第3話:『画角の外の共犯者』
秀明館高校の特進A組は、昼休みになっても決して騒がしくなることはない。
教室を満たしているのは、英単語の暗記アプリをタップする微かな指の音と、マークシート用のシャープペンシルが模試の解説を走る擦過音だけだ。東大や国公立医学部への現役合格を義務付けられた三十名の生徒たちは、購買のパンや栄養調整食品を片手で咀嚼しながら、隣の席の人間がいかに自分より進捗しているかを横目で監視し合っている。
ここには「青春」などという曖昧な猶予は存在しない。あるのは偏差値という絶対的な序列と、その重圧に耐えかねて時折誰かが落とす、重苦しいため息だけだった。
その灰色の静寂を、軽やかな足音がためらいもなく踏みにじってくる。
「――真紀ちゃん、お昼食べよ!」
からりと前扉が開き、蜂蜜色の髪を揺らした紗理奈が姿を現した瞬間、教室中の視線が一斉に彼女へと集中した。
普通科B組のブレザーに、短めのチェックスカート。手首をすっぽりと隠した長袖の萌え袖には、淡いピンクのランチバッグが提げられている。
張り詰めた無菌室に迷い込んだ極彩色の蝶のような彼女に、教室の隅の男子生徒たちが息を呑み、女子生徒たちがどこか品定めするような冷めた視線を投げかける。けれど紗理奈は、そんな周囲の空気などまるで気付いていないかのように、屈託のない満面の笑顔で私の席へと一直線に歩み寄ってきた。
「紗理奈、ここは特進の教室だよ。他の人の自習の邪魔になる」
「えー、減るもんじゃないし平気平気。ほら、席詰めて。向かい合って座ろ」
私の注意など聞き流し、紗理奈は私の向かいの空席――購買へパンを買いに行った男子生徒の椅子を器用にくるりと回転させ、私の机の上に自分の弁当箱を並べた。
白木の二段弁当。蓋を開けると、色鮮やかなミニトマトとブロッコリー、そして黄金色に焼き上げられた出汁巻き卵が綺麗に敷き詰められている。
「はい、真紀ちゃんの分! 今日もちゃんと早起きして焼いてきたんだから」
「……ありがとう。でも、自分で食べられるよ」
「だーめ。はい、あーんして」
割り箸で一切れの出汁巻き卵を摘み上げると、紗理奈は首を少し傾げて、私の口元へと差し出してきた。
教室の空気が、さらに一段と硬化するのが肌でわかる。
特進トップの冷徹な優等生と、校内でも指折りの美少女インフルエンサー。机の上で繰り広げられるその光景は、周囲の生徒たちにとって、まるで少女漫画のワンシーンを無理やり見せつけられているかのような、非現実的な羨望の対象だったはずだ。
私はため息を押し殺し、観念して口を開いた。
舌の上に広がる、控えめな甘さと上品な出汁の風味。
「……どう? 美味しい?」
「うん。塩加減も甘さもちょうどいい」
「えへへ、よかった! 真紀ちゃん好みに味付け調整したんだよ」
紗理奈が嬉しそうに目を細め、花が咲くように微笑む。
机の上では、誰もが羨む無邪気で美しい親友同士の戯れ。
けれど――机の下では、全く別の秘密が共有されていた。
ことり、と微かな衣擦れの音がして、私の履く黒タイツの膝に、紗理奈の履く薄手のタイツの膝がそっと押し当てられる。
逃げ場を塞ぐように、ぴたりと密着させられた太ももの熱。
紗理奈は口元に手を当てて楽しそうに笑いながら、机の天板に隠れた足先で、私のローファーの爪先をツンツンと小突いてくる。誰にも見えない死角で交わされる、二人だけの皮膚の暗号。
「……紗理奈」
「ん? なあに、真紀ちゃん」
悪戯が成功した子猫のような瞳で、彼女が私を見つめ返してくる。
その時、廊下を通りかかった普通科の女子生徒が、教室の扉から顔を覗かせた。
「あ、さりなちゃーん! 昨日のルックブックのショート見たよ! あのマフラーの巻き方めっちゃ参考になったー!」
「わ、ホントに!? ありがとうー! 真紀ちゃんが画角のアドバイスしてくれたおかげなんだよー!」
紗理奈は一瞬でトーンをワントーン上げ、机の下の足を私の足に絡めたまま、扉の方を向いて完璧な愛嬌を振りまいてみせた。
