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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第一症 存在理由=証明

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第1話:『掌中の暗室』

 一月、秀明館高校の校舎は、まるで巨大な冷凍庫のように底冷えしていた。


 都内有数の進学校を自負するこの私立高校は、自律と成果主義を掲げる一方で、設備投資の優先順位をどこか履き違えている。吹き抜け構造の中庭から吹き込む乾いた北風は、コンクリート打ち放しの廊下を容赦なく吹き抜け、英国トラッド風を謳う薄手のブレザーなど何の意味もなさない布切れへと変えていた。

 始業のチャイムが鳴る十分前。四階にある特進A組の前を行き交う生徒たちは、誰もが首をすくめ、白い息を吐きながら足早に通り過ぎていく。


 私は教室前の窓際に立ち、左手だけで英単語帳をめくっていた。

 第一ボタンまで隙なく留めたシャツの襟元が、固く喉元を締め付けている。右手はブレザーのポケットにも入れず、無防備に冬の空気へと晒されていた。

 寒さを拒絶する感覚すら、とうの昔に麻痺している。指先は陶器のように白く硬直していて、血の気が引いた爪の先は微かに紫がかっていた。けれど、それに対して痛いとも辛いとも思わない。感情のスイッチをあらかじめオフにしておけば、肉体の悲鳴などただの無機質なデータに過ぎないからだ。


「――まきちゃん!」


 凍てついた廊下の空気を切り裂くように、鈴を転がすようなワントーン高い声が響いた。

 足音の主を確かめる必要すらない。廊下の向こうから、チェックのスカートをふわりと揺らして、小走りに駆け寄ってくる人影があった。

 普通科B組の、来栖紗理奈。


 生まれつきの淡い蜂蜜色の髪を胸下まで綺麗に伸ばし、真冬だというのに校則をギリギリ攻めた短めのソックスを履いている。その華やかで無防備な立ち姿は、灰色に沈む進学校の廊下の中で、そこだけスポットライトが当たっているかのように鮮やかだった。


「おはよう、紗理奈。廊下を走ったら危ないよ」 「ん、平気! それより真紀ちゃん、また手袋してないでしょ」


 私の目の前でピタリと足を止めた紗理奈は、ぷくっと頬を膨らませて、わざとらしいため息をついてみせた。

 そして、私が合理的な言い訳を口にするよりも早く、躊躇なく自分の両手を伸ばしてくる。ブレザーの袖口から指先だけを覗かせた、小動物のような萌え袖。

 紗理奈のあたたかい右手が、私の凍てついた右手を正面から包み込んだ。


「……ひゃっ、冷たい! 嘘でしょ、氷持ってきたのかと思った」 「外気温が零度に近いから。熱伝導率を考えれば当然の物理現象だよ」

「もう、そういう可愛くない理屈言わないの」


 紗理奈はくすくすと喉の奥を鳴らして笑うと、私の手を握ったまま、自分のブレザーの右ポケットの中へと強引に引き入れた。

 ――カサリ、とウール地が擦れる微かな音がして、視界から二人の手が消える。


 外側から見れば、ただ窓際で並んで朝の雑談をしている親友同士。

 けれど、ブレザーのポケットという薄い布切れ一枚の内側には、他人の目から完全に遮断された、二人きりの暗室が広がっていた。


 紗理奈の滑らかな指先が、私の冷え切った指の間をするりと滑り、一本ずつ隙間なく絡み合っていく。


「……っ」 「動いちゃダメ。じっとしてて」


 ポケットの中は、紗理奈の体温と、彼女が愛用している甘いフローラルといちごの香水が濃密に閉じ込められていて、息が詰まるほど熱かった。

 冷え切って感覚のなかった私の指先の毛細血管に、紗理奈の生きている熱が、トクン、トクンと脈打つように染み込んでくる。凍えた皮膚が急激に解凍されていくときの、微かな痛みと、痺れるような心地よさ。


「ね、あったかいでしょ?」


 紗理奈が、上目遣いに私を見上げて微笑む。至近距離で見つめられるその瞳は、透き通るような淡い蜂蜜色をしていて、どんなデジタルフィルターも敵わないほど完璧に綺麗だった。


「……うん。すごく、あたたかい」 「ふふ、ならよし! 真紀ちゃんの手は、私が温めるって決めてるんだから」


 ぎゅっ、と掌の奥で指先を強く握り締められる。

 廊下を通りかかった男子生徒たちが、ちらりと紗理奈を見て、それから気後れしたように視線を逸らしていった。秀明館の誰もが知っている、普通科の大人気美少女と、特進トップの冷徹な優等生。

