第3話 白い獣は南を嫌がる
夜明け前の宿場町は、まだ眠っていた。
雨は上がっていたが、屋根から落ちる雫が細い音を立てている。通りには薄い霧が残り、馬小屋の方から湿った藁と獣の匂いが流れてきた。
俺が一階へ降りると、眠り馬亭の主人が暖炉の前に座っていた。
口下手だとマーサが言っていた男だ。確かに、こちらを見ても何も言わない。代わりに、卓の上へ紙包みをひとつ押し出した。
「……これは?」
「朝飯」
「頼んでいないが」
「大したものじゃない」
それだけ言うと、主人はまた暖炉の火に視線を戻した。
紙包みを開けると、黒パンと焼き直した肉、それから乾いた果物が入っていた。南へ向かう旅人には十分すぎる量だ。
「代金は」
「いらん」
「それでは計算が合わない」
主人は少しだけ顔を上げた。
「昨日、うちの甥がその肉を食うところだった」
「甥?」
「店を手伝ってるトマだ」
「ああ」
水桶をひっくり返すよう命じられていた少年だ。
「何も起きていないだろう」
「何も起きなかったから、礼だ」
それは妙な言い方だった。
何かが起きた後なら、人は礼を言いやすい。けれど、起きなかったことに対して礼を言うのは難しい。
俺が研究院でしていた仕事は、いつもその難しさに負けていた。
災害が起きなければ、過剰な心配だったと言われる。
災害が起きれば、なぜ防げなかったと責められる。
だから、何も起きなかったことに礼を言われるとは思っていなかった。
「……助かる」
「南は、道が悪い」
「知っている」
「知らん顔しとるぞ」
「顔に出にくいだけだ」
主人はほんの少し口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
足元でリュカが紙包みの匂いを嗅いだ。昨日より警戒はしていない。食べてもいい、ということらしい。
「お前の許可制になった覚えはないんだが」
リュカは俺を見ずに、黒パンの端を前足で押さえた。
「それは俺のだ」
すると、眠り馬亭の主人が低く言った。
「その獣、賢いな」
「俺のパンを奪う程度には」
「違う。怖がっている」
俺はリュカを見た。
白い獣は黒パンの端を押さえたまま、宿の扉の方を向いていた。
南の街道へ続く扉だ。
耳が伏せられ、尾の先だけが細かく震えている。
「南が嫌なのか」
リュカは答えない。
ただ、俺の外套の裾を噛んだ。
引き止める力は弱い。
だが、離そうとはしなかった。
「行くな、か」
リュカは動かない。
「それとも、覚悟しろ、か」
今度は、噛む力が少しだけ弱まった。
都合よく解釈しているだけかもしれない。
それでも、俺は紙包みを荷袋にしまった。
「どちらにしても、行くしかない」
リュカはようやく裾を離した。
南へ向かう街道は、王都周辺の道とはずいぶん違った。
石畳はところどころ剥がれ、雨でぬかるんだ土が車輪の跡を深く残している。左右には畑が広がっているが、春先にしては人の姿が少ない。
リュカは俺の少し前を歩いた。
ときどき立ち止まり、空気の匂いを嗅ぐ。
狐のようだと思えば狐に見えるし、猫のようだと思えば猫に見える。だが、どちらにしても、普通の獣にしては賢すぎる。
「南が嫌なら、先に言っておいてほしかったな」
返事はない。
「いや、言えないのか」
リュカの耳がぴくりと動いた。
俺は歩きながら、手帳を開いた。
リーベル村、疫病発生率、76%。
この数字は、夜の間に変わっていない。
ただ、見つめていると、縁が少しだけ滲む。
昨日の揺れが気のせいであればいい。
数字は変わる。条件が変われば、結論も変わる。それは当然だ。
けれど、数字そのものが俺を見返してくるような感覚は、これまでなかった。
「寝不足だな」
自分に言い聞かせるように呟く。
リュカが足を止めた。
街道の先から、荷馬車が一台やってくる。
幌は泥で汚れ、車輪の片側に新しい縄が巻かれていた。折れかけた軸を応急処置したのだろう。御者台には中年の男が座っている。
右手に、古い火傷の跡があった。
マーサが言っていた商人だ。
男は俺を見ると、少しだけ警戒した顔をした。
「おい、兄さん。王都へ行く道はこっちで合ってるか」
「ああ、合っている」
「助かった。雨で道が分かりにくくてな」
男はそう言って笑った。
乾いた咳をひとつした。
俺の視界に数字が浮かぶ。
この男の48時間以内の発熱率、64%。
7日以内の重症化率、19%。
接触者への感染拡大率、31%。
俺は足を止めた。
「リーベル村から来たのか」
男の笑みが、ほんの少し固まった。
「……だったら何だ」
「村で熱を出している者はいるか」
「さあな。春先だ。咳の一つくらい誰でもする」
「右手の火傷はいつのものだ」
「関係あるのか」
「3日前、この宿場町で薬草を買ったな」
男の目が細くなった。
リュカが、低く唸った。
男はリュカを見て、顔をしかめる。
「何だ、その獣。気味が悪いな」
リュカの尾が膨らんだ。
「触るなよ」
「触るかよ。白い獣なんて縁起が悪い」
「薬草は誰のために買った」
男は答えなかった。
代わりに、咳を押し殺すように肩を震わせた。
荷馬車の幌の隙間から、布袋が見えている。乾燥薬草、塩、豆、そして空の水樽。水樽の縁には、黒っぽい