第2話:『四十二人の夜』
ノートPCの液晶画面に表示されたプログレスバーが、青白い光を放ちながら一パーセント刻みで進んでいく。
ファンの微かな駆動音と、私の太ももの上で規則正しく上下する紗理奈の柔らかな寝息。静まり返ったワンルームの薄暗がりの中で、私はブラウザの片隅に小さく固定された彼女のアカウントのプロフィール欄を見つめていた。
【さりな @sarina_room】 【フォロワー:98,420人】
十万人の大台まで、あと少し。
今や彼女が一本の短い動画を投稿するだけで、何万もの「いいね」が付き、画面の向こうの見知らぬ群衆が彼女の笑顔を消費し、称賛の言葉を浴びせてくる。
けれど――私の網膜の奥には、今でも鮮明に焼き付いている数字があった。
四十二。
それは、半年前の夏。
世界中の誰も彼女の存在を知らず、そして私自身もまた、誰からも必要とされないただの出来損ないの部品だった頃の、彼女の世界のすべてだった数字だ。
*
高校一年生の一学期、私の世界には色がなかった。
医療系の名門である安藤家において、私が秀明館の特進クラスで学年トップを維持し続けることは「成果」ではなく「最低限の義務」でしかなかった。
食卓で成績表を提示しても、父は視線すら合わせず、母は「お姉ちゃんは模試でも全国一桁だったわよ」と冷めた声で呟くだけ。何のために百点を取り続けるのか、なぜ息をしているのか、その理由すら見失い、私の心はとっくに感情のスイッチを失って冷え切っていた。
夜、家族が寝静まった暗い自室で、私はノートPCの青白い光だけを頼りに生きていた。
誰とも繋がらない独学。映像編集ソフトのタイムラインをいじり、色の階調を補正し、ノイズを極限まで削ぎ落とす作業だけが、私がこの現実に自分の痕跡を残せる唯一の避難所だった。
そんなある深夜のタイムラインの片隅で、私はその配信を見つけた。
安物のスマートフォンで撮影された、薄暗く粗い画質のライブ配信。
画面の右上に表示されていた同時接続者数は、わずかに「3」。うち一人は配信者自身、もう一人は何かの巡回ボットだった。実質的に彼女を見ている人間は、世界中で私一人しかいなかった。
『……えっと、こんばんは。さりなです。今日も来てくれて、ありがとうございます』
画面の向こうにいたのは、粗い解像度越しでもわかるほど透き通るような、淡い蜂蜜色の金髪を持った少女だった。
華奢な肩をすくめ、オーバーサイズの古着のスウェットの袖口を両手でぎゅっと握りしめている。指先だけを申し訳なさそうに覗かせたその姿は、どこか怯えている小動物のように頼りなかった。
『東京は、夜になってもずっと車の音が聞こえて……ちょっと怖いです。でも、私、どうしても変わりたくて、田舎から秀明館……あ、学校の名前言っちゃダメだよね、ごめんなさい……難関の高校に受かって、上京してきたんです』
少女は必死に口角を上げ、カメラに向かってぎこちない笑顔を作っていた。けれど、その瞳の奥には、今にも零れ落ちそうな孤独と恐怖が貼り付いていた。
『いつか、たくさん動画を作って、何万人もの人に愛されるような……誰かに必要とされる人間になりたいな。そしたら、私をいじめてた人たちも、見返せるのかな……なんて。ごめんなさい、暗いお話しちゃった』
沈黙が流れる。 コメント欄はピクリとも動かない。フォロワー数は「42」。
都会の暗闇の中で、誰にも届かない声を絞り出しているその姿は、冷酷な実家の暗がりで膝を抱えていた私自身の魂と、あまりにも重なりすぎていた。
私は無言のまま、冷え切った指先でキーボードを叩いていた。
『@user-maki:私は、今のあなたの声が好きです』
ポツンと、誰もいないチャット欄に表示された私の短い文字列。 画面の中の少女は、大きく目を見張り、それから信じられないものを見るように画面に顔を近づけた。
『……あ。コメント、くれた……。ありがとうございます。user-makiさん……うん、私、頑張るね。明日も、笑顔で頑張るから』
少女が浮かべたその一瞬の、不器用で、けれど心の底から滲み出た本物の笑顔に、私の心臓がトクンと、生まれて初めて熱い音を立てて跳ねたのを覚えている。
*
運命という非論理的な言葉を、私はそれまで信じたことがなかった。 けれど、八月のある猛暑の午後、それは突然に形を持って現れた。
