れるのでもなく。

 私たちが自分の足でここに立っているのだと、大人たちの世界へ向かって証明する。

 ジャリッ、ジャリッ。

 家の前の砂利道を、複数の足音が踏みしめる音が響いた。

 障子の隙間から、青と赤の回転灯の光が、不気味に室内を照らし出す。

 パトカーが、家の前に到着したのだ。

 ドンドンッ、と激しく木製の引き戸が叩かれた。

「警察です! ご在宅ですか!」

 紗理奈の身体が、ビクッと跳ね上がった。

 けれど――その瞳から、恐怖の色は消えていた。

 彼女は私の右手を、ぎゅっと強く握りしめてきた。

 汗ばんだ、温かい、生身の手。

 私もまた、彼女の手を力いっぱい握り返した。

「よし」

 トメさんが立ち上がり、前掛けを締め直した。

「二人とも、私の後ろにいな。……大人の喧嘩の仕方を、見せてやるよ」

 ガラガラガラッ!

 土間の引き戸が荒々しく開け放たれた。

 入ってきたのは、警察手帳を掲げた二人の私服刑事と、制服警官。

 夕闇の冷たい風とともに、東京の現実が、土間いっぱいに雪崩れ込んできた。

「失礼する! 警視庁生活安全課だ! ……いたぞ、来栖紗理奈さんと、安藤真紀さんだな!」

 刑事たちの鋭い視線が、私たちを射抜く。

 けれど、私たちはもう、一ミリも目を逸らさなかった。

 手を繋いだまま、私たちは堂々と立ち上がり、大人の世界との最後の対峙へと足を踏み出していた。

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