エピローグ:『波打ち際の余白』
八月の最後の週末、東京の空は、暴力的な夏の終わりの気配を漂わせていた。
照りつける日差しの中、私と紗理奈は、あの私鉄沿線の低層マンションの前に立っていた。
二人とも、海辺の太陽に焼けた小麦色の素肌に、飾らない無地のTシャツとデニム。
かつて秀明館の制服を着て、他人の目を盗むようにして足早に潜り抜けていたエントランスの自動ドアが、静かに開いた。
三階の角部屋。
合鍵を差し込み、ドアを開ける。
一ヶ月半ぶりに足を踏み入れたワンルームは、埃の匂いと、微かに残るいちごの香水の残香に満ちていた。
あの日、紗理奈が置手紙を残して姿を消し、私が呆然と膝をついた、あの部屋。
「……よし。片付けちゃおっか、真紀ちゃん」
「うん」
私たちは作業用の軍手をはめ、部屋の荷物を手分けしてダンボールへと詰めていった。
リングライトの金属製の脚を折りたたみ、ネジを緩めて解体する。
棚に並んでいた何十本ものコスメやファンデーション、撮影用のガーリーなワンピースを仕分けし、リサイクルショップへ送る箱へと詰めていく。
かつて、何万人もの大衆を熱狂させるために、そして二人を窒息させるために使われていた「偶像の装具」たち。
それらを一つひとつ手にとって箱へ収めるたび、私たちの胸を縛り続けていた見えない鎖が、カチリ、カチリと音を立てて外れていくような気がした。
昼過ぎには、六畳の部屋は完全に空っぽになった。
家具も、機材も、服もない、ただの四角いコンクリートの空間。
立ち会いに訪れた不動産会社の担当者に書類のサインを渡し、二本の合鍵を返却する。
「では、敷金の精算書類は後日、新住所の方へお送りしますね。お疲れ様でした」
ガチャリ。
ドアが閉まり、外鍵がかけられた。
私たちが閉じこもり、世界を騙し合い、そして真綿で首を絞め合っていたあの甘美な無菌室は、この瞬間、完全に過去の記憶となった。
*
マンションを出たあと、私たちは駅前の落ち着いた純喫茶の奥のボックス席へと向かった。
約束の時間の五分前。
カランコロン、とドアベルが鳴り、長身の女性が店内に足を踏み入れてきた。
上質なオフホワイトのサマーニットに、細身のワイドパンツ。
肩まで切り揃えられた黒髪を耳にかけ、切れ長の涼しげな瞳を巡らせるその姿は、周囲の客が思わず視線を奪われるほど洗練されていた。
姉の、安藤凛。
「……お姉ちゃん」
私が小さく手を挙げると、凛は私を認め、足音を立てずに歩み寄ってきた。
「待たせたかしら」
「ううん、今来たとこ」
凛が私の向かいの席に腰を下ろした瞬間、隣に座っていた紗理奈が、弾かれたように立ち上がった。
そして、テーブルに額がぶつかりそうなほどの勢いで、深々と頭を下げた。
「あのっ……! 初めまして、来栖紗理奈です! あの時は、真紀ちゃんを助けてくれて……逃がしてくれて、本当にありがとうございました! お姉さんがいてくれなかったら、私たち、今ここにいられませんでした……っ!」
喫茶店の静かな空間に響いた、真剣そのものの声。
凛は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから、ふっと吹き出すように口元に手を当てた。
「……座りなさい、紗理奈さん。そんなに勢いよく頭を下げたら、アイスティーの氷が跳ねるわよ」
「あっ、ご、ごめんなさい……!」
慌てて席に座り直す紗理奈の様子を見て、凛はアイスコーヒーのストローを指先で揺らしながら、柔らかく目を細めた。
安藤家の食卓で見せていた冷徹なエリートの仮面は、そこには微塵もなかった。
「話には聞いていたけれど、本当に元気そうな子ね。……もっとこう、儚くて折れそうな子を想像していたのだけれど」
「これでも、毎日魚干して鍛えてるんです! 力仕事、結構得意なんですよ!」
「ふふ、頼もしいわね。……真紀のことも、よろしく頼むわ」