夏期講習の帰り道、私は参考書を買い足すために都内の大型ショッピングモールに立ち寄っていた。
エスカレーターを降り、ファストファッションの店舗が立ち並ぶ通路を歩いていた時、ショーウィンドウのガラス越しに、見覚えのある蜂蜜色の長い髪が目に飛び込んできた。
――あの子だ。
手持ちのスマートフォンを掲げ、服を胸元にあてがいながら、一人で必死に画角を調整している少女。
そして何より私の息を止めたのは、彼女の肩にかけられていた、私立秀明館高校の指定スクールバッグだった。
画面の向こうの、あの『さりな』が。 一学年十クラス、千人を超えるマンモス校のどこかにいるとは知っていたけれど、まさか同じ秀明館の生徒だったなんて。
けれど、私は声をかけなかった。
画面越しの推しとファン。その境界線を現実側から越えることは、彼女のプライベートを侵す暴力にしかならない。特進の秀才である私が踏み込んでいい領域ではないと、冷徹に判断してその場を立ち去った。
――だが、神様というものがいるとすれば、その脚本は残酷なまでに悪趣味だった。
モールを出て、駅へと向かう人通りの少ない裏路地。 ビルとビルの間の細い日陰のアスファルトの上に、小さな人影が小さく崩れ落ちていた。
「……っ、は、……ぁ、……っ、げほっ……!」
激しい過呼吸の音。
猛暑の熱気の中、少女は夏服のブラウスの上からでもわかるほど全身を小刻みに震わせ、胸元を掻きむしりながら膝を抱えていた。額には脂汗が滲み、淡い蜂蜜色の前髪が皮膚に張り付いている。
過去のトラウマのフラッシュバックか、あるいは熱中症によるパニック発作か。
通り過ぎる選択肢など、私の脳内には一ミリも存在しなかった。 私は手にした参考書の紙袋を投げ捨て、躊躇なく彼女の元へ駆け寄っていた。
「大丈夫。息を吐いて。吸わなくていいから、ゆっくり吐いて」
医療系の家庭で育った知識が、私の身体を機械のように正確に動かしていた。 少女の背後に回り込み、膝立ちになって彼女の華奢な背中を抱きしめる。
トントン、トントン、と心臓の鼓動よりも少し遅いリズムで、彼女の背中を手のひらで一定の力で叩いた。私の平熱よりも遥かに低い、冷たい右手を彼女の首筋にそっと添える。
「……す、えな……ぃ……死ん、じゃう……っ」 「死なないよ。絶対に死なせない。私の心音を聞いて。スローダウンして。……そう、吐いて、吐いて……」
どれほどの時間が経っただろうか。 路地を吹き抜ける熱風の中、私の胸の中で暴れていた小さな心臓の鼓動が、次第に私のリズムと同調し、静まり返っていった。
やがて、ぐったりと私の腕の中に体重を預けてきた少女が、涙で濡れた長い睫毛を震わせ、掠れた声で呟いた。
「……あ、なた……だれ……?」 「同じ秀明館の生徒。……立てる? 家、どこ?」
*
肩を貸し、引きずるようにして辿り着いたのが、彼女の住むマンションのワンルームだった。
地方から東京へ送り出され、一人暮らしをしているという部屋の中は、息を呑むほど痛々しい現実で満ちていた。
散らかったベッドの脇に置かれた、心療内科から処方された銀色の薬シート。
猛暑だというのに、彼女が脱いだブラウスの下の腕には、過去のいじめによる暗闇の記憶――皮膚の痛ましい古傷を隠すための、幾重にも巻かれた肌色のサポーター。
そして、ローテーブルの上に開きっぱなしになっていた、安価なノートPC。
画面には、無料の動画編集ソフトが立ち上がっていた。
タイムラインは見るも無残に散らかり、音声と映像のタイミングはズレ、テロップのフォントは安っぽく、粗い解像度の映像の中で、彼女は一人で泣きながら撮ったのであろう、引きつった笑顔を浮かべていた。
どれほど孤独で、どれほど不器用で、どれほど必死に、彼女がこの都会の暗闇で一人、足掻いていたのか。そのすべてが、その拙い編集画面から痛いほど伝わってきた。
「……見ないで」 ベッドの隅で毛布にくるまり、水分を補給して少し落ち着いた彼女が、消え入りそうな声で言った。
「変だよね。友達もいなくて、一人でこんなことして……。動画も全然上手に作れなくて。やっぱり私、何をやってもダメなんだ……」
膝を抱えて俯く彼女の姿に、私は自分の感情のスイッチが、音を立てて激しく震えるのを感じていた。
安藤家で「できて当然」と切り捨てられ、誰からも褒められず、自室の暗闇で独学で極めてきた私の技術。
