第35話:『計算式の破棄』
パトカーの後部座席から見つめる夜の海辺の国道は、赤色灯の光を無機質に反射しながら、後方へと流れていた。
手錠をかけられたわけではない。暴力的に連行されたわけでもない。
けれど、日本の法律において、十六歳の未成年者が親の承諾なく他人の家に滞在することは「保護」の対象であり、警察官がその職務を放棄して現場で見逃すことなどあり得ないのだ。
私の左手は、隣に座る紗理奈の冷えた手を強く握りしめていた。
そして助手席には、泥のついた前掛けのまま「この子たちの付き添い人だ」と乗り込んできたトメさんが、腕を組んでどっしりと座っていた。
辿り着いたのは、港町を管轄する地方警察署の生活安全課だった。
パイプ椅子と灰色のスチールデスク、書類の山に囲まれた殺風景な相談室。
事情聴取が始まった瞬間、トメさんは机をドンと叩き、警視庁から派遣されてきた私服刑事を鋭い眼光で睨みつけた。
「いいかい、刑事さん! この子たちは犯罪者でもなんでもありゃしないよ! 東京の学校や親から真綿で首を絞められて、息ができなくなって海へ逃げてきた被害者だ! 無理やり東京へ引きずり戻して、またあの冷たい檻に放り込んで、今度こそ命を落としたらあんたたち責任取れるのかい!?」
「トメさん、お気持ちは分かりますが、法律上、親権者の元へ身柄を引き渡すのが原則でして……」
「原則だの法律だので子どもが死んじゃ世話ないだろうが! 私はこの町の民生委員の会長も、役場の福祉課長も昔からよう知っとる! この子たちの身元引受と生活支援の窓口には、私が正式に立つ! 役場を通して児童相談所にも話を繋ぐから、あんたたちは無粋な手出しをするんじゃないよ!」
元漁師の肝っ玉ばあちゃんの怒声に、百戦錬磨のはずの刑事たちがたじたじと後ずさる。
大人の社会のルールを熟知したトメさんが、巨大な防波堤となって私たちの前に立ちはだかってくれていた。
その時だった。
デスクの上に置かれた黒電話が、けたたましいベルの音を鳴り響かせた。
刑事が受話器を取り、小声で数言交わしたあと、顔色を変えて私の方を振り返った。
「……安藤真紀さん。君のお父さんからだ。警視庁を通じて、こちらへ直接回された」
室内の空気が、一瞬にして凍りついた。
紗理奈が息を呑み、私の服の裾をぎゅっと握りしめてくる。
私は彼女の手をそっと撫で、椅子から立ち上がった。
足の震えは、もうなかった。胃の底を締め上げていたあの吐き気も、嘘のように消え失せていた。
私は刑事から受話器を受け取り、耳にあてた。
「……もしもし」
『――真紀ッ!!』
鼓膜を破らんばかりの、激しい怒声が受話器の向こうから炸裂した。
父の声だった。
病院の理事長としての威厳も、冷徹な仮面も完全にかなぐり捨てた、剝き出しの激情。
『お前という奴は……! 模試を白紙でボイコットした挙句、家出して警察沙汰にまで発展させおって! 全国ニュースに安藤家の名前が出たんだぞ! 病院の理事会からも、医師会からも問い合わせの電話が鳴り止まない! 誰のおかげで、何の不自由もなくここまで育ててもらったと思っているんだ!』
受話器を握る手に、少しだけ力を込める。
以前の私なら、この怒声の前に平伏し、機械のように「申し訳ありません」と頭を下げていただろう。
けれど今、私の耳に届く父の声は、ただの「逃げ場を失って喚く哀れな大人の悲鳴」にしか聞こえなかった。
『お前が社会に出てから恥をかかないよう、どれだけの教育費と資本を投資したと思っている! お前のためを思って敷いてやったレールを、こんな下品なスキャンダルで踏みにじるなんて、恩を仇で返すにも程があるだろうが! 今すぐ東京に戻ってこい! 土下座して理事会と学校に謝罪しろ!』
投資。
資本。
お前のため。
恩を仇で返す。
十七年間、私を縛り、私の呼吸を奪い続けてきた、完璧な正論の刃。
私は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、警察署の静まり返った部屋の中に、澄み切った声で言葉を落とした。
「……お父さんたちの世界は、高すぎる基準で首を絞め合って、誰も息ができていません」
『……何だと?』
「満点を取らなければ生きている価値がないなんて。他人の敷いたレールの上を走らなければ愛されないなんて。……そんな狂った計算式、私はもう破棄しました」
『真紀! お前、親に向かって何を言って――』
「私は、あなたたちの部品には戻りません。二度と、東京には帰りません」
私は父の怒号を最後まで聞くことなく、受話器をガチャリとフックへ叩きつけた。
通話の切断。
安藤家という名の巨大な機構との、完全で、決定的な決裂。
受話器を置いた私の指先は、微塵も震えていなかった。
――ジリリリリッ!