声をかけてきた生徒は、満足そうに手を振って去っていく。
彼女たちにとって、紗理奈は「可愛くて、気さくで、トレンドを教えてくれる便利なアイコン」に過ぎない。その笑顔を維持するために、彼女が昨夜どれほど神経を尖らせていたかも、今私の膝に押し付けられている彼女の足が、過緊張で微かに震えていることすら、誰も知らないし、知ろうともしないのだ。
「……今日の夜、二十一時から配信だよね」
私は自分のパウチゼリーを飲み干しながら、周囲に聞こえない低い声で言った。
「うん。フォロワー十万人目前の、定期雑談配信。……真紀ちゃん、今日も来てくれる?」
「当たり前でしょ。私がいないと、コメント欄の管理が回らない」
「ふふ。頼りにしてます、私のプロデューサー」
机の下で、紗理奈の足がぎゅっと私のふくらはぎを挟み込んできた。
その確かな拘束感に、私の胸の奥は、やはり静かに満たされていた。
*
夜二十時四十五分。
紗理奈のマンションのワンルームは、昼間の明るさとは打って変わって、冷徹なスタジオへと姿を変えていた。
遮光カーテンが隙間なく閉め切られ、部屋の中央には巨大なリングライトが設置されている。直視すれば目を焼くような、純白のLEDの光環。その正面に置かれた高画質ウェブカメラの前に、紗理奈が背筋を伸ばして座っていた。
淡いピンクのモヘアニットに、入念に整えられた蜂蜜色の髪。唇には艶やかなリップが引かれ、カメラのプレビュー画面の中には、傷ひとつない完璧な美少女が完成されていた。
だが、そのカメラの画角からわずか五十センチ外側――光の当たらない死角に、私はいた。
ローテーブルの上に愛用のノートPCを開き、外部モニターを接続して二画面を監視する。片方の画面には配信用ソフトウェアの管理画面、もう片方にはリアルタイムのアナリティクスと、コメントのモデレーションツール。
私の手元には、太い黒マジックと、めくりやすいように角を折ったスケッチブックが置かれていた。
「紗理奈、リップの左端がコンマ数ミリはみ出てる。綿棒でオフして」
「ん……こう?」
「そう。あと、マイクのゲインを二デシベル下げた。声が割れやすいから、笑う時は少し顔を引いて」
「了解です、真紀様」
おどけて敬礼してみせる紗理奈だったが、リングライトの熱気に晒されたその額には、うっすらと緊張の汗が浮いていた。
手首の袖口を何度も指先で握り直し、小さく息を吸っては吐いている。
生配信。
編集という名の魔法が一切効かない、完全なリアルタイムの戦場。
どれほど人気が出ようとも、彼女にとってカメラの向こうに広がる見知らぬ群衆の視線は、いつ牙を剥くかわからない猛獣の群れと同じだった。
「緊張してる?」
「……ちょっとだけ。十万人近い人が、私のこと見てるんだって思うと、喉がきゅってなっちゃう」
「大丈夫」
私は画角の外から手を伸ばし、カメラの死角になっている紗理奈の左足――モヘアニットの下の、冷え切った足首を上から毛布越しにそっと包み込んだ。
「私がここにいる。悪意のある言葉も、下品なコメントも、全部私が視界に入る前に消去する。紗理奈は、私の指示通りに笑っていればいい」
「……うん。真紀ちゃんがいるから、私、笑えるよ」
時計の針が、二十一時ゼロ分を指した。
私はマウスをクリックし、配信開始ボタンを押す。
【ライブ配信中:00:00:01】
【同時接続数:1,204】
カチリ、と紗理奈の表情のスイッチが入った。
「――みなさん、こんばんはー! さりなです! 金曜日の夜、来てくれてありがとう!」
鈴を転がすような、完璧に調律されたワントーン高いアイドル笑顔。
画面の中の彼女が手を振った瞬間、チャット欄が目にも留まらぬ速度でスクロールを始めた。
『きたあああああ!』
『さりなちゃん今日も顔面国宝すぎる』
『金曜の癒やし! 一週間の疲れ吹っ飛んだ』
『髪サラサラすぎ、どこのシャンプー使ってるの?』
【同時接続数:8,420】
【同時接続数:14,900】
見る見るうちに跳ね上がっていく数字。