凛は私の方に視線を移し、私の顔をじっと見つめた。
「真紀。……ずいぶん、顔色が良くなったじゃない。目の下の隈も綺麗に消えてるし、ちゃんとご飯を食べている顔をしているわ」
「うん。毎日、朝五時に起きて、トメさんの作った美味しいご飯をいっぱい食べてるから」
「そう。ならよかったわ」
凛はバッグから一枚の書類の束を取り出し、テーブルの上で滑らせてよこした。
私の新しい住民票の異動届の控えと、安藤家からの学費・仕送り停止に伴う正式な絶縁合意書の写し。
「お父様もお母様も、表面上は『勘当した恥さらしの娘』として処理しているわ。病院の理事会でも、あなたの話は完全にタブーとして封殺された。……もう、誰もあなたを連れ戻そうとはしない。あなたを縛るレールは、完全に消滅したわよ」
「……ありがとう、お姉ちゃん。全部、お姉ちゃんが裏で動いてくれたおかげだね」
「別に、あなたのためだけにやったわけじゃないわ。……安藤家の名前を守るため、っていう大義名分がなければ、お父様を説得なんてできなかったもの」
凛は少しだけそっぽを向いて、照れ隠しのようにアイスコーヒーを一口飲んだ。
その不器用な優しさに、紗理奈が嬉しそうに目を輝かせる。
「お姉さん、すっごくかっこいいです! 真紀ちゃんから聞いてた通りの、世界一頼れるお姉ちゃんですね!」
「……おだてても、何も出ないわよ」
口では冷淡に返しながらも、凛の耳元が微かに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
秀明館の秀才と、元トップインフルエンサーの少女。
二人の妹に挟まれ、さすがの才女もペースを乱されているその光景が、たまらなく愛おしかった。
ふと、紗理奈が思い出したように手を打った。
「あ、そうだ! お姉さん、このあと時間ありますか?」
「え? 特に急ぎの用事はないけれど」
「私たち、マンションを引き払った足で、これから新幹線に乗って、私の山形の実家へ行くんです! お母さんに、二人でちゃんと元気な顔を見せて、これからのこと報告しようって約束してて……もしよかったら、お姉さんも一緒に行きませんか? お母さんも、お姉さんにお礼言いたいって言ってましたし!」
「えっ……紗理奈の実家に?」
驚いたように瞬きをする凛。
私も思わず身を乗り出した。
「お姉ちゃん、もし良かったら……山形、緑が多くて静かな場所だよ。お母さんもすごく歓迎してくれると思う」
二人の視線を受け、凛は少しだけ視線を宙に泳がせた。
そして、困ったような、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべて、静かに首を横に振った。
「……気持ちだけ、受け取っておくわ」
「え、ダメですか……?」
紗理奈が少し寂しそうに眉を下げた。
凛はストローを置き、大人の、そして医学生としての落ち着いたトーンで言葉を紡いだ。
「明後日から、大学病院の救急救命の実習が始まるのよ。提出しなきゃいけない症例レポートが山積みで、今夜中には東京に戻って文献を漁らなきゃいけないの。……それが一つ目の理由」
そして、凛は少しだけ声を落とし、私たちの目を真っ直ぐに見つめた。
「もう一つの理由はね。……そこは、あなたたち二人と、お母様が向き合うべき神聖な場所だからよ」
「お姉ちゃん……」
「私は、安藤家の人間よ。いくら妹を助けたとはいえ、紗理奈さんのお母様から見れば、真紀の家族であることに変わりはないわ。そこに部外者の私がズカズカ踏み込んでいったら、お母様も気を遣ってしまうでしょう? あなたたちが二人で乗り越えてきた痛みなのだから、二人だけで、ちゃんとお母様を抱きしめてあげなさい」
冷たさなど微塵もない、完璧な配慮と大人の分別。
相手の傷の深さを理解し、その回復の場を侵さないという、凛なりの最大の敬意だった。
