第7話:『なだらかな共犯線』
三月の上旬、秀明館高校の鉛色の空は、少しずつ薄い水色へとほどけ始めていた。
校庭の隅にある桜の蕾はまだ硬く小さかったが、吹き抜ける風の角は丸くなり、冬の底冷えに耐えかねていたコンクリートの校舎にも、微かな春の陽射しが影を落としている。
学年末考査の最終日。
最後の科目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、特進A組を覆っていた息の詰まる結界が、わずかに緩んだ。鉛筆を置く音と、深く長い息を吐き出す気配。
教壇で答案を回収する担任の視線が、私の元で一瞬だけ止まり、満足そうに微かに頷かれた。全教科、記述の一文字に至るまで完璧に埋め尽くした解答用紙。安藤家の娘として、今回もまた満点というノルマを納品できたのだという冷徹な計算が、私の頭の片隅で淡々と処理される。
けれど、私の心拍数は、テストの出来栄えなどでは一ミリも揺れていなかった。
私の鼓動を跳ねさせていたのは、リュックサックの奥で静かにスリープしている、愛用のノートPCの向こう側の世界だった。
終礼が終わると同時に、私は誰とも言葉を交わさず教室を出た。
昇降口を抜け、正門を出た先にある小さな公園の桜の木の下。
マフラーを外した首元に、淡いラベンダー色の春用カーディガンを羽織った紗理奈が、つま先をトントンと弾ませながら待っていた。
「真紀ちゃん、お疲れ様!」
「紗理奈もお疲れ様。テスト、どうだった?」
「ばっちり! 真紀ちゃんが作ってくれた予想問題、数学でそのまま出たよ! 赤点回避どころか、平均点超えちゃったかも!」
満面の笑顔で駆け寄ってくる紗理奈の手には、あの擦りガラスのハンドクリームで丁寧に手入れされた、滑らかな指先があった。
彼女は周囲の視線がないことを確認すると、私のブレザーの袖口をきゅっと掴み、上目遣いに囁いた。
「ねぇ、早くお部屋行こ! もうすぐ……だよね?」
「うん。……あと十五人」
二人の足取りは、自然と早歩きになっていた。
*
紗理奈の部屋のカーテンを開けると、柔らかな午後の光がリビングのフローリングいっぱいに広がった。
冬の間、私たちを温めてくれた電気毛布は畳まれ、部屋の隅のリングライトには、春の明るい自然光が反射している。
私はローテーブルの上にノートPCを開き、紗理奈のアカウントのアナリティクス画面を展開した。
画面の中央に大きく表示された、リアルタイムのフォロワー数カウンター。
【99,987】
十万人の大台まで、あと十三人。
F5キーを押して画面を更新するたびに、数字が【99,989】、【99,992】と、目に見える速度で跳ね上がっていく。
「わ、増えてる……! 真紀ちゃん、どうしよう、心臓痛い!」
私の隣に正座した紗理奈が、私の左腕にぎゅっと抱きついてきた。
彼女の細い指先が、私のブレザーの生地を爪が白くなるほど強く握りしめている。その小さな震えは、恐怖ではなく、かつてない高みへと手を伸ばそうとしている人間の、純粋な武者震いだった。
「大丈夫。先週投稿した春服のLOOKBOOKが、おすすめのアルゴリズムに完全に拾われてる。一分間に三人のペースで流入してるから……あと三分で届く」
「三分……っ」
数字の更新を見つめながら、私の胸の奥に、言葉にできない熱い奔流が満ちていく。
半年前の夏。
クーラーもろくに効かないあの薄暗い部屋で、画質の悪いウェブカメラの前に座っていた少女。
フォロワー、四十二人。
誰にも見向きもされず、都会の片隅で一人で泣きながら、それでも「愛されたい」と震える声で発信していた彼女の隣に、私は座ったのだ。
安藤家で「できて当然」と切り捨てられ、誰からも評価されなかった私の頭脳と技術。
ミリ単位のカット割り。
完璧な色調補正とレタッチ。
大衆の心理を誘導するプロデュース。
私が注ぎ込んだすべての知性が、目の前の少女を研ぎ澄まし、今、十万人という巨大な群衆を従える偶像へと羽ばたかせようとしている。
――カチリ。
更新のボタンが押される。
【99,998】
【99,999】
【100,000】
パッと、数字の桁が一つ繰り上がった。
「――っ、十万……!」
紗理奈が息を呑み、大きく見開かれた蜂蜜色の瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
「真紀ちゃん……十万人だよ……! 私、十万人の人に、見てもらえてるんだよ……っ!」