 誰も知らない。彼女の体温が、いま私の掌の中で直接脈打っていることも。  私たちが、世界を騙す共犯者であることも。


 キーンコーンカーンコーン、と一限の予鈴が廊下に鳴り響いた。


「あ、チャイム鳴っちゃった。放課後、真紀ちゃんのおうち……じゃなくて、私の部屋でいいよね?」 「うん。昨日アップした動画の数字、放課後に一緒に確認しよう」

「やった! じゃあね、真紀ちゃん」


 ポケットから名残惜しそうに手が抜かれ、冷たい一月の空気が再び私の皮膚を撫でた。

 けれど、右手のひらには、まるで消えない焼き印のように、紗理奈の柔らかな熱と甘い香りがいつまでも濃密に残されていた。


     *


 放課後の秀明館は、成果主義という名の巨大な選別機そのものだった。

 特進A組の教室では、終礼が終わるや否や、東大や国立医学部を目指す生徒たちが無言で参考書を開き、鉛筆を走らせ始める。誰も他人に干渉しない。誰かの脱落は、そのまま自分の席次が繰り上がることを意味しているからだ。


 私は制服の第一ボタンを外すこともなく、愛用の漆黒のリュックサックを背負って教室を出た。  誰とも視線を合わせず、挨拶も交わさない。

 下駄箱を抜けて校門を出ると、駅のロータリーで待っていた紗理奈と合流する。人前ではごく自然に、けれど一定の距離を保ちながら歩く。それが私たちの「表向きのルール」だった。


 学校から電車で二駅離れた、都内の閑静な住宅街にある低層マンション。  オートロックを解除し、エレベーターで上がった角部屋のワンルームが、私たちの無菌室だった。


「ただいまー! うぅ、今日も寒かったぁ」


 玄関の鍵を閉めた瞬間、紗理奈の肩からピンと張っていた見えない糸がふっと緩んだ。

 ローファーを脱ぎ捨て、マフラーを外すと、部屋の中に甘いフローラルの匂いがふわりと広がる。

 室内には、女子高生らしい淡いピンクのインテリアと並んで、大型のリングライト、頑丈な金属製三脚、そして机の上に散らばったコンシーラーやファンデーションのチューブが同居していた。


「手洗いとうがい。それから、冷たい水じゃなくて白湯を飲んで」 「はーい、お母さん」


 紗理奈がキッチンへ向かうのを見届けながら、私は部屋の隅のローテーブルに腰を下ろし、リュックから高性能のノートPCを取り出した。

 電源ボタンを押す。静かなファンの回転音とともに、液晶ディスプレイが青白い光を放つ。


 ブラウザを立ち上げ、紗理奈のアカウント――『さりな』のクリエイターダッシュボードを開く。

 昨夜二十時に投稿した、冬服のルックブックと放課後ルーティンを組み合わせたショート動画のアナリティクス画面が展開された。


【総再生回数:142,800回】 【平均視聴維持率:84.2%】 【高評価率:98.6%】 【新規フォロワー増加数:+1,840人】


「……うん、狙い通りだね」


 思わず口元が微かに緩むのを、私は指先で隠した。  数字は嘘をつかない。

 実家の食卓で両親から突きつけられる「満点以外はすべて失敗」という息の詰まる減点法とは違う。ここにある数字は、私が施した編集と計算のすべてが、完璧に正しかったことを証明してくれる純粋な加点の世界だ。


「真紀ちゃん、どう? 伸びてる?」


 マグカップを二つ持った紗理奈が、小走りで戻ってきて私の隣にぺたりと座り込んだ。

 私には無糖のブラックコーヒー、自分には砂糖をたっぷり入れたいちごミルク。彼女の肩が私の腕に触れ、甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。


「すごく順調。見て、ここ」  私はトラックパッドを指先で滑らせ、視聴維持率の折れ線グラフを拡大した。


「普通の動画は冒頭三秒で四十パーセントの視聴者が離脱する。でも今回の動画は、開始一・二秒のところでカットを割って、紗理奈がマフラーに顔を埋めるアップを挟んだでしょ。あそこで視線が完全にロックされて、五秒地点までの維持率が九十二パーセントを保ってる」

