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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第一症 存在理由=証明

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4/24

第4話:『減点法の食卓』

 紗理奈の部屋を出て、地下鉄を乗り継ぎ、都内屈指の高級住宅街へと足を踏み入れる。

 高いコンクリート壁に囲まれた安藤家の邸宅は、夜の闇の中で冷たい要塞のように聳え立っていた。代々続く医療法人の理事長を務める父と、同じく医師家系出身の母。この敷居を跨ぐ時、私はいつも無意識のうちに喉元まで制服のネクタイを引き上げ、心の中のブレーカーを一つ残らず落とす。

「ただいま戻りました」

 大理石の広い玄関に声を落としても、出迎えの声はない。

 返ってきたのは、廊下の奥から響く、冷たい銀の食器が触れ合う規則正しい硬質な金属音だけだった。

 手を洗い、制服の皺を正してダイニングルームの引き戸を開ける。

 天井の高い部屋の中央には、十人は座れる無垢材の長いテーブルが置かれ、その片隅で両親が向かい合って座っていた。給仕された料理から立ち上る湯気すら、この部屋の冷気を温めることはできない。

 父はタブレット端末に表示された病院の経営指標に視線を落としたまま、母は音を立てずにスープスプーンを口に運んでいた。

「真紀、座りなさい。遅かったわね」

 母が顔を上げずに言った。責めるような口調ではない。ただ、決められたタイムスケジュールから数十分遅延した事実を、淡々と指摘するだけの声。

「すみません。特進の自習室で数学の課題をやっていました」

「そう。夕食は温め直してあるわ」

 私は指定された席に腰を下ろし、冷めかけたポタージュに口をつけた。

 舌が味を拒絶しているのか、ただのぬるいペーストを喉に流し込んでいるような感覚しかしない。

 この食卓において、食事とは肉体を維持するための最低限の燃料補給に過ぎず、会話とは進捗報告の場だった。

 父がタブレットをテーブルに伏せ、眼鏡を外して私を一瞥した。

「先日の実力考査の結果表、担任からデータが共有されていたぞ」

「……はい」

「特進クラスで学年順位は一番。だが、五教科合計で四百九十二点。数学の最後の記述で、八点落としているな」

 父の声には、怒りも失望も含まれていなかった。

 ただ、精密機械の検品作業で不良箇所のログを読み上げるような、恐ろしいほどの平熱。その抑揚のなさが、私の胃の底をぎりぎりと締め上げていく。

「……問題文の条件指定の読み落としです。次は気をつけます」

「『次は気をつける』、か」

 父が静かに腕を組んだ。

 そして、逃げ場を一手ずつ塞ぐように、穏やかな、けれど反論を許さない大人の論理を展開し始める。

「真紀、お前は自分が今、どういう立場に置かれているか分かっているのか」

「……秀明館の、特進クラスの生徒です」

「そうだ。そして秀明館の特進に在籍し、国立医学部を目指す環境を、誰が整えていると思っているんだ。お前が何不自由なく毎日の授業を受け、自分の部屋で暖房をつけて勉強できているのは、誰のおかげだ?」

「……お父さんと、お母さんです」

「そうだ。私たちが朝から晩まで働き、安藤家の信用と資本を投じて、お前に最高峰の教育環境を用意してやっているからだ。それは誰のためだと思っている? 私たちの見栄のためか? 違うだろう」

 父は静かに、けれど逃げ場のない視線で私を真っ直ぐに射抜いた。

「すべて、お前のためだ。将来、社会に出てから頭を下げ、理不尽に踏み躙られる惨めさを味わわせたくないからだ。医療の現場において、コンマ数ミリの判断ミス、八パーセントの怠慢は、そのまま他人の死と巨額の訴訟に直結する。その時に『次は気をつけます』と言い訳して許されると思うか? 許されない。一回のミスで、人間はすべてを失うんだ」

 母が静かに紅茶のカップを置き、感情の籠もらない合いの手を添える。

「お父さんの言う通りよ、真紀。世の中の他人はね、あなたが八点落としても、表面上は『すごいね、一番だね』って褒めてくれるのよ。でも裏では、あなたの綻びを冷たく笑って、黙って切り捨てるだけ。親だからこそ、あなたのためを思って、こうして現実の厳しさを教えてあげているの。お姉ちゃんは、高校三年間で一度も満点を逃したことはなかったわよ」

 お姉ちゃん。

 安藤凛という、この家で完璧に機能し、国立医学部へと進学した絶対的な存在の名前。

 その比較を耳にした瞬間、私の胸の奥で、無機質な鉄の味が広がった。

「感謝を強要する気はない」

 父は再び眼鏡をかけ、淡々と結んだ。

「ただ、これだけの環境と資金を享受している以上、親に対して要求された結果を納品するのは、子どもとしての最低限の筋だろう。もし不満があるなら、自分で生活費を稼ぎ、学費を一括で払って、一人で生きていけるようになってから主張しなさい。それができないなら、親の庇護下にいる未熟者として、言われた通りの結果を出しなさい」

