第6話:『一錠の過剰』
バレンタインの甘い熱気が冷めやらぬ週末の放課後、紗理奈のワンルームは、いつも通りの静謐な午後の光に満たされていた。
ローテーブルの隅には、昨日私が贈ったあの擦りガラスのハンドクリームが、一番陽の当たる特等席に大切そうに置かれている。隣には空になった生トリュフの小箱。部屋の空気には、かすかにラベンダーと柑橘の清潔なハーブの香りが漂っていた。
「真紀ちゃん、お湯沸いたよー。アールグレイにする? それともココアにする?」
「アールグレイでお願い。ストレートで」
「はーい、少々お待ちを!」
キッチンから、やかんの沸騰する軽やかな汽笛と、鼻歌交じりの紗理奈の明るい声が聞こえてくる。
私はローテーブルの前に座り、ノートPCのキーボードに手を置く前に、散らかったメモ用紙やスタイリング用のコームを端へ寄せようと手を伸ばした。
その時だった。
コスメポーチの陰、手鏡のすぐ下に滑り込むように置かれていた、一枚の薄いプラスチックシートが私の指先に触れた。
――カサリ、とアルミ箔が擦れ合う硬質な音。
私は無意識のうちに、そのシートをつまみ上げていた。
銀色に鈍く光るPTPシート。
心療内科の主治医から処方されている、正規の抗不安薬――パニック発作や強い予期不安に襲われた際、発作を頓挫させるための「頓服薬」だ。
十錠で一シートの規格。
裏面のアルミには、青いインクで薬品名と用量が几帳面に印字されている。
医療系の名門である安藤家に生まれ、父の書斎に並ぶ薬理学の専門書を幼い頃から眺めて育った私にとって、この小さな錠剤が持つ意味を読み解くことは、英語の長文読解よりも遥かに容易な作業だった。
この薬は、二週間に一度の定期通院で、予備として厳格に処方されているものだ。
紗理奈の服薬ログは、私のノートPCのスプレッドシートにもバックアップとして完全に同期されている。
前回の通院は先週の土曜日。
一学期からの経過を鑑みても、彼女の発作の頻度は落ち着いており、先週の日曜日に一度だけ飲んだきり、シートには九錠が残っていたはずだった。
そして火曜日の夜、生配信前の緊張を和らげるために指示通りもう一錠を服用し、残数は八錠。
――けれど。
私の指先が、シートの裏面に並んだ膨らみをなぞる。
押し破られたアルミの窪みが、一つ、二つ、三つ。
……四つ。
残数、六錠。
計算が合わない。
破られた窪みが、あらかじめ把握していたスケジュールより「一錠多い」。
「……真紀ちゃん、紅茶淹れたよ――」
湯気を立てるマグカップを両手に持ち、キッチンから小走りで戻ってきた紗理奈の足音が、唐突にピタリと止まった。
カタ、とマグカップの中でスプーンが小さく鳴る。
私が手に持っている銀色のシートを見つめた瞬間、紗理奈の顔から、さっきまでの血色がサーッと引いていくのが分かった。
蜂蜜色の瞳が、見開かれたまま小刻みに震えている。まるで、絶対に暴かれてはならない秘密の部屋の扉を、一番見られたくない相手に開け放たれてしまったかのように。
「……あ」
乾いた声が、紗理奈の唇から零れ落ちた。
彼女はマグカップを持ったまま、その場に縫い止められたように立ち尽くしている。手首を隠す長袖の袖口が、カタカタと目に見えるほどの激しさで震え始めていた。
「紗理奈、カップを置いて」
私はできる限り平熱を装い、穏やかな声で言った。
「こぼしたら火傷する。テーブルに置いて」
「……っ、う、ん……」
紗理奈はおぼつかない足取りでローテーブルへ歩み寄ると、震える手でマグカップを置いた。
テーブルに置かれたカップの中で、アールグレイの水面が激しく波紋を描いている。それだけで、彼女の心拍数が今どれほど危険な領域まで跳ね上がっているかが痛いほど伝わってきた。
紗理奈は後ろ手にしたまま、一歩後ずさり、床に膝をつくようにして小さくうずくまった。
萌え袖の先をぎゅっと握りしめ、私と視線を合わせようとしない。
まるで、学校の職員室で断罪を待つ罪人のような、息の詰まる沈黙。
「……昨日の夜、だよね」
私は銀色のシートをテーブルの上に静かに戻し、彼女の前に膝をついた。
「バレンタインのあと。私が帰ったあと、飲んだの?」
「……ごめんなさい」
絞り出すような、か細い声だった。
紗理奈の長い睫毛から、大粒の涙がぽろりと零れ落ち、チェックスカートの膝の上に濃い染みを作っていく。
「ごめんなさい、真紀ちゃん……私、また約束破っちゃった……。薬に頼らないで、笑顔で頑張るって言ったのに……」
「約束なんてしてないよ。無理に我慢しろなんて、私、一度も言ったことない」
「でも……! 昨日の夜、真紀ちゃんが帰ったあと、急に部屋がすごく広くて暗く見えて……心臓がバクバクして、息が吸えなくなっちゃって……」
紗理奈は両手で自分の胸元を掻きむしるようにして、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「中学の時の……あの教室の悪口とか、ヒソヒソ笑う声が、耳の奥でずっと鳴り止まなくて……。真紀ちゃんに電話しようって、スマホを持ったの。でも、真紀ちゃんに迷惑かけちゃいけない、重い子だって思われたくないって思ったら、手が震えてボタンが押せなくて……」
過剰摂取をしたわけではない。
自傷に逃げたわけでもない。
彼女はただ、夜の暗闇の中で一人、発作に怯え、爪を立てて耐えかねた末に、医師から指示された通りの「一錠」を押し破り、冷たい水で喉の奥へ流し込んだのだ。
たった一人で、日常を繋ぎ止めるために。
明日もまた、学校へ行き、カメラの前で完璧な「さりな」を演じ続けるために。
「……真紀ちゃん、私に失望した……?」
紗理奈が、涙で濡れた瞳を恐る恐る持ち上げ、私を見つめてきた。
その瞳に宿っていたのは、見捨てられることへの底なしの恐怖だった。
「こんな、薬がないと息もできない壊れかけの私なんて……もう神様ごっこなんてできないよね? 愛想尽かしたよね……? お願い、怒らないで……見捨てないで、真紀ちゃん……っ」
――胸の奥が、鋭利なガラスで引き裂かれたような痛みに貫かれた。
失望?
