第5話:『契約更新のカカオ』
二月十四日、秀明館高校の校舎は、一年の中で最も騒がしく、そして最も浮き足立った空気に包まれていた。
成果主義を掲げる進学校とはいえ、生徒の八割を占める普通科のフロアは朝から異様な熱気に満ちている。購買のパンの棚にはいつもより華やかな菓子パンが並び、渡り廊下のあちこちで、可愛らしくラッピングされた小袋を背中に隠した女子生徒と、わざとらしく平静を装った男子生徒たちがぎこちなくすれ違っていた。
もちろん、四階の特進A組にはそんな浮かれた風潮など微塵も存在しない。
教室の黒板には、次の実力考査までのカウントダウンが無機質な白チョークで刻まれ、誰もがいつも通り、耳栓をして参考書に視線を落としていた。
けれど、昼休みのチャイムが鳴った直後、廊下側の窓ガラスがコンコンと軽くノックされた。
視線を上げると、窓の向こうに紗理奈が立っていた。
手にはクラスメイトたちに配るための大きな紙袋を提げている。彼女は私の姿を認めると、周囲の生徒たちに悟られないよう、人差し指を自分の唇にそっとあて、それから悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
――放課後、待ってるね。
声に出さず、唇の動きだけで紡がれたそのメッセージ。
私は誰にも気づかれないよう、机の上で小さく頷きを返した。
胸の奥で、無機質だった心拍がトクンと小さく跳ねる。大衆に向けられた義理の笑顔ではない、世界で私一人だけに向けられた特別な合図。それだけで、冷え切っていた教室の空気が、少しだけ和らぐような気がしていた。
*
放課後、マンションのオートロックを抜け、紗理奈の部屋の玄関ドアを開けた瞬間、私の嗅覚を甘く濃密な香りが包み込んだ。
いつものフローラルといちごの香水ではない。
深く焙煎されたカカオのほろ苦い香りと、ベルガモットの華やかで爽やかなアールグレイの香気。
「いらっしゃい、真紀ちゃん! 寒かったでしょ、早く入って!」
出迎えてくれた紗理奈は、制服のブレザーを脱ぎ、淡いラベンダー色のエプロンを身につけていた。
髪を後ろで緩くまとめ、頬にはうっすらと白い粉糖がついている。その飾らない姿が可笑しくて、私は思わず口元を緩めた。
「紗理奈、頬に粉がついてる」
「えっ、嘘、どこ!? もー、真紀ちゃんが来る直前まで仕上げやってたからだぁ」
慌ててエプロンの端で顔を拭う紗理奈の手を、私はハンカチを取り出してそっと遮った。
柔らかな綿の生地で、彼女の白い頬を優しく撫でるように粉糖を拭う。至近距離で見つめ合うと、紗理奈の蜂蜜色の瞳が嬉しそうに揺れた。
「ありがとう、真紀ちゃん。……はい、これ! 私の本命!」
リビングのローテーブルの上に、深紅のリボンが結ばれた小さな正方形の小箱が置かれていた。
箱を開けると、粉雪のような純白のパウダーシュガーを纏った、一口大の生トリュフが六つ、宝石のように綺麗に並んでいる。
「真紀ちゃん、甘すぎるの苦手でしょ? だからね、ビターチョコを使って、生クリームに最高級のアールグレイの茶葉をじっくり煮出して香りを移したの。砂糖もギリギリまで減らして、カカオの苦味と香りが引き立つようにしたんだよ」
「……紗理奈が、一人で作ったの?」
「うん! 三回も試作して、昨日の夜にやっと納得いく味になったんだから。はい、手を出して」
紗理奈は小さな木製のフォークでトリュフを一つ刺すと、私の口元へと運んできた。
いつもの「あーん」の体勢。けれど、その瞳には、自分の作った動画を私に初めて見せた時のような、少しの緊張と、大きな期待が宿っていた。
私はためらわずに、そのトリュフを口に含んだ。
「――っ」
舌の上に触れた瞬間、体温でほろりとカカオの薄い層が崩れ去る。
次の瞬間、口いっぱいに広がったのは、生クリームの滑らかなコクと、鼻腔を突き抜けるような高貴なベルガモットの香り。苦味と甘みのバランスが極限まで計算されていて、重たさを一切感じさせない。
「……どう? 甘すぎない?」
「……すごく、美味しい。お店で売ってる高級なショコラティエのものより、ずっと美味しいよ」
「ほんと!? やったぁぁぁ!」
紗理奈は両手を叩いて飛び跳ねると、そのまま私の隣に飛び込むように腰を下ろし、私の腕にすり寄ってきた。
エプロン越しに伝わってくる、甘いカカオの香りと、彼女の柔らかな体温。
「真紀ちゃんに褒めてもらえるのが、一番嬉しい。……ねぇ、真紀ちゃん」
「ん?」
「これね、ただのバレンタインチョコじゃないんだよ」
紗理奈は私の腕に頭を預けたまま、少しだけ声を潜めて、上目遣いに私を見つめてきた。
その瞳の奥には、甘い砂糖菓子のような情愛と、どこまでも深く仄暗い依存の色が溶け合っていた。