「……うん。おめでとう、紗理奈」
言い終わるよりも早く、紗理奈が正面から私に飛び込んできた。
柔らかなラベンダーのカーディガンと、首筋の甘いシャンプーの匂い。
私たちはローテーブルの前で重なり合うように抱き合い、畳まれた絨毯の上に倒れ込んだ。
「すごいよ、全部真紀ちゃんのおかげだよ……! 真紀ちゃんが私の動画を作ってくれなかったら、こんな景色、一生見られなかった……! 真紀ちゃんは本当に、私の神様だよ……っ!」
「紗理奈が頑張ったからだよ。毎日、私の指示通りに笑顔を作って、撮影を投げ出さなかったから」
胸元に顔を埋めて泣きじゃくる紗理奈を、私は強く抱きしめ返した。
実家の冷たい食卓では、四百九十二点を取っても減点された。五百分の一のミスを責められた。
けれど、ここにある「十万」という数字は、誰にも減点できない。
私の存在が、この世界にとって確かに価値のあるものだと、十万人の見知らぬ人間たちが証明してくれている。
これ以上の麻薬が、この世界のどこにあるだろうか。
冷え切っていた私の魂が、紗理奈の涙と体温によって、熱く、甘く、痺れるように満たされていった。
*
「はい、お祝いの特製スープ!」
ひとしきり泣いて笑ったあと、紗理奈がキッチンから小さな陶器のボウルを二つ運んできた。
テーブルに置かれたのは、鮮やかな黄金色をした、湯気の立ち上るかぼちゃのポタージュ。
「これね、裏ごしを三回もして、すっごく滑らかにしたの。生クリームもちょっとだけ入れて、お祝い仕様!」
「いただきます」
スプーンを口に運ぶ。
とろりとした舌触りとともに、かぼちゃの優しい甘みと、ブイヨンの深いコクがじんわりと五臓六腑に染み渡っていく。
私の食事といえば、自室で飲む冷たいエナジードリンクか、時間を惜しんで流し込む無機質なゼリー飲料ばかりだった。けれど、紗理奈が作ってくれる温かいスープは、いつだって私の喉の奥の強張りを解いてくれる。
「……美味しい。すごく、温まる」
「えへへ、よかった。真紀ちゃん、最近また隈できてたから心配だったんだもん。ちゃんと栄養取ってよね」
「紗理奈こそ。……もう、薬は飲んでない?」
私の問いかけに、紗理奈はスプーンを止め、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「うん。あの日、真紀ちゃんに『偉い』って抱きしめてもらってから、一度も飲んでないよ。夜に不安になってもね、真紀ちゃんからもらったハンドクリームを手首に塗って、深呼吸すると……真紀ちゃんが隣にいてくれる気がして、ちゃんと眠れるの」
そう言って、彼女は自分の手首を愛おしそうに撫でてみせた。
萌え袖の隙間から覗く、滑らかな白い皮膚。
過去のいじめによる暗闇の古傷は、まだそこに刻まれている。けれど、私のプロデュースと、私の手当てによって、彼女は確実に傷を乗り越え、光の中を歩き始めているのだと、私は誇らしく思っていた。
スープを飲み終えたあと、私たちはベランダに出て、並んで手すりに寄りかかった。
三月の風はぬるく、遠くに見える高層ビルの群れが、夕暮れの淡い茜色に染まり始めている。
「……もうすぐ、二年生だね」
紗理奈が、手すりの上に置かれた私の右手に、自分の左手をそっと重ねてきた。
「秀明館は特進と普通科でクラス替えも別々だけど……真紀ちゃん、二年生になっても、私の隣にいてくれる?」
「当たり前でしょ。特進A組と普通科B組は、二年生になっても同じ校舎の同じフロアだよ。休み時間になったら、私が紗理奈の顔を見に行く」
「ほんと? 絶対だよ? 約束だからね」
「うん。約束する」
重ね合わされた手のひら。
指先が自然と絡み合い、互いの体温が隙間なく溶け合っていく。
朝のポケットの暗闇で温め合ったあの手は、今、春の柔らかな光の下で、誰にも邪魔されない確かな絆として結ばれていた。
十万人のフォロワー。
完璧な偶像としての「さりな」。
そして、彼女のすべてを支配し、守り続ける「神様」としての私。
この無菌室は完璧だった。
外側の世界がどれほど冷酷でも、どれほど大人が理不尽な満点を要求してこようとも、私たちの間には、互いの存在理由を証明し合える絶対の計算式が確立されていた。
私たちは手を取り合って、なだらかな階段を降りていく。
それが、逃げ場のない破滅へと続く傾斜であることに、微塵も気づかないまま。
春の微風が、二人の蜂蜜色と漆黒の髪を、優しく、残酷に撫で上げていた。