呆れる?
そんな感情、私の心の中に一ミリたりとも湧き上がるはずがなかった。
目の前で震えている少女は、誰のためでもない、私を失望させないためだけに、昨夜の暗闇の中で一人、心臓を軋ませながら耐えていたのだ。
安藤家の食卓で、両親が私に突きつける「完璧でなければ価値がない」という減点法の刃。
その同じ刃で、私は無意識のうちに、この少女の首を絞めかけていたのではないか。
私は言葉を探すよりも先に、両腕を伸ばしていた。
――ぎゅっ、と。
骨が軋むほどの力で、震える紗理奈の身体を正面から強く抱きしめた。
「――っ、まき、ちゃん……?」
「失望なんて、するわけないでしょ」
紗理奈の耳元に唇を寄せ、私は一言一言、彼女の魂に刻み込むように囁いた。
「生き延びるために飲めたなら、偉いよ。ちゃんと、自分を守るために薬を飲めたんでしょ。……偉かったね、紗理奈」
「……え……?」
「私は怒ってない。呆れてもいない。……ただ、苦しかったのに、隣にいてあげられなくてごめんね」
紗理奈の呼吸が、トクンと止まった。
次の瞬間、私のブレザーの背中に彼女の両手が回され、激しい嗚咽とともに、熱い涙が私の首筋へと溢れ出した。
「うわぁぁぁん……っ、真紀ちゃん……真紀ちゃん……っ!」
「うん。ここにいるよ」
「怖かった……っ、一人で消えちゃうんじゃないかって、すごく怖かったよぉ……!」
「消させない。私が絶対に、紗理奈を消させたりしない」
私は彼女の淡い蜂蜜色の髪を、何度も、何度も優しく撫で下ろした。
彼女の細い背中を、一定のリズムでトントンと叩く。夏休みの路地裏で、初めて彼女を介抱したあの日と同じリズムで。
泣きじゃくる紗理奈の小さな心臓の鼓動が、私の胸板を通してダイレクトに伝わってくる。
その弱々しくも切実な脈動を受け止めながら、私の内側には、かつてないほど強固で、冷徹な確信が根を張っていた。
この子の安全綱は、あの銀色の錠剤じゃない。
医者が形式通りに処方する薬でも、遠い街にいる家族でもない。
私だ。
薬すら効かなくなった時、この子の呼吸を繋ぎ止め、この子を人間として肯定できるのは、世界中で私一人しかいない。
「……真紀ちゃん」
やがて泣き疲れた紗理奈が、私の腕の中で微かに顔を上げた。
赤く腫らした目元に、私はそっと指先を添え、零れ落ちた涙を拭った。
「もう大丈夫?」
「うん……。真紀ちゃんに抱きしめてもらったら、心臓のドキドキ、止まった……」
「ならよかった。……今度から、夜に苦しくなったら、何時でもいいから電話して。ワン切りでもいいから。私がすぐに、紗理奈の呼吸になるから」
「……うん。約束する」
紗理奈は私の首元に深く顔を埋め、安堵しきった吐息を漏らした。
その無防備な重みを抱きしめながら、私はテーブルの上に転がっている銀色のシートを、視界の端で静かに見つめていた。
押し破られた、一錠の過剰。
それは、私たちの無菌室のガラスに刻まれた、最初の目に見えない微細な亀裂だった。
けれど、その亀裂すらも、互いをより強く縛り付け、逃げ場のない共犯関係を深めるための甘美な接着剤に過ぎないと――その時の私は、本気で信じ込んでいた。