数秒後、再び電話が鳴り響いた。
刑事が恐る恐る受話器を取る。
「はい、生活安全課……え? 安藤凛さん……? ご長女の?」
お姉ちゃん。
刑事は受話器を耳に押し当てながら、手元のメモ用紙に目まぐるしい速度でペンを走らせ始めた。
「……ええ、はい。承知しました。……はい、東京の弁護士を通じて、正式に捜索願の取り下げ届が提出されたと。……ええ、住民票の異動手続きに関する親権者の同意書類も、速達でこちらへ送付手配済みですね。……はい、承知いたしました」
刑事が受話器を置き、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
「安藤さん。君のお姉さんからだ」
「……お姉ちゃんから?」
「お姉さんが、君の父親を完全に説得……いや、論破したそうだ。『これ以上警察沙汰を長引かせれば、安藤家の病院経営に致命的な傷がつく。真紀の捜索願を取り下げ、仕送りと学費を即時停止し、実質的な【絶縁(勘当)】として処理するのが最も世間体を守れる』と」
胸の奥が、熱い衝撃に貫かれた。
お姉ちゃん。
あの優秀で冷徹な姉が、安藤家の急所である「世間体」と「病院経営」を人質に取り、両親の首根っこを押さえつけてくれたのだ。
自らは部品になる道を選びながら、妹である私の自由を勝ち取るために、その卓越した知性を武器にして戦ってくれた。
『行って、私の分まで生きてきなさい』
あの日、勝手口の暗がりで姉がかけてくれた言葉が、鮮烈に蘇る。
私はもう、安藤家の娘ではない。
仕送りも、学費も、名門の看板もすべて失った。
けれど私は、世界で一番誇らしい姉の愛に守られて、完全に自由な一人の人間になったのだ。
*
隣の相談室の扉が開き、紗理奈が戻ってきた。
その瞳には涙が浮かんでいたが、表情は晴れやかだった。
遠方の実家の母親と、電話で直接話してきたのだという。
「……紗理奈、お母さんは?」
「うん」
紗理奈は私の手を握り、涙を拭いながら微笑んだ。
「お母さん、最初は泣いてたけど……トメさんが電話を代わってくれて、私の気持ちを全部伝えてくれたの。『東京で死にそうになっていたあの子が、今、自分の足で立とうとしてるんだ』って。……そしたらお母さん、『生きててくれればそれでいい。真紀ちゃんと一緒に、その町で頑張りなさい』って……自立を認めてくれたよ」
「……よかった」
「うんっ!」
トメさんが立ち上がり、バチンと自分の太ももを叩いた。
「さあ、話は全部ついたね! 刑事さん、もうこの子たちを引き留める理由はありゃしないだろう!」
刑事たちは互いに顔を見合わせ、やがて苦笑いを浮かべながら、手元の書類をパタンと閉じた。
「……完敗ですよ、トメさん。あとは地元の役場と児童相談所に引き継ぎます。手続きが終わったら、連れて帰ってください」
*
警察署の自動ドアを出た時、東の空は白み始め、夜明けの光が港の海を銀色に染め上げていた。
午前五時半。
早朝の澄み切った海風が、徹夜で疲れた私たちの頬を優しく撫でていく。
警察署の前のスロープを、トメさんを先頭に、私たちは並んで歩き出した。
安藤家からの絶縁。
秀明館の退学。
何者でもなくなった私たち。
親の敷いた満点のレールは完全に途絶え、私たちの足元には、名前のない荒涼とした大地が広がっている。
けれど、私の右手には、紗理奈の温かい指先がしっかりと絡み合っていた。
隣を歩く紗理奈が、朝の光を浴びながら、私を見上げて花が咲くように微笑む。
「真紀ちゃん、朝だよ」
「うん。朝だね」
満点の計算式は、完全に破棄された。
不完全なままで、傷だらけのままで、生身の私たちが新しい一日を始めるための、本物の夜明けが訪れていた。




