第5話 薬師見習いの疑い
井戸を封じる、と村長が告げた瞬間、村はようやく騒ぎ出した。
それまでの静けさが嘘のようだった。
「水を止めたら、飯はどうするんだ」
「子供に何を飲ませるの」
「川の水なんて、もっと汚いだろう」
「セラのせいだ。あの子が騒ぐから」
広場に、声が重なる。
その声のほとんどは恐怖だった。
怒りに聞こえるものも、不満に聞こえるものも、根っこにあるのは同じだ。今日飲む水がなくなる。明日の食事が作れない。家族が倒れるかもしれない。
人は未来の死より、目の前の不便の方を先に恐れる。
それは責められることではない。
俺だって、水を止められれば困る。
「川の上流へ行ける男を4人。桶を煮沸できる家を3軒。発熱者を寝かせる空き家を1軒。今すぐ分けてください」
セラが声を張った。
疲れているはずなのに、よく通る声だった。
だが、村人たちは簡単には動かなかった。
「発熱者を寝かせるって、病人を集めるのか」
「うちの母さんを外へ出せって言うのか」
「そんなことをしたら、本当に病が広がるだろう」
「もう広がり始めているから、分けるんです」
セラは必死に説明していた。
だが、必死な説明ほど、聞く側には怖く聞こえることがある。
俺は周囲を見回した。
数字が浮かぶ。
広場にいる村人、42人。
明らかな発熱者、6人。
潜在的な発症者、推定11人。
24時間以内の新規発症率、74%。
このまま広場で議論を続けた場合の接触拡大率、68%。
まずい。
議論そのものが、病を運ぶ。
「全員、井戸から離れてください」
俺が言うと、広場の声が少しだけ弱まった。
代わりに、不信の視線が集まる。
王都から来た、職を失った統計士。
村人から見れば、どう考えても信用に値しない。
「あなたたちは今、井戸のそばで話している。その桶も縄も、誰が触ったか分からない。病が水から来ているなら、ここにいる時間が長いほど危険です」
「なら、どこへ行けって言うんだ」
ギルが苛立った声で言った。
彼自身も額に汗をかいている。
発熱率、72%。
本人はまだ自覚していない。
「広場の北側。風下を避ける。子供と老人は先に」
「なぜお前が決める」
「死にやすい順に動かす必要がある」
言った瞬間、空気が凍った。
ああ、失敗した。
言い方が悪かった。
セラがこちらを見た。目で、言葉を選んで、と言っている。
分かっている。
分かってはいるが、間に合わないときほど、言葉は短くなる。
「……子供と老人は、体力がない。だから先に安全な場所へ移す。そういう意味です」
俺が言い直すと、少しだけ空気が戻った。
だが、完全には戻らない。
村人の中から、若い母親らしい女が前に出た。
胸に幼い子を抱いている。
「安全な場所ってどこですか。うちの子は、誰にも触らせません」
「触らなくていい。あなたが抱いたまま移動してください。ただし、井戸水を飲ませていたなら、発熱に注意を」
「この子が病気だって言うんですか」
「可能性の話です」
「可能性で、そんなことを言わないでください」
女の声が震えた。
その子供の額は、まだ熱くない。
発症率、18%。
高くはない。
だが、0%ではない。
0でないものを、どう伝えればいいのか。
研究院では、数字を紙に書けば済んだ。
だが、目の前の母親に「18%」と言っても、何の慰めにもならない。
「今すぐ危険だとは言っていません」
俺はできるだけ声を落とした。
「だから、危険が増えない場所へ移すんです。あなたが抱いていてください。水は煮沸したものだけを飲ませる。子供が汗をかいたら、セラに見せてください」
女はまだ不安そうだったが、少しだけ腕の力を緩めた。
セラがすぐに寄り添う。
「ミア、大丈夫。私が見るから。まず北の納屋へ行って。床に布を敷いて、子供たちを休ませましょう」
「でも、セラ……」
「井戸の水は使わないで。お願い」
ミアと呼ばれた女は、泣きそうな顔で頷いた。
セラの言葉なら届く。
