第8話:『模範患者のカルテ』
四月、高校二年生への進級とともに、秀明館高校を取り巻く空気は一段と酸素濃度を減らしていた。
特進A組の教室の壁には、全国模試の偏差値分布図と、過去五年間の東大・国公立医学部の合格最低点グラフが隙間なく貼り巡らされた。担任はホームルームのたびに「二年生の夏までに受験の八割が決まる」「現役合格以外の選択肢は秀明館にはない」と、乾いた声で生徒たちを煽り立てる。
安藤家の食卓もまた、その狂気と完全に同期していた。
「二年に上がったからには、もうケアレスミスなどという甘えは許されないぞ」
父の冷淡な視線と、母の「お姉ちゃんはこの時期、すでに過去問演習に入っていたわ」という判で押したような台詞。逃げ場のない正論で外堀を埋められた日常は、日を追うごとに私の呼吸を浅く、細くさせていた。
けれど、その窒息感を味わっていたのは、私一人ではなかった。
放課後。春の生ぬるい風が吹き抜ける都心のオフィス街を、私たちは秀明館の制服のまま並んで歩いていた。
向かった先は、ガラス張りの真新しいメディカルビル。
エレベーターで五階へ上がり、防音ガラスの自動ドアを潜ると、そこには人工的なアロマの香りと、静けさを無理やり演出したクラシック音楽が流れるクリニックの待合室が広がっていた。
『医療法人社団 メンタルヘルスクリニック・オアシス』
月に一度の、定期診察の日だった。
壁には『一人で悩まないで。私たちはあなたの味方です』と書かれた、パステルカラーのポスターが貼られている。
私の隣でソファに深く腰掛けた紗理奈は、長袖のカーディガンの袖口を両手でぎゅっと握りしめ、つま先を床に揃えて微動だにしていなかった。
「……来栖紗理奈さん、一番診察室へどうぞ」
チャイムとともに機械的なアナウンスが響く。
ビクッと肩を跳ねさせた紗理奈の手を、私は隣からそっと取った。氷のように冷え切った指先。
「大丈夫だよ、紗理奈。私も一緒に入るから」
「……うん」
診察室のドアを開けると、白衣を着た五十代半ばの男性医師が、パソコンの液晶画面から視線を外さないまま、事務的な手つきでマウスを動かしていた。
部屋には、定規で測ったような清潔さと、他人の心の澱に決して深入りしないための分厚い防壁の気配が満ちている。
「どうぞ、お掛けください。来栖さん、今日は新学期最初の診察ですね。体調はどうですか?」
医師はカルテの問診票に視線を落としたまま、チェックボックスを埋めるための質問を読み上げた。
その瞬間、私の隣に座る紗理奈の空気が、カチリと音を立てて切り替わった。
「――はい! 先生、こんにちは。最近、すごく順調です!」
鈴を転がすような、完璧に調律されたワントーン高い愛嬌のある声。
背筋をピンと伸ばし、蜂蜜色の髪をサラリと揺らして、紗理奈は花が咲くような満面の笑顔を浮かべてみせた。
「二年生になってクラス替えもあったんですけど、お友達とも仲良くやれてます。睡眠も毎日ちゃんと取れてますし、食欲も落ちてないです。動画の活動も順調で、フォロワーさんも十万人を超えたんですよ!」
医師がようやくカルテから顔を上げ、満足そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それは素晴らしい。十万人は大したものですね。高校生活に適応できているようで安心しました。頓服のお薬はどうですか? 発作の頻度は」
「あ、先月一度だけ、ちょっと緊張した時に一錠飲んだきりで、それ以降は一度も使ってないです! 真紀ちゃんがいつも勉強を見てくれたり、お話しを聞いてくれたりするので、全然不安にならなくて」
「安藤さんも、いつも付き添いご苦労様です。来栖さんの状態は非常に安定していますね」
医師がパソコンのキーボードをカタカタと叩き、カルテに『良好・安定』の文字列を入力していく。
――嘘だ。
私は、自分の膝の上で冷え切った拳を握りしめていた。
医師の死角になっている机の下。
紗理奈の右足は、過緊張によって小刻みに震え続けていた。ブレザーの袖口の中に隠した右手は、チェックスカートのウール地を、爪が皮膚に食い込むほど狂気的な力で握りしめ、布地が引き千切れそうなほど強くねじり上げられている。
順調?