「これね、私たちの**『契約更新のチョコ』**なの」
「契約更新?」
「そう。一年前の夏、真紀ちゃんが私を見つけて、プロデュースしてくれたでしょ? 『見捨てない』って約束してくれたでしょ? ……だから、今年も、来年も、再来年も。私が美味しいチョコを渡すから、真紀ちゃんはずっと私の神様でいてね、っていう契約」
喉の奥が、甘いカカオの余韻とともにきゅっと締め付けられた。
契約。
条件付きの肯定。
安藤家で課される「満点を取らなければ存在を許されない」契約と同じ構造のはずなのに――なぜだろう、紗理奈から突きつけられるその契約は、息苦しいどころか、私の凍りついた魂を芯から蕩かすような甘美な毒として染み渡っていく。
「……そんなもの作らなくても、私は紗理奈の隣にいるよ」
「ううん、形にしなきゃ不安なの。私、真紀ちゃんに何かを返せてるって思えないと、怖くなっちゃうから」
紗理奈はそう言って、私のブレザーの袖口をぎゅっと握りしめた。
その小さな手の震えに、私は静かに息を吸い、自分のリュックサックへと手を伸ばした。
「紗理奈。私からも、渡したいものがある」
「えっ、真紀ちゃんから? ホワイトデーじゃなくて、今日?」
私はリュックの底から、丁寧に包装された細長い小箱を取り出し、紗理奈の手のひらの上へと乗せた。
リボンを解き、箱を開けた紗理奈が、小さく息を呑む。
中に入っていたのは、手のひらサイズの、上品な擦りガラスで作られた円筒形のポンプボトルだった。
淡いオリーブグリーンのラベルに、シンプルな英文字。オーガニックの植物オイルとハーブを贅沢に使用した、都内の専門店でしか手に入らないハンドクリームだ。
「ハンドクリーム……? すごくお洒落……ガラスのボトル、すりガラスで触り心地がすべすべしてる」
「紗理奈、動画の撮影で毎日何度も手を洗って、アルコール消毒もしてるでしょ。コスメのレビューでクレンジングを腕に塗ったり落としたりもしてるし」
私は紗理奈の右手をそっと取り、萌え袖の先から覗く指先を見つめた。
画面の中では完璧にレタッチされ、陶器のように滑らかに見えている彼女の手。
けれど、生身の彼女の指先には、冬の乾燥による細かなささくれや、爪の甘皮が微かに赤く毛羽立っている部分があった。誰にも見えない、大衆が決して気付かない、等身大の彼女の摩耗。
「それに、手首の皮膚も……乾燥すると痒くなって、古傷が痛むかもしれないから。このクリーム、ベタつかないし、ラベンダーと柑橘の精油が入ってるから、夜塗るとよく眠れるよ」
「……真紀ちゃん」
紗理奈の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
彼女は擦りガラスのボトルを宝物のように胸に抱きしめると、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「見ててくれたんだ……。私、動画では手元も綺麗に見せなきゃいけないから、痛くても我慢してファンデーション塗ってて……すごく荒れちゃってて……」
「知ってるよ。私が、紗理奈の肌のドットを一番近くで見てるんだから」
私はボトルのポンプを一度だけ押し、自分の手のひらに乳白色のクリームを少量取った。
ふわりと広がる、清潔で穏やかなラベンダーの香り。
そして、紗理奈の震える両手を包み込むようにして、指先から手の甲、そして萌え袖の隙間から覗く手首の輪郭へと、優しくクリームを塗り広げていった。
「……ん、あったかい……」
私の体温とクリームの水分が、紗理奈の強張っていた指先をゆっくりと解きほぐしていく。
傷口を暴くためではない。他人の好奇の目から隠すためでもない。
ただ、今日まで必死に笑顔を作って生き延びてきた彼女の皮膚を、ありのまま慈しむための手当て。
「紗理奈の手は、私が守るから」
「……うん。真紀ちゃん、大好き……本当に、大好き」
紗理奈は私の胸元に顔を埋め、子猫のように小さく鼻を鳴らした。
擦りガラスのボトルの冷たさと、ハンドクリームの微かな油分、そして互いの皮膚が触れ合う柔らかな熱。
窓の外では、東京の空が濃紺の夕闇へと沈み、冷たい夜風が街を冷やし始めていた。
けれど、この部屋の中だけは、芳醇なカカオの香りと、二人の体温で満たされた絶対の無菌室だった。
大衆の悪意も、成果主義の暴力も、冷酷な親の正論も、この甘い密室の扉を破ることはできない。
――来年も、再来年も、ずっとこうしていようね。
そう囁く紗理奈の声を背中に聞きながら、私は彼女の背中を静かに撫で続けた。
この完璧な契約が、永遠に続いていくのだと信じながら。
そのすぐ隣のテーブルの隅に置かれた、銀色の薬シートの存在から、無意識のうちに目を逸らしながら。