俺の言葉より、ずっと。
役割を間違えてはいけない。
俺は、村人を説得する人間ではない。
何を優先するかを決める人間だ。
それが嫌でも。
「セラ」
「はい」
「セラが村人に指示を出してくれ。俺は順番を決める」
「分かりました」
セラは短く頷いた。
迷いがない。
その迷いのなさが、少し危うくも見えた。
彼女自身の疲労による判断低下率は、46%から51%へ上がっている。
「その前に、セラも水を飲め」
「今はそんな場合では」
「そんな場合だ。セラが倒れると、この村は一気に詰む」
セラは一瞬、言葉を失った。
「救助成功率、ですか」
「……言い方が悪かった」
「いいえ」
彼女は少しだけ笑った。
「……本当に、そんなふうに見えているんですね」
俺は答えなかった。
リュカが俺の足元で、じっとこちらを見上げている。
嘘をつくな、という顔だ。
だが、今ここで真実を話している余裕はない。
「ギル」
俺は門番の男を呼んだ。
ギルは嫌そうに顔を上げる。
「何だ」
「ギルは川へ行くな」
「は?」
「発熱している可能性が高い。人を集めて動けば、病を広げる」
ギルの顔が赤くなった。
「ふざけるな。俺は元気だ」
「額に汗が出ている。声がかすれている。さっきから水を欲しがっている。歩幅も少し乱れている」
「暑いだけだ」
「なら、休め」
「村の一大事に、門番が休めるか!」
ギルが怒鳴った。
周囲の視線が集まる。
まずい。
怒鳴ると飛沫が飛ぶ。
俺は一歩下がり、布で口元を押さえた。
その動作が、ギルの怒りをさらに煽ったらしい。
「汚いものを見るみたいにするな!」
「そういう意味ではない」
「じゃあ何だ! 俺が病人だって決めつけて、みんなから離れろってか」
「その通りだ」
また失敗した。
セラが目を閉じた。
村人たちのざわめきが強くなる。
ギルは鍬を握りしめた。
「お前、命を数字で分けてるだけだろ」
その言葉は、正しかった。
正しすぎて、反論が遅れた。
俺には数字が見える。
発症率、死亡率、拡大率、救助成功率。
その数字をもとに、誰を動かし、誰を止め、誰を隔離するかを決めようとしている。
人間を数字に分けるな、と言われれば、その通りだ。
だが、分けなければ増える。
病は、優しさの順番を待ってくれない。
「……数字で分けなければ、それはそのまま死ぬ順番になる」
俺が言うと、ギルの顔が歪んだ。
殴られるかもしれない、と思った。
だが、その前にセラが間に入った。
「ギル、お願い。休んで」
「セラ、お前まで」
「ギルが倒れたら、誰が門を見るの。今休めば、明日また立てるかもしれない。でも今無理をしたら、次は看病される側になる」
「俺は……」
「強い人から休んで。弱い人を守るために」
その言い方は、うまかった。
俺なら絶対に出てこない言葉だ。
ギルの怒りが、少しずつしぼんでいく。
彼は悔しそうに鍬を下ろした。
「……少しだけだ」
セラは頷いた。
ギルは村人の若者に鍬を渡し、広場の端へ下がった。
その背中は、思ったより小さく見えた。
俺は小さく息を吐いた。
「助かった」
「言い方がひどいです」
「自覚はある」
「自覚があるなら直してください」
「努力する」
「今から」
「……今から努力する」
セラは呆れた顔をした。
それでも、目の奥に少しだけ笑みがある。
この状況で笑えるのは、強い。
あるいは、強く見せているだけかもしれない。
そのとき、リュカが突然走り出した。
向かった先は、広場の東側にある小さな家だった。
扉の前に、女の子が座っている。
年は6歳ほど。膝を抱え、顔を赤くしている。そばに置かれた木椀には、水が半分残っていた。
リュカが女の子の前で止まり、低く鼻を鳴らした。
俺の視界に数字が浮かぶ。
女の子、48時間以内の重症化率、36%。
脱水発生率、52%。
すでに危険だ。
「セラ」
俺が呼ぶより早く、セラは走っていた。
「ニナ!」
女の子はぼんやり顔を上げた。
「セラ姉……寒い」