画面の中の紗理奈は、視聴者の名前を次々と呼び、愛嬌たっぷりに首を傾げながら雑談を繰り広げている。
その華やかな表舞台のすぐ足元で、私の指先はキーボードの上を猛烈な速度で疾走していた。
数万人が集まれば、そこには必ず悪意の澱が混ざる。
『@user:秀明館の制服に似てない? 特定したかもw』
『@user:胸元もっと見せてよ』
『@user:肌綺麗だけどどうせフィルターだろ』
紗理奈の網膜にその文字列が届く前に、私はショートカットキーを叩き、ユーザーのアカウントごと即座にチャット欄から非表示にしてブロックする。反応時間、コンマ二秒。
彼女の視界に届くのは、私が検閲し、ろ過した純度百パーセントの称賛と好意だけだ。
私はスケッチブックに太いマジックで文字を走らせ、カメラの真下に掲げた。
『【残り十五分:シャンプーの質問拾って。商品名は言わずにオーガニック系で濁す】』
紗理奈の瞳が一瞬だけ視線を落とし、私の文字を捉える。
彼女は呼吸を乱すこともなく、自然な仕草で髪に手を添えた。
「あ、シャンプーの質問多いですね! えっとね、最近はサロン専売のオーガニックのやつを使ってて……あ、これ案件じゃないから名前は秘密なんですけど、柑橘系の香りがしてすごくおすすめだよー!」
チャット欄が「草」「案件じゃないの偉い」「気になりすぎる」とさらに加速する。
完璧だ。
私の知性と統制、そして紗理奈の天性の愛らしさ。
二つの歯車が狂いなく噛み合い、何万人もの大衆を思いのままに熱狂させている。
この無菌室を統括しているのは私だという冷たい全能感が、私の神経を心地よく焼き焦がしていた。
「――というわけで、そろそろお時間です! 今日もたくさんのお星様とコメント、本当にありがとうございました! みんな、素敵な週末を過ごしてね。おやすみなさーい!」
紗理奈が両手でカメラに向かって手を振り、満面の笑顔でウインクを作った。
私は即座に、配信終了のアイコンをクリックした。
【配信を終了しました】
【総視聴者数:38,920人】
【最大同時接続数:18,412人】
プツン、と画面の接続が切断され、部屋の中に完全な静寂が戻ってきた。
その瞬間だった。
まるで電池が切れた精巧なフランス人形のように、紗理奈の口元から笑顔がすうっと消え失せた。
「……っ、はぁ……」
小さく乾いた息を吐き出すと、彼女は糸の切れた操り人形のように横へと崩れ落ち、私の肩へと倒れ込んできた。
リングライトの放つ熱気で火照った頬が、私の制服のブレザーの襟元に押し付けられる。
華奢な背中が、浅く速い呼吸に合わせて小刻みに上下していた。カメラの前では決して見せなかった、限界まで擦り切れた神経の悲鳴。
「……紗理奈、お疲れ様。同接一万八千人、大成功だよ」
「……うん。……もう、カメラ、消えてる……?」
「消えてるよ。誰も見てない。ここにいるのは私だけ」
そう囁きながら、私は彼女の蜂蜜色の髪を、指先で静かに撫で下ろした。
紗理奈は私の首元に額をぐりぐりと擦り付け、子猫のような微かな声で呟いた。
「……喉、からから……。真紀ちゃんが隣にいてくれなかったら、途中で声、震えちゃうところだった……」
「知ってる。でも、震えなかったでしょ。紗理奈は完璧だった」
「……真紀ちゃんが、私の神様でいてくれたからだよ」
紗理奈の細い腕が、私の腰に力なく回される。
部屋を照らすのは、消し忘れたリングライトの無機質で眩い白い光環だけ。
画面の向こうの何万人もの大衆を騙し、完璧な偶像を演じきったあとの、二人だけの密室。
私の肩に預けられたその重みと熱こそが、私がこの世界で唯一、息を吸うことを許された代償だった。
「お水、持ってくるね」
「ううん、まだ動かないで。……あと五分だけ、このままでいさせて……」
私は何も言わず、ただ静かに頷いて、彼女の背中に手を添え続けた。
夜の帳が下りた東京の片隅で、私たちの共犯関係は、誰にも見えない暗がりの中でより深く、より逃げ場のない場所へと根を張っていた。




