第4話 辺境村の井戸
霧の中を走り、泥道を歩き、途中で何度も息を整えた。橋から先の道は思ったより悪く、リーベル村の木柵が見えたのは、昼を大きく過ぎてからだった。
リーベル村に着いたとき、鐘の音は止んでいた。
止んでいる方が、かえって悪かった。
火事なら、人は走る。盗賊なら、叫び声が上がる。魔物なら、武器を持った男たちが門に集まる。
だが、村は静かだった。
静かすぎた。
畑の向こうに、低い木柵が見える。家は30軒ほど。屋根は藁葺きで、ところどころ雨漏りを直した跡がある。中央には広場があり、その端に共同井戸があった。
井戸の周りだけ、人が集まっている。
誰も大声を出していない。
ただ、互いの顔色をうかがうように、薄い輪を作って立っていた。
俺の視界の端に、数字が浮かぶ。
リーベル村、疫病発生率、89%。
24時間以内の死亡者発生率、57%。
村外拡散率、31%。
数字は、今朝より悪い。
リュカが低く身を伏せた。
白い毛が、風もないのに逆立っている。
「分かっている」
俺は小さく言った。
「まず井戸だ」
村の入口に近づくと、門番代わりらしい男が鍬を持って立ちはだかった。
年は40前後。顔色が悪い。額に汗が浮いている。
発熱率、68%。
すでに発症している可能性が高い。
「止まれ。どこの者だ」
「ユリウス・レイン。王都から来た」
「王都?」
男の警戒が強くなる。
「役人か」
「昨日までは王立研究院にいた」
「今は?」
「追い出された」
男は一瞬、返事に困った顔をした。
正直に言いすぎたかもしれない。
「怪しいな」
「俺もそう思う」
「自分で言うな」
男は鍬を握り直した。
「この村に何の用だ」
「井戸を見に来た」
その瞬間、男の顔つきが変わった。
怒り、というより怯えに近い。
「また井戸か」
「また?」
「セラに言われたのか」
「名前は聞いた。薬師見習いだろう」
男は舌打ちした。
「あの娘、外の人間まで呼んだのか。村を混乱させる気か」
「すでに混乱しているように見えるが」
「お前に何が分かる」
「分からないことが多いから、見に来た」
そう言うと、男はさらに嫌そうな顔をした。
人は、分からないと言う者をあまり信用しない。断言する者の方が、たとえ間違っていても頼もしく見えるのだろう。
俺は井戸の方へ視線を向けた。
「死者が出たのか」
男は答えなかった。
答えなかったことで、答えたようなものだった。
「昨日の朝、1人。今日、鐘が3回鳴った。村の規則で、死者の鐘か」
「勝手に決めつけるな」
「違うなら訂正してくれ」
男は唇を噛んだ。
「……今朝、婆さんが1人死んだ。昨日は爺さんだ。年寄りだよ。病とは限らない」
「2人とも発熱していたか」
「知らん」
「知らないのに、病ではないと言うのか」
「うるさい」
男が一歩前へ出た。
リュカが低く唸った。
白い獣の声は小さかったが、男の足を止めるには十分だった。
「その獣は何だ」
「俺にもよく分からない」
「分からないものを村に入れるな」
「分からないまま井戸を使うよりはましだ」
言った直後、自分でも少し言い過ぎだと思った。
男の額の血管が浮いた。
そのとき、広場の方から若い女の声がした。
「ギル、やめて」
振り向くと、粗末な灰色の外套を着た娘が立っていた。
年は20歳前後。栗色の髪を後ろで束ね、手には薬草の籠を抱えている。目の下に疲れが見えるが、視線はまっすぐだった。
彼女の周囲だけ、数字が少し見えにくい。
発症率、12%。
疲労による判断低下率、46%。
他者救助行動率、91%。
最後の数字が妙に高くて、俺は一瞬、眉を寄せた。
「セラ・アルヴィンか」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「どうして私の名前を」
「火傷のある商人から聞いた」
「あの人に会ったんですか」
「ああ。王都へ向かっていた」
セラの顔色が変わった。
「止めましたか」
「宿場町へ戻らせた。完全に従うかは分からないが」
彼女は籠を抱く手に力を込めた。
「……よかった」
その言い方には、安堵よりも疲労が多かった。
何度も言って、何度も信じてもらえなかった者の声だった。
俺はその声を知っている。
「あなたは?」
「ユリウス・レイン。統計士だ」
「統計士」
セラは瞬きをした。
「医師ではなく?」
「医師ではない」
「薬師でもなく?」
「ない」
「神官でも?」
「違う」
セラは少しだけ考え込んだ。
「では、なぜ来たんですか」
「数字が悪いからだ」
言ってから、これは説明になっていないと気づいた。
案の定、門番のギルが顔をしかめる。