私の知識、私の感性、私の冷徹な分析力。
そのすべてが、目の前で震えている、世界で一番美しい素材を持った少女を救うためにあったのだと――雷に打たれたような確信が、全身を貫いた。
私は無言のまま、ローテーブルの前に膝をついた。 愛用のノートPCを開き、彼女のPCから外付けメモリ経由で動画の生データを転送する。
「……なにしてるの?」 「見てて」
キーボードを叩く私の指先は、神がかり的な速度で動いていた。 不要な無音のインターバルをコンマ一秒単位でトリミングし、リズム感のあるカット割りを構築する。
安っぽい色合いをカラーホイールで補正し、自然光のような柔らかい透明感を付与する。
そして、彼女が気にしていた画面端の微細な影やブレを、独学で極めたレタッチ技術で完全に消去し、完璧な「光」へと仕立て直していく。
わずか二十分後。 私はプレビュー画面を全画面表示にし、スペースキーを押した。
「――っ!」
ベッドから身を乗り出して画面を覗き込んだ紗理奈が、短く息を呑んだ。 そこに映っていたのは、さっきまでの拙い動画ではなかった。
まるで映画のワンシーンのように洗練された構図の中で、蜂蜜色の髪を輝かせ、儚く、息を呑むほど美しく微笑む――大衆が恋に落ちずにはいられない、完璧な少女の姿だった。
「……これ、わたし……? うそ……こんなの、わたしじゃないみたい……」 「紗理奈だよ。紗理奈の素材が素晴らしいから、ノイズを消しただけ」
私はPCから顔を上げ、ベッドの上の彼女の目を真っ直ぐに見つめた。 生まれて初めて、他者に対して自分の意志を、熱を持って口にしていた。
「私に手伝わせて。私が、紗理奈をプロデュースする。……私が、あなたを誰もが愛さずにはいられない、完璧なアイコンにしてあげる」
紗理奈の大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。 彼女はベッドから飛び降りるようにして私に駆け寄ると、私の胸元に飛び込んできた。
ぎゅう、と骨が軋むほどの力で抱きしめられる。
「すごい……すごいよ真紀ちゃん! 天才だよ……っ! こんなの、神様だよ……!」
天才。 神様。
その言葉が耳朶を打った瞬間、私の胸の奥底で凍りついていた何かが、音を立てて砕け散った。 満点を取っても誰も褒めてくれなかった私の人生で。
初めて、自分という人間そのものを、この技術を、存在を、世界の中心として認められた瞬間だった。
「真紀ちゃん……私を、見捨てないでね。私、真紀ちゃんの言う通りにするから……何でもするから……!」 「見捨てないよ。絶対に、誰にも傷つけさせない」
二人きりの、息の詰まるようなワンルーム。 私たちは互いの身体を抱きしめ合い、契約を交わした。
私が彼女の神様になり、彼女が私の存在理由になるという――逃げ場のない、絶対的な共犯の契約を。
*
ピピッ、ピピッ、と電子音が部屋に響いた。
「……ん」
私の膝の上で、紗理奈が小さく身じろぎをして目を覚ました。
ノートPCの画面には、長尺Vlogのエンコード完了を知らせるウィンドウが静かに表示されている。時計の針は、すでに夜の七時を回っていた。
「……わたし、寝ちゃってた?」 「うん。二十分くらい」
紗理奈は私の膝からゆっくりと身体を起こすと、寝癖のついた蜂蜜色の髪を指先で整えながら、ふにゃりと柔らかく笑った。
「真紀ちゃんの膝枕、あったかくて気持ちよかった……。ねぇ、真紀ちゃん、知ってる?」 「なにを?」
「あの日、真紀ちゃんが私の部屋に来てくれなかったら、私、本当に消えちゃってたと思う。……あの日から、真紀ちゃんはずっと私の神様なんだよ」
紗理奈は私の冷えた右手を両手で包み込み、自分の頬へと押し当てた。 柔らかな皮膚の熱が、私の掌にじんわりと伝わってくる。
「……大げさだよ」 「大げさじゃないもん。本当のことだもん」
微笑む紗理奈の瞳には、あの日と同じ、純粋で絶対的な崇拝の光が宿っていた。 その光の眩しさに、私は胸の奥がチクリと痛むような、けれど甘い痺れを覚えていた。
大丈夫。私は間違っていない。 あの拙い編集画面から、彼女をここまで救い上げてきたのは私だ。 私が彼女を守り、私が彼女を完璧にし続ける。
その計算式に、狂いが生じるはずなどないのだから。