「その代わり」
凛は伝票を手に取って立ち上がり、私の頭にポンと手を置いた。
「また東京に来る時は、連絡しなさい。美味しいものでも奢ってあげるわ。……お父様たちの動きには、私がずっと目を光らせておくから、安心して海辺で生きていきなさい」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
「お姉さん、ありがとうございました! お仕事、頑張ってください!」
紗理奈の元気な見送りに、凛は小さく手を振り、颯爽と喫茶店を出ていった。
その背中を見送りながら、私の胸の中には、東京の冷たいアスファルトの中にも、確かに温かい家族の絆が存在していたのだという実感が、誇らしく満ちていた。
*
あれから、数ヶ月。
山形の実家で紗理奈の母親と涙を流して抱き合い、互いの無事とこれからの自立を誓い合ってから、季節は巡り、海辺の町には心地よい秋風が吹き抜けていた。
私たちは今、トメさんの家のすぐ近くにある、古い木造アパートの二階の一室を借りて、二人だけの新しい日常を営んでいた。
午前五時半に起床。
自転車を漕いで港の水産加工場へ向かい、午前中は長靴を履いて、獲れたてのアジやサバの選別と箱詰めの仕事に汗を流す。
午後は部屋に戻り、窓を開けて秋の潮風を部屋に通しながら、並んで一つの文机に向かう。
通信制高校のレポート用紙を広げ、私がシャーペンを走らせ、紗理奈が「真紀ちゃん、ここの古典の文法教えて!」とノートを寄せてくる。
夕方になれば、二人で買い物籠を提げてトメさんの家へ顔を出し、夕食の支度を手伝う。
縁側で食べる、トメさんの漬けた大根の古漬けと、熱い豚汁。
そして、日が暮れる頃。
私たちは防潮堤の上に腰掛け、茜色から紫へと溶けていく秋の海を眺めるのが、毎日の日課になっていた。
「……ふぁあ、今日もいっぱい働いたぁ」
紗理奈が小さくあくびをして、私の左肩にコロンと頭を預けてきた。
作業着の長袖から覗くその手には、あのバレンタインの擦りガラスのハンドクリームが丁寧に塗り込まれ、ほんのりとラベンダーの香りを漂わせている。
手首の古傷は、夕暮れの柔らかい光に溶け込み、彼女が生きてきた証として、静かに波の音を聞いていた。
「明日、数学のレポートの締め切りだよ。あと二枚、残ってる」
「えー、真紀ちゃん厳しい! 明日のお昼休みに頑張るもん」
「はいはい。手伝ってあげるから」
紗理奈がくすくすと笑い、私の右手を自分の両手で包み込んできた。
魚の選別で少し皮膚が硬くなり、けれど日々の生活の熱を宿した、温かい手のひら。
私もまた、彼女の指先をそっと握り返した。
指先を擦り合わせる癖は、もう出なくなっていた。
耳鳴りも、胃痙攣も、悪夢も消えていた。
もちろん、たまに夜、遠くの雷の音を聞いて紗理奈が過呼吸になりかけたり、私が安藤家の夢を見て冷や汗をかいて目を覚ます夜はある。
けれど、そんな時は、机の上の巾着袋に入ったあの銀色の頓服薬をお守りにして、互いの背中をトントンと叩き合えば、私たちはまた朝を迎えることができると知っていた。
満点の正解なんて、どこにもない。
欠けていて、傷だらけで、間違えてばかりの毎日。
けれど――。
重ね合わせた手のひらから伝わってくる、この柔らかな体温。
隣で規則正しく上下する、大好きな人の呼吸音。
不完全なままで、手を繋ぎ、ご飯を食べ、今日を生きているということ。
それこそが、私たちがこの世界に存在している、唯一無二の、絶対に揺るがない証明式。
「真紀ちゃん」
「ん?」
「……大好きだよ」
「うん。私もだよ、紗理奈」
秋の潮風が、二人の髪を優しく撫で上げていく。
寄せては返す波の音に包まれながら、私たちは暮れなずむ空の下で、等身大の柔らかな温もりを、いつまでも、いつまでも通わせ合っていた。