毎晩、ベッドの中で悪夢に怯え、私の名前を呼びながら過呼吸を抑えている彼女のどこが順調だというのか。
けれど、私はその嘘を暴く気にはなれなかった。暴いてはならなかった。
ここにいる大人が提供しているのは、社会のシステムに生徒を適合させるためのマニュアルであって、生身の魂の避難所などではない。
もしここで「本当は苦しい、息ができない」と弱音を吐けばどうなるか。
医師は眉をひそめ、形式的なため息をつきながら、カルテに『病状悪化』と書き込むだろう。そして、より強い抗うつ薬や精神安定剤を処方し、「今は刺激を避けるべきだ、SNSの活動や学校生活を一時休止しなさい」と、紗理奈の唯一の存在証明である居場所を奪い去るに違いないのだ。
大人の言う「味方」とは、自分たちの管理下で問題を起こさない「都合のいい模範患者」の別名に過ぎない。
保健室のポスターも、この白い診察室も、世界で最も無機質で冷酷な選別機だった。
「主治医の先生」
私は特進クラスの秀才らしい、理路整然とした落ち着いた声で口を挟んだ。
「彼女の自己管理能力は非常に向上しています。新学期の環境変化による一時的な緊張は見られますが、生活リズムの維持と私のサポートで十分に制御可能です。投薬内容の増量や変更は不要と考えます。これまで通りの頓服薬の処方のみで維持をお願いできますでしょうか」
私の淀みのない完璧な説明に、医師は感心したように頷いた。
「ええ、安藤さんがそこまで把握してくれているなら心強い。では、前回と同じ処方箋を出しておきますね。無理のない範囲で、その調子で頑張ってください」
「はい! 先生、ありがとうございました!」
紗理奈は深々と頭を下げ、眩しい笑顔を振りまいて立ち上がった。
模範患者と、優秀な保護者代わり。
二人の少女が完璧に演じきった欺瞞のカルテが、カチリと音を立てて保存された。
*
自動ドアを抜け、エレベーターを降りてビルの外へ出た瞬間だった。
「……っ、ぁ、……っ」
オフィス街のビル風が吹き抜ける人通りの少ない裏路地に入った途端、紗理奈の足がもつれ、そのままコンクリートの壁にすがりつくようにして膝から崩れ落ちた。
「紗理奈!」
私が駆け寄ると、彼女は両手で自分の胸元を掻きむしり、肩を激しく上下させていた。
さっきまでの完璧な笑顔はどこにもない。脂汗が浮いた額、血の気を失った唇、そして荒い呼吸の合間に零れ落ちる、引き千切られたような嗚咽。
「……っ、は、……ぁ、……こわ、かった……っ! 先生の目が……カルテの画面が……っ、私を、値踏みしてるみたいで……っ」
「大丈夫。もう終わったよ。誰も見てない」
私は路地のアスファルトに躊躇なく膝をつき、震える紗理奈の身体を正面から抱きしめた。
トントン、トントン、と背中を一定のリズムで叩く。
私の胸に押し付けられた紗理奈の額から、熱い涙がポロポロと溢れ出し、私の制服の襟元を濡らしていく。
「真紀ちゃん……っ、私、ちゃんと笑えてた……? 変じゃなかった……? 先生に、変な子だって思われなかったかな……っ」
「完璧だったよ」
私は彼女の淡い蜂蜜色の髪に顔を埋め、きっぱりと言い切った。
「世界一上手な笑顔だった。紗理奈は何も間違ってない」
「……でも、苦しいよ……っ。学校でも、病院でも……みんなどうして、あんなに普通でいられるの……? どうして私は、普通に息を吸うことすら、こんなに頑張らなきゃいけないの……っ」
――普通の基準のインフレ。
勉強ができて、可愛くて、空気が読めて、弱音を吐かず、誰からも愛される完璧な少女でいなければ、この世界では存在を許されない。
社会が勝手に引き上げた高すぎるハードルに押し潰されそうになりながら、それでも脱落の恐怖に怯えて仮面を貼り付け続ける彼女の魂が、私の腕の中で悲鳴を上げていた。
「病院で百点を取る必要なんてないよ」
私は彼女の耳元に、熱い吐息とともに囁いた。
「先生の前では、嘘をついていい。学校の人間にも、フォロワーにも、全部嘘の笑顔でいいんだよ」
「……真紀、ちゃん……?」
「本当の痛いところは全部、私にだけ見せて。息が苦しいなら、私が紗理奈の呼吸になる。泣きたいなら、私の腕の中でだけ泣けばいい」
紗理奈の震える両手が、私の背中に強く回された。
骨が軋むほどの抱擁。
外側の世界にある、学校の成果主義も、大人の形式的な問診も、すべては二人を窒息させる毒でしかない。
だから、私たちは二人だけでいい。
他人の介入を一切拒絶した、この絶対的な無菌室の中だけで、私たちは息をしていればいいのだ。
「……うん。真紀ちゃん……私、真紀ちゃんがいないと、もう息ができないよ……」
「離さないよ。絶対に」
冷たいビルの谷間で、私たちは互いの体温を貪るように抱き締め合った。
大人たちを欺き、カルテの上に築かれた偽りの平穏。
その共犯関係の輪郭がより深く、より逃げ場のない闇へと研ぎ澄まされていくのを、私はただ冷徹な歓喜とともに受け止めていた。




