第36話:『不完全証明式』
警察署での長い夜を越えて辿り着いた海辺の町は、眩いばかりの朝の光に満ちあふれていた。
トメさんの家の前の砂利道を抜け、私たちはあの防潮堤の上へと上がっていた。
足元に広がる太平洋は、昨日までの荒波が嘘のように穏やかに凪ぎ、水平線から昇りきった真夏の朝日を浴びて、無数の銀貨を散りばめたようにキラキラと輝いている。
風は優しく、潮の香りはどこまでも甘く澄み渡っていた。
私たちは防潮堤のコンクリートの縁に並んで腰を下ろし、海に向かって足をぶらつかせた。
トメさんから借りた、飾り気のない白の木綿Tシャツ。
袖は肘のあたりまで捲り上げられ、夏の太陽に焼かれた私たちの素肌が、朝の柔らかな空気に晒されている。
「……気持ちいいね、真紀ちゃん」
紗理奈が、目を細めて海を見つめながら言った。
「うん。すごく、気持ちいい」
紗理奈の腕を見る。
手首の内側に刻まれた、あの白く凹凸のある古傷。
中学時代、暗闇の中で自分を切り裂こうとした記憶の痕跡。
あの東京のワンルームで、私が拡大率五〇〇%の狂気で消去し続けた傷跡は、今、朝の光の下で堂々と呼吸していた。
ファンデーションも、コンシーラーも、デジタルフィルターも何ひとつ塗られていない。
潮風に揉まれてボサボサに乱れた蜂蜜色の髪も、少し日焼けした頬も、そのすべてが、傷だらけになりながら今日まで生き延びてきた彼女の「生身」そのものだった。
紗理奈の左手が、コンクリートの上に置かれていた私の右手に、そっと触れた。
指先が、自然とするりと滑り込み、隙間なく絡み合う。
「……ねぇ、真紀ちゃん。覚えてる?」
「なにを?」
「高校一年の、あの冬の朝のこと」
紗理奈はくすりと笑って、絡み合った私たちの手を見つめた。
「秀明館の寒い廊下でね、真紀ちゃんの手があんまり冷たかったから、私のブレザーのポケットに入れて温めたでしょ? ……あの時、私、すごく怖かったの」
「怖かった?」
「うん。誰かに見られたら、私のボロが出ちゃうんじゃないかって。私が壊れかけの人間だってバレたら、真紀ちゃんに嫌われちゃうんじゃないかって……怯えながら、ポケットの暗闇に逃げ込んでたの」
――掌中の暗室。
誰の目にも触れないよう、制服のポケットという小さな布切れの内側に熱を閉じ込め、世界を騙し合っていたあの冬の日。
成果主義に追われ、満点を取らなければ存在を許されないと信じ込んでいた私たちは、あの狭い密室の中で、互いの傷を隠し合うことでしか生きられなかった。
「……私も、怖かったよ」
私は彼女の指先を、ぎゅっと強く握り返した。
「紗理奈を完璧にプロデュースして、何万人もの大衆に愛される神様にしなければ、私には生きている価値がないって思い込んでた。……私が、紗理奈を窒息させていたのにね」
「ううん。真紀ちゃんが私の手を握ってくれたから、私、ここまで生きてこられたんだよ」
紗理奈は首を横に振ると、私の肩にコロンと頭を預けてきた。
シャンプーの香りと、日焼けした肌の温もり。
「見て、真紀ちゃん。ポケットの中じゃないよ。こんなに明るい光の下で、私たち、堂々と手を繋いでる」
私は視線を落とした。
重なり合う二人の手。
紗理奈の手には魚干しの塩水によるささくれがあり、私の手にはペンだことキーボードを叩き続けた関節の強張りがある。
陶器のように滑らかなアンドロイドの手などではない。
泥と潮にまみれ、傷を抱え、それでも互いの体温を求め合って結ばれた、世界に二つとない生身の手。
安藤家の名門の看板は、もうない。
秀明館の特進トップの席次も、模試の満点も、すべて捨て去った。
何十万人ものフォロワーも、企業のタイアップの報酬も、すべてあの海の底へと沈めてしまった。
社会的な記号として見れば、私たちは完全な落伍者だ。
大人の敷いたレールを踏み外し、世間体の枠組みから脱線した、ただの未成年の家出少女。
けれど――。
私の胸の奥には、かつてないほど強固で、澄み切った確信が満ちていた。
満点の正解なんて、最初からいらなかったのだ。
百点を取らなければ生きている価値がないなんて、誰が言ったのか。
常に完璧な笑顔で数字を出し続けなければ愛されないなんて、誰が決めたのか。
不完全でいい。
間違えてもいい。
心の傷を抱えたまま、たまに夜に怯えて薬に頼ったっていい。
泥だらけの服を着て、朝五時に起きて、井戸水を汲んで、魚を干して、縁側で大きな塩むすびを美味しいと泣きながら食べる。
そして、隣にいる大好きな人の手を握り締め、お互いの体温を確かめ合って、今日一日を生き延びる。
ただそれだけのことが。
ただ息をして、ここに存在していることそのものが。
私たちが生きている、世界で唯一の、絶対に揺るがない証明なのだ。
――『不完全証明式』。
かつて私を縛り付けた「存在理由=証明」という名の呪縛は、今、この海辺の朝の光の中で、完全に新しい生の定理へと書き換えられた。
欠けたところだらけの、傷だらけの計算式。
けれど、この式の中に導き出される答えは、どんな全国模試の満点よりも美しく、絶対的な正解だった。
「――おーい! 真紀ちゃん! 紗理奈!」
背後の平屋の庭先から、トメさんの太い呼び声が潮風に乗って響いてきた。
見やると、トメさんが縁側に立ち、腰に手を当てて笑いながら手を振っている。
「朝飯が冷めちまうよ! 焼き魚と熱い味噌汁、早く食いに来な!」
紗理奈が顔を上げ、私と視線を合わせた。
その蜂蜜色の瞳には、朝日の光を宿した、世界で一番美しい本物の笑顔が浮かんでいた。
「真紀ちゃん、朝ごはん呼んでるよ!」
「うん。行こう」
私たちは防潮堤から立ち上がった。
繋いだ手は、一度も離さなかった。
海に向かって大きく手を振り返すと、私たちは並んで、砂利道を歩き出した。
足元には、波が運んできた白い砂。
見上げる空には、どこまでも広がる夏の青。
そして目の前には、湯気の立つ朝ごはんが待つ、私たちの新しい家があった。
不完全なままで、私たちは生きていく。
世界一あたたかいその手を、二度と離さないように、強く、強く握りしめながら。