「やっぱり怪しいじゃないか」
「そうだな」
「認めるな」
セラがギルを見た。
「でも、井戸を見に来たんでしょう。なら、私は案内します」
「セラ!」
「このままでは、次は子供が倒れます」
広場にいた村人たちが、ざわりと揺れた。
子供、という言葉は強い。
老人の死なら寿命と言い訳できる。旅人の病ならよそ者のせいにできる。だが、子供の名を出されると、人は無視しにくくなる。
ギルは苦い顔をした。
「村長に話を通せ」
「通している間に、また水を汲む人が出ます」
「水がなければ生活できない」
「汚れた水で死ぬよりましです。まだ他に選択肢があります」
セラの声は震えていた。
それでも、言葉は引かなかった。
俺は彼女を見て、少しだけ感心した。
村の中で孤立しても、井戸を止めろと言い続けるのは簡単ではない。
「井戸を見せてくれ」
「はい」
セラはすぐに歩き出した。
リュカが俺の横につく。
広場に近づくにつれ、匂いが変わった。
雨上がりの土の匂いに混じって、わずかに腐った藁のような匂いがする。井戸の周囲には濡れた布、木桶、野菜を洗った跡、そして泥のついた子供用の靴があった。
井戸そのものは古い石造りだった。
縁の石に苔がつき、汲み上げ用の縄は黒ずんでいる。水桶の内側には、薄いぬめりが見えた。
井戸水汚染率、78%。
直接飲用による発症率、62%。
洗浄用利用による拡大率、49%。
数字が浮かぶ。
同時に、リュカが俺の足元で強く身震いした。
「……なるほど」
セラが息をのんだ。
「何か分かるんですか」
「この井戸は使わない方がいい」
周囲の村人が一斉に騒ぎ出した。
「よそ者が何を言う」
「井戸を止めたら、どうやって飯を作るんだ」
「セラが呼んだのか」
「またあの娘だ」
言葉が重なり、広場がざわつく。
セラの肩が小さく縮んだ。
だが、彼女は下を向かなかった。
俺は井戸の縁に手を置いた。
冷たい。
湿っている。
縄に触れようとすると、リュカが袖を噛んだ。
「触るな、か」
俺は手を引いた。
セラが目を丸くする。
「その子、今、止めたんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「昨日から一緒にいるが、野良だから説明書がない」
セラは緊張した顔のまま、少しだけ笑った。
その小さな笑いに、村人たちの刺々しい空気がほんの少し緩む。
会話というのは、こういう時に役に立つらしい。
「最近、この井戸に何か落ちたか」
俺が聞くと、村人たちは互いに顔を見合わせた。
「落ちてない」
「本当か」
「知らん」
「じゃあ、本当ではないな」
また空気が硬くなる。
セラが慌てて間に入った。
「3日前、雨のあとに水が少し濁りました。でも、すぐ戻ったんです」
「濁った原因は」
「分かりません。裏の斜面から土が流れたのかもしれないと」
「裏の斜面を見たい」
そのとき、低い声が広場に響いた。
「その必要はないわい」
村人たちが左右に分かれる。
杖をついた老人が、ゆっくりと歩いてきた。背は曲がっているが、目にはまだ力がある。服は村人たちより少し上等で、腰には古い鍵束を下げていた。
村長だろう。
年齢、70前後。
発症率、34%。
責任回避発生率、86%。
俺は最後の数字を見て、少し嫌な気分になった。
こういう数字は見たくない。
「あなたが村長か」
「リーベル村の村長、バルトじゃ。よそ者が村の井戸に口を出すとは、ずいぶん偉いものだな」
「偉くはない。昨日、職を失った」
セラが小さく息を吸った。
村長は眉をひそめた。
「職を失った男の言葉で、村の井戸を封じろと言うのかの」
「職の有無と水の汚れは関係ない」
「なら、証拠はあるのかの」
当然の質問だった。
俺は井戸を見た。
視界には数字が浮かんでいる。
井戸水汚染率、78%。
しかし、この数字は俺にしか見えない。
俺が「見える」と言ったところで、村人たちには狂人の戯言にしか聞こえないだろう。
だから、別の形にしなければならない。
「水桶の内側にぬめりがある。縄が黒ずんでいる。3日前の雨で斜面から土が流れた。死者は2人。咳をしている商人が村外へ出た。薬草の買い込みもある。井戸を疑う理由としては十分だ」
「どれも決定的ではない」
「決定的になったときには、手遅れだ」
村長の顔が険しくなった。
「不安を煽るな」
「不安で済んでいるうちに止めるべきだ」
「水がなければ、村は今日を越せん」
「川の上流から汲む。煮沸する。雨水を使う。近隣村から買う。井戸を封じるのは一時的でいい」
「簡単に言う」
「簡単ではない。だが、死者が増えるよりはましだ」
村長は答えなかった。