「すごっ……! あそこ、真紀ちゃんが『絶対このコンマ三秒で切り替えて』ってこだわってたところだよね?」

「そう。それから、テロップのフォントも丸ゴシックから少し抜け感のある明朝体に変えた。画面の彩度を二パーセント落として、冬の空気感をフィルム調に寄せたのも効いてる。コメント欄を見て」


 スクロールしたコメント欄には、絶賛の言葉が滝のように流れていた。


『さりなちゃん天使すぎる……!』 『マフラーに埋もれてるところ可愛すぎて声出た』 『映像がおしゃれすぎて何回もループしちゃう』

『編集のセンス神がかってない? 映画見てるみたい』


「……ほらね。大衆は、紗理奈の愛らしさと、私の作った質感に完全に誘導されてる」 「わぁぁ……! すごい、本当に伸びてる! 真紀ちゃん、やっぱり天才だよ!」


 紗理奈が顔を輝かせ、両手で私の首元に抱きついてきた。  華奢な身体の温もりと、弾むような心臓の鼓動が、制服の生地越しにダイレクトに伝わってくる。


「真紀ちゃんは私の神様だよ。世界一のプロデューサー! 真紀ちゃんがいなかったら、私なんて今でも誰にも見つけてもらえないまま、暗い部屋で泣いてたもん」

「大げさだよ。紗理奈の素材が完璧だから」


 そう口では冷静に返しながらも、私の胸の奥底には、冷たく澄み切った歓喜がじわりと満ちていた。  名門・安藤家の中で、誰からも褒められたことのなかった私。

 優秀な姉の影に隠れ、「できて当然」と切り捨てられ、自分の存在価値を見出せなかった暗闇の自室で、一人で独学で極めた動画編集とレタッチの技術。

 それが今、目の前の少女を輝かせ、世界中から愛されるアイコンへと押し上げている。


 紗理奈に「天才」と肯定されること。  紗理奈の隣で、彼女のすべてをプロデュースし、守り続けること。

 それだけが、この息苦しい世界で私が息をしていていい、唯一の存在証明だった。


「さ、次の週末に出す長尺のVlog、書き出しちゃうね」 「うん! お願いしまーす!」


 私はノートPCの編集ソフトを操作し、タイムライン上に並んだ何千ものカットとカラーグレーディングのレイヤーを最終確認する。

 エンコードのボタンをクリックすると、プログレスバーがゆっくりと右へ進み始めた。


【書き出し中…… 残り時間:18分】


「ちょっと時間かかるね」 「じゃあ、休憩!」


 紗理奈はそう言うと、私の返事も待たずに、するりと身体を滑り込ませてきた。  私の太ももの上に、自分の頭をコロンと乗せる。膝枕の体勢だ。


「……紗理奈、重いよ」 「嘘ばっかり。私、体重管理めちゃくちゃ厳しいんだから重いわけないもん」


 紗理奈は私の膝の上で身じろぎし、私の下腹部に額を擦り寄せて深く息を吸い込んだ。


「んー……真紀ちゃんの匂い、すごく落ち着く。無糖の紅茶と、冷たい紙の匂い」 「変な匂い」 「いい匂いなの。安心するの」


 紗理奈は長い睫毛を伏せ、心地よさそうに目を閉じた。

 薄い瞼の奥で、眼球が微かに動いている。外舞台で「大人気インフルエンサー・さりな」を完璧に演じている彼女の、これが世界で私にしか見せない、無防備で生身の姿だった。


 私はためらいながら、そっと右手を伸ばした。  朝、秀明館の冷え切った廊下で、彼女がポケットの中で温めてくれた右手だ。

 あの時もらった熱を返すように、蜂蜜色の柔らかい髪に指を通し、優しく梳く。

 紗理奈が喉の奥で、猫のように小さく息を漏らした。


 カタカタと、PCの冷却ファンが静かな音を立てている。

 外はもう薄暗く、東京の街には冷たい夕闇が降りてきていた。成果主義で誰かを蹴落とさなければ生き残れない学校も、減点と義務だけで首を絞めてくる実家も、この部屋の外側にあるすべてが遠い世界の出来事のように思える。


 画面の中の完璧な偶像と、膝の上の等身大の温もり。  この無菌室がある限り、私たちは絶対に壊れない。  私たちが互いの手を握り合っている限り、この世界は完璧だ。


 そう信じて疑わなかった。


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