声が細い。
セラが額に触れる。
「熱い。いつから?」
「朝から……お母さん、井戸に行った」
「水は飲んだ?」
ニナは木椀を見た。
「少し」
井戸水だろう。
セラの顔色が変わる。
「ユリウス、どうすれば」
「北の納屋ではなく、別室だ。発熱者用の空き家を決める。子供は優先して寝かせる。水は煮沸して冷ましたものを少量ずつ。汗を拭く布は使い回さない」
「薬草は?」
「熱を下げるものを少量。吐き気があるなら濃くするな。飲ませすぎると逆に弱る」
言いながら、俺はニナの木椀を布で包んだ。
「これは触るな。井戸水が入っている」
ニナが怯えた顔をした。
「私、悪いことした?」
胸の奥が詰まった。
違う。
病気になった子供に、そんなことを思わせてはいけない。
俺は膝をついた。
できるだけ、怖がらせない声を探す。
「悪いことはしていない。ただ、水が少し悪かった。だから、これからは別の水を飲む」
「死ぬの?」
その質問は、あまりにまっすぐだった。
俺の視界に数字が揺れる。
死亡率、14%。
適切に水分を取れた場合、6%。
発見が遅れた場合、31%。
数字は、子供の顔の上に重なって見えた。
吐き気がした。
「死なせない」
気づけば、そう言っていた。
セラが俺を見た。
リュカも見た。
今の言葉は、計算ではない。
保証でもない。
嘘に近い。
だが、リュカは離れなかった。
ただ、ニナの足元に座った。
まるで、見張るように。
ニナはリュカを見て、少しだけ笑った。
「白い子……」
「リュカだ」
「触っていい?」
リュカは一瞬だけ俺を見た。
それから、ニナの手元に自分の尾を寄せた。
ニナは弱々しく、その尾に触れた。
「ふわふわ」
「そうだな」
俺は立ち上がった。
セラの目が少し赤い。
「泣くな。水分がもったいない」
「……本当に、言い方がひどいです」
「今のは冗談のつもりだった」
「分かりにくいです」
セラは袖で目元を拭い、すぐに表情を戻した。
「ニナを運びます。ユリウス、他に危ない人を見つけられますか」
「ああ」
俺は広場を見た。
数字がいくつも浮かぶ。
誰が発熱しているか。
誰がまだ動けるか。
誰を休ませるべきか。
誰に水を運ばせるべきか。
命が、数字になって見える。
そのことが嫌で、たまらなかった。
それでも、俺は数字を見た。
「まず、あの老人を座らせる。次に、赤い布を巻いた少年を発熱者の家へ。ギルは動かすな。ミアの子供は北の納屋。村長は人をまとめるだけで、井戸には近づけない」
「分かりました」
セラは走った。
村人たちはまだ疑っている。
俺を信じているわけではない。
セラのことも、完全には信じていない。
だが、ニナが倒れたことで、空気は変わった。
疑いよりも、恐怖が勝った。
恐怖は人を乱す。
だが、ときには動かす。
俺は手帳を開き、震える指で記録を取った。
発熱者、7人。
重症化リスク高、3人。
井戸水接触者、多数。
川上流からの水確保、必要量は1日あたり桶24杯以上。
必要な人手、最低6人。
リーベル村、救助成功率、31%。
低い。
あまりにも低い。
だが、0ではない。
リュカがニナのそばからこちらを見た。
薄い金色の目が、まっすぐに俺を射抜く。
急げ。
そう言われた気がした。
俺は手帳を閉じた。
「31%なら、まだ動ける」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
十分とは言えない。
だが、0でないなら、動く理由になる。
薬師見習いは疑われていた。
よそ者の統計士は、もっと疑われていた。
白い獣だけが、最初から迷わず病のそばにいた。
その日の夕方までに、俺たちは村を3つに分けた。
発熱者。
発熱者を看病する者。
まだ動ける者。
人間をそんなふうに分けることが正しいとは、今でも思えない。
けれど、夜になる頃、井戸の周りに人影はなくなっていた。
それだけは、確かに間に合ったのだと思うことにした。




