誕生日
誕生日
日曜日の時間は、いつもやり早い速度で過ぎていく。
高橋悠真は、リビングのソファに座って、隣にいる莉奈の横顔を眺めていた。
二人で選んだ映画は、悠真が莉奈と一緒に観たかった映画。物語はもう中盤に差しかかっていた。誕生日を迎えた主人公の男が、恋人に想いを切り出せずにいる場面。
皮肉なものだと悠真は思う。自分たちが見ている映画が、まさに「言えないこと」についての話だということに。
莉奈の膝の上にはスマートフォン。映画が始まってから十分もしないうちに、彼女の指は画面をなぞり始めていた。
悠真はちらりとその手元を見た。日常の投稿だろうか、何気ない日常の一場面が貼り付けられている。
映画のシーンでは深刻な展開に進む中。その画面を見て莉奈は小さく笑っていた。
――人と繫がっていくって大変だよな
…いや、待てよ。来週は俺の誕生日。そのプレゼントを探してて、たまたまそのタイミングで新規投稿がありそれをついでに見ている可能性もある。
悠真は自分にそう言い聞かせた。来週には自分の誕生日が来る。莉奈がそれを思い出して、こっそり準備をしているのだとしたら、この態度にも説明がつく。
――いや、違うな。俺は、そう思いたいだけなんだ。
自分の思考の底に、もう一つの声があることに気づいていた。その声は、もっと単純で、もっと子供じみていた。
――誕生日のプレゼントだとしても一緒に映画を見ているときくらい、映画に集中して欲しい。
もちろん、そんなことを口に出したことは一度もない。悠真にとって、それを言葉にすることは、みっともないことのように思えた。
恋人に対して「俺だけを見てくれ」と要求するのと同じ感じがして、まるで独占欲の強い子供のようではないか。
だから、いつもその声を、心の奥の方に押し込めてきた。押し込めて、代わりに自分の中で静かに採点をしてきた。そんな採点を、悠真は無意識のうちに、もう何度も続けていた。
映画が終わると、莉奈はスマホをテーブルに置いて伸びをした。
「面白かったね」
短い感想に「うん」とだけ答えた。
本当は、あの主人公が最後まで本音を言えなかったことについて、どう思うかを聞いてみたかった。だが、聞けば何かが変わってしまう気がして、結局何も聞かなかった。
その週は、いつも通りに過ぎていった。月曜日、火曜日、水曜日。悠真は満員電車に揺られて会社に行き、夜になれば同じ道を通って帰ってくる。
莉奈とは短い会話を交わし、たまに一緒に夕食をとり、それぞれ部屋でそれぞれのタイミングで眠りにつく。
特別なことは何も起きない、ありふれた四日間。
そして木曜日。悠真の二十四回目の誕生日がやってきた。
午前零時。まだ布団の中にいた悠真のスマホが震える、大学時代の友人からのLINEだった。
「誕生日おめでとう、今年も元気で」というメッセージに、悠真は眠い目をこすりながら「ありがとう」とだけ返した。
朝、リビングにも莉奈のベッドにも莉奈の姿は無かった。
――早出の日だったか…と思い
24歳初めての朝は独り無言でトーストとコーヒーという食事で終わった。
会社に着くと、同僚が「お誕生日おめでとうございます」と声をかけてくれた。
悠真は「ありがとうございます」と笑って返しながら、心のどこかで一つのことを考えていた。
――莉奈は、覚えているだろうか。
正午。昼休みに入ると、母親からと友達からのLINE三件が届いた。「悠真、二十四歳おめでとう。体に気をつけてね」という、数字以外毎年変わらない文面。
悠真はそれに軽くスタンプを返しながら、自分のスマホの通知欄をもう一度確認した。莉奈からは、まだ何もない。
――仕事中だから、あとで送るつもりなんだろう。
そう考えて、悠真は午後の業務に戻った。莉奈からの連絡がまだないという事実が、急に重たく感じられた。休憩室の隅で、悠真はもう一度スマホを確認したが何もなかった。
誰かに話すほどのことではない。ただの誕生日それだけのことだ。それなのに、その痛みは奇妙なくらい鮮明に、悠真の中に刻み込まれていった。
夜、悠真が家に帰ると、莉奈はすでにリビングでソファに座り、スマホを見ていた。
「おかえり」いつも通りの声だった。悠真は「ただいま」と返しながら、莉奈が何か言うのを、少しだけ待った。
だが、莉奈はそのまま画面に視線を戻した。友人とのやり取りらしく、彼女の指は忙しく動いていた。
――やっぱり、忘れてるのか。
そう思った。だが、それを口に出すことはしなかった。代わりに、いつも通りに夕食の支度を手伝い、いつも通りにテレビを見て、いつも通りに会話を交わした。
莉奈は、今日が俺の産まれた日であることに、まったく気づいていないようだった。
その夜、何度も「言おうか」と思った。
「今日、俺の誕生日なんだけど」と、ただそれだけを言えばよかった。だが、その一言がどうしても出てこなかった。
――言わなくても、気づいてほしいという欲かな。
その気持ちが、悠真の口を重くしていた。同時に、悠真の中には、こうも思う自分がいた。
――まあ、いい。明日、言えばいい。
その考えが浮かんだ瞬間、悠真の心はふっと軽くなった。今日という日にこだわる必要はない。誕生日を祝ってもらえなかったからといって、莉奈との関係そのものが壊れるわけではない。
また今度、機会があれば話せばいい。今日、無理に伝える必要はない。
それに、と悠真は思う。莉奈がプレゼントを用意してくれていないとも限らない。もしかしたら明日か今度の休みか、何か渡してくれるかもしれない。
そう考えると、今日という日にこだわりすぎるのは、格好悪いことのようにも思えた。
ベッドに入りながら、悠真はスマホの画面をもう一度だけ見た。日付は、まだ誕生日のままだった。あと少しで、この日は終わる。
「明日も、仕事だな」小さくつぶやく。
それは独り言のようでいて、どこか自分自身への言い訳のようでもあった。
明日という日が、当然のようにやってくることを、悠真は一度も疑ったことがなかった。だからこそ、今日という日を、少しくらい雑に扱っても構わないのだと、心のどこかで思っていた。
「寝よう」その一言で、悠真の二十四歳の誕生日は終わった。
このときの悠真は、まだ何も知らない。
この「寝よう」という一言が、これから何度も、何度も繰り返されることになるとは。そして、その繰り返しの中で、自分がずっと目を逸らしてきたものと、正面から向き合うことになるとは、想像すらしていなかった。
窓の外では、いつも通りの夜が更けていく。悠真は目を閉じ、ゆっくりと眠りに落ちていった。明日が来ることを、微塵も疑わず。