 ――反論の余地など、最初からどこにもなかった。

 父の言葉も、母の言葉も、この資本主義社会と現実のルールにおいて、一分の隙もなく正しい。

 怒鳴り散らされたなら、「理不尽だ」と親を憎むこともできた。

 けれど彼らは、完璧な「正論」と「恩義」という名の防具で全身を固め、逃げ道をミリ単位で塞ぎながら、私の存在価値を冷徹に削り落としてくる。

「……申し訳ありませんでした。以後、二度と落としません」

 私は立ち上がり、九十度の角度で頭を下げた。

 感情のスイッチは、もう完全に切れていた。

 私は彼らの娘ではない。投資された資本に対して、満点という利回りを返すためだけに稼働する、出来のいい金融商品だ。

「失礼します」

 私は食べかけの食器を下げ、無音のままダイニングルームを後にした。

     *

 自室のドアを閉め、内鍵をカチャリと回した瞬間、私はようやく肺の底に溜まっていた濁った空気を吐き出した。

 電気はつけない。

 月明かりだけが差し込む冷たいフローリングを歩き、デスクの足元にストックしてある銀色と白の缶――エナジードリンク『モンスターエナジー・ウルトラ』を取り出す。

 プシュッ、と小気味のいい金属音が部屋に響いた。

 喉に流し込む。無糖のケミカルな甘露と、強烈な炭酸の刺激が、麻痺しかけていた食道と胃壁をチリチリと焼き焦がしていく。これが私の、本当の食事だった。

 椅子に深く腰掛け、愛用のノートPCを開く。

 液晶の青白いバックライトが、暗闇の中に私の無表情な輪郭を浮かび上がらせた。

 私は流れるような手つきでキーボードを叩き、紗理奈のアカウントのアナリティクス画面と、次週の投稿スケジュール表をデュアルで展開した。

【目標フォロワー数:100,000人(現在:98,910人)】

【次回投稿予定:日曜20:00(長尺Vlog「休日の朝食ルーティン」)】

 私は画面に表示された視聴維持率の折れ線グラフを、まばたきもせずに睨みつける。

 競合となる同ジャンルのインフルエンサー三十名のアカウントの投稿時間、サムネイルの配色、使われているBGMのBPMをスプレッドシートにプロットし、最もアルゴリズムに愛される最適解を導き出す。

「……日曜の夜は、二十時十五分がベスト。サムネイルの文字色は白にシャドウをつけて、視認性を四パーセント上げる……」

 キーボードを叩く打鍵音だけが、無機質な部屋に規則正しく響き続ける。

 実家の食卓で突きつけられる「満点以外はゼロ」の減点法。

 けれど、ここにある数字は違う。

 私が分析し、私がレタッチし、私がミリ単位で調整した分だけ、世界中から「いいね」という名の加点が積み上がっていく。私の知性と技術が、目の前の少女を輝かせ、確実に世界を支配していく。

 安藤家で誰にも愛されなかった私の頭脳が、唯一、他人に求められ、必要とされるテスト。

 それが、紗理奈のプロデュースだった。

 これだけは、誰にも奪わせない。父親の正論にも、母親の比較にも、決して汚させはしない。

 ブブッ、とデスクの上に伏せてあったスマートフォンが、微かに震えた。

 画面を覗き込むと、メッセージアプリの通知が一件、暗闇の中に灯っていた。

『紗理奈:真紀ちゃん、おうち着いた? 今日のお弁当、喜んでくれて嬉しかったな。寒かったから風邪ひかないでね』

 数秒後、続けてもう一枚の写真が送られてくる。

 さっきの部屋のベッドの上で、手首をすっぽり覆うピンクのパジャマを着た紗理奈が、両手でピースサインを作っている自撮り写真。

 すっぴんの、少し眠そうな、けれど私にしか見せない無防備な笑顔。

『紗理奈:真紀ちゃん、いつも本当にありがとう。真紀ちゃんは私の全部だよ。おやすみなさい、大好き!』

 ――私の、全部。

 その文字を見つめた瞬間、さっきまで胃の底に溜まっていた重たい鉛が、ふっと軽くなるのを感じた。

 誰のためだ、と父は言った。

 お前のためだ、と母は言った。

 嘘だ。私のための場所なんて、あの食卓のどこにもなかった。

 私の魂の置き場所は、ここにある。

 画面の向こうで私を全肯定し、私の名前を呼び、私を神様だと信じて疑わない、あの少女の隣だけに。

 私はスマートフォンの液晶を、冷え切った指先でそっと撫でた。

 朝、秀明館の廊下のポケットの中で、彼女が分け与えてくれたあの柔らかな熱を、もう一度思い出すように。

「……おやすみ、紗理奈」

 暗い部屋の中で、私は誰にも聞こえない声で呟いた。

 私には紗理奈がいる。紗理奈には私がいる。

 二人だけの密室がある限り、外側の冷酷な世界がどれほど私たちを否定しようと、私たちは絶対に壊れない。

 青白いPCの光と、スマートフォンの光。

 二つの小さな光に守られながら、私は再び、感情のスイッチを静かに落とした。

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