代わりに、セラを見た。
「お前が吹き込んだのか」
「私は、井戸を調べるべきだと言っただけです」
「お前の師匠も、そうやって村を混乱させた」
セラの顔色が変わった。
そこに触れられたくないのだと、すぐに分かった。
俺は口を挟むべきか迷った。
だが、その前にリュカが動いた。
白い獣は、井戸の縁から少し離れた地面に鼻を近づける。
それから、広場の裏手へ向かって歩き出した。
「リュカ?」
呼んでも止まらない。
リュカは井戸の裏、村長が必要ないと言った斜面の方へ進んでいく。
俺は後を追った。
「待て、勝手に歩くな!」
ギルが声を荒げる。
「なら、一緒に来い」
俺が言うと、ギルは嫌そうな顔をしながらもついてきた。
セラも来る。
村長は少し遅れて、杖をつきながら歩いた。
井戸の裏手には、小さな斜面があった。
雨で土が崩れ、草の根がむき出しになっている。その下に、細い水の筋ができていた。斜面の上には、古い家畜小屋がある。
今は使われていないように見えた。
だが、匂いがした。
腐敗臭。
リュカが足を止めた。
その場から動かず、斜面の上を見ている。
「……あそこだ」
俺が言うと、セラが顔を青くした。
「まさか」
「心当たりがあるのか」
「先週、子山羊が1頭、いなくなったと聞きました。でも、森に逃げたのだと」
ギルが息を詰めた。
村長の顔が固まる。
俺は斜面を登った。
小屋の裏に回ると、答えはすぐにあった。
崩れた土のくぼみに、小さな死骸が半ば埋まっていた。
雨水がそこを通り、斜面を下り、井戸の周囲へ流れている。
リュカが低く鳴いた。
声にならない、喉の奥の音だった。
俺の視界に数字が浮かぶ。
井戸水汚染率、92%。
24時間以内の新規発症率、81%。
48時間以内の重症者発生率、67%。
もう、疑いではない。
「井戸を封じろ」
俺は言った。
村長が黙っている。
「今すぐだ」
ギルが、村長を見た。
セラも見た。
村人たちが少し離れた場所から、こちらを見上げている。
村長は長く沈黙した。
その沈黙の間にも、広場の方で誰かが咳をした。
1回。
2回。
乾いた、嫌な咳だった。
セラが唇を噛む。
「村長」
老人は目を閉じた。
それから、かすれた声で言った。
「……井戸を封じろ」
広場がどよめいた。
「今から、この井戸の水は使うな。桶も縄も触るな。セラ、煮沸の手順を頼む。ギル、動ける男を集めて川の上流へ行け。急げ」
セラの目が一瞬、揺れた。
だが、すぐに頷いた。
「はい」
ギルも鍬を握り直した。
「分かった」
俺は息を吐いた。
ひとまず、最悪の1つは止められた。
だが、数字はまだ下がらない。
リーベル村、疫病発生率、91%。
死亡者発生率、62%。
井戸を封じても、すでに飲んだ者たちはいる。
水桶を洗った者も、食事に使った者も、看病した者もいる。
ここからが本番だ。
セラが俺の横に立った。
「ユリウスさん」
「呼び捨てでいい」
「では、ユリウス」
彼女はまっすぐ俺を見た。
「あなたには、何が見えているんですか」
質問は静かだった。
責める声ではない。
だが、ごまかせる声でもなかった。
俺は答えに迷った。
数字が見える。
そう言えば、たぶん信じられない。
計算だと言えば、嘘になる気がした。
リュカが俺の足元で、こちらを見上げていた。
嘘をつくな、と言っているようだった。
「……悪い方に傾く条件が、少し分かる」
結局、俺はそう答えた。
完全な嘘ではない。
完全な真実でもない。
セラは少しだけ考え、それから頷いた。
「分かりました。では、悪い方に傾かないようにするには、何をすればいいですか」
その質問に、俺は初めて彼女を信用してもいいと思った。
なぜ見えるのかではなく、何をするかを聞いたからだ。
「まず、発熱者を分ける。水を煮沸する。井戸に触れた桶と布を焼く。看病する者を固定する。子供と老人を広場から離す」
「薬草は?」
「症状を見てからだ。全員に配れば足りなくなる」
「分かりました」
セラはすぐに走り出した。
細い背中だった。
だが、その動きに迷いはない。
リュカが俺の隣で小さく息を吐いた。
俺は井戸を見下ろした。
数字はまだ悪い。
だが、固定されてはいない。
動く余地がある。
「まだ間に合う」
声に出すと、リュカが尾を揺らした。
同意なのか、急げという催促なのかは分からない。
どちらでもよかった。
俺は広場へ戻った。
水を止めるだけでは、村は救えない。
ここから、発症者を見つけなければならない。
誰を隔離し、誰を看病し、誰を動かすべきか。
命を、数字で分けなければならない。
それが嫌でたまらないのに、俺にはそれしかできなかった。




