寝よう
午前七時 目覚まし時計が鳴った。
寝ぼけた手でスマホを叩き、アラームを止めた。頭の芯がまだ重い。昨夜、なかなか寝付けなかったせいだろう。
半分開いたままのカーテンの隙間から差し込む朝日は、いつもと同じ角度と強さだった。
布団を抜け出しながら、ぼんやりと考えていた。今日こそ、言おう。「昨日、俺の誕生日だったんだよね」と、大したことでもないような顔で、笑いながら言えばいい。それくらいなら、できる気がした。口の中で一度、その台詞を小さく転がしてみる。悪くない。
少し笑顔の練習をしてリビングへ向かった。莉奈の顔を見て、あの一言を言っておきたかった。
パジャマを直し深呼吸してリビングに出た。だが、リビングに莉奈の姿はなかった。
カーテンの隙間から、朝の光が斜めに差し込んでいる。ダイニングテーブルの上には、飲みかけのマグカップが一つ、湯気も立てずにひっそりと置かれていた。中身はもう、すっかり冷めているようだった。
ソファの上のクッションは、片側だけがへこんだまま、誰かがもう随分前に立ち上がったかのような形を残していた。
その空っぽの部屋をぐるりと見渡し、用意していた言葉が行き場を失い喉に落ちた。
玄関を覗くと、莉奈のスニーカーがなくなっていた。
「今日も、早出か」
誰にともなくつぶやいた。
身支度を整えながら、テレビをつけた。朝の情報番組では、キャスターが今日の天気について話していた。「関東地方は、午後から雲が広がりやすいでしょう」という声を、半分聞き流しながら袖ボタンを留めた。
スマホを確認すると、母親から新しいLINEが届いていた。「たまには、帰ってきなさいね」という文面だった。「ありがとう」とだけ返し、スマホをテーブルに置いた。
ドアを開けると、外の空気はひんやりとしていて、少しだけ湿っていた。
昨夜、どこかで小さな雨が降ったのかもしれない。
駅までの道は、いつも通りのコース。コンビニの前を通り過ぎ、工事中のマンションの脇を抜ける。
ドリルの音が、朝の静けさの中に規則正しく響いていた。
イヤホンを耳に入れ、音楽をかけながら歩いた。いつも聴いているプレイリストの、いつもの曲。
駅が近づくと、人の流れが少しずつ増えてくる。改札の手前で、スマホをポケットから取り出し、電子マネーの残高を確認しようとしたその瞬間、誰かとぶつかった。
「すみません」
振り向くと、謝ったのは制服姿の少女だった。長い黒髪を後ろで一つに結んでいて、その表情には、通勤ラッシュの中にいるにしては不釣り合いなほどの落ち着きがあった。
「いえ、すいません」とだけ答えて、通り過ぎようとした。だが、少女は悠真の顔をじっと見つめたまま、動かなかった。
「昨日、誕生日だったよね」
思わず足が止まった。
「……え?」
「昨日。誕生日、だったよね」
少女はもう一度、同じことを繰り返した。
少女の顔を見た。見覚えはまったくない。だが、少女は悠真のことを、まるで昔からの知り合いのように見ていた。
「……誰?」
問いに、少女は少しだけ困ったような、それでいてどこか納得したような表情を浮かべた。まるで、予想していた反応がそのまま返ってきたかのようだった。
「そっか」
少女は小さくつぶやいた。
「まだ、知らないんだ」
「まだって、何が」
さらに問おうとしたとき、駅のアナウンスが電車の到着を告げた。人の波が一気に動き出し、少女の姿はその中に紛れて見えなくなった。
少しの間、その場に立ち尽くしていたが、電車に乗り遅れるわけにはいかず、慌てて改札を抜けた。
電車の中で、さっきの出来事を反芻していた。
「昨日、誕生日だったよね」という言葉。
あの少女は、なぜそれを知っていたのだろう。
SNSか何かで見たのだろうか。いや、SNSのアカウントは実名を公開していない。
それに誕生日を公開設定にした覚えもない。
――まあ、いいか。世の中には、たまに不思議なことを言う人がいる。そう結論づけて、その日の出来事を頭の隅に追いやった。
仕事は普段通りに進み、昼休みには同僚と何気ない会話を交わし、夜には特に変わったこともなく帰宅した。
莉奈とも、いつも通りの夕食を取り、いつも通りの会話をしたが、あの少女の話はしなかった。
その夜もいつも通りにベッドに入った。少しだけ、あの少女のことが気になっていたが、それも眠りに落ちるうちに薄れていった。
「寝よう」
その言葉とともに、目を閉じた。
そして――目覚まし時計が鳴った。午前七時。
寝ぼけた手でスマホを叩き、アラームを止めた。頭の芯がまだ重い。半分開いたままのカーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日とまったく同じ角度で、まったく同じ強さだった。
身支度を整えながら、テレビをつけた。朝の情報番組では、キャスターが今日の天気について話していた。
「関東地方は、午後から雲が広がりやすいでしょう」
その言葉に手が止まった。昨日と、まったく同じ台詞。
――気のせいだろう。似たような言い方をすることもある。
そう考え直して洗面所に向かった。スマホを確認すると、母親から新しいLINEが届いていた。
「たまには、帰ってきなさいね」
背筋に、冷たいものが走った。
文面が、まったく同じだった。句読点の位置も違わない。
しばらくスマホの画面を見つめていた。
だが、考えすぎだと自分に言い聞かせて、玄関に向かった。ドアを開けると、外の空気は昨日と同じように、ひんやりとして、少し湿っていた。
駅までの道を歩きながら、自分の中に湧き上がる違和感を、必死に打ち消そうとしていた。コンビニの前を通り過ぎ、工事中のマンションの脇を抜ける。ドリルの音が、昨日とまったく同じリズムで響いていた。
――偶然だ。ただの、偶然に決まってる。
そう自分に言い聞かせながら駅の改札に向かった。そして、改札の手前でぶつかった。
「すみません」
振り返ると、そこには昨日と同じ、制服姿の少女がいた。
心臓が、大きく跳ねた。
少女はじっと見つめて、こう言った。
「昨日、誕生日だったよね」
まったく同じ言葉。まったく同じ声。まったく同じ、少し困ったような表情。
言葉を失ってその場に立ち尽くした。
周りを歩く人々は、何事もなかったかのように、脇を通り過ぎていく。
誰も、この異常な繰り返しに気づいていない。
気づいているのは、悠真と、目の前の少女だけだった。
「……お前」
かすれた声を絞り出すと、少女は小さく笑った。
「やっと、気づいたね」
その笑顔には、どこか安堵にも似た色が浮かんでいた。まるで、この瞬間が来ることを、ずっと待っていたかのように。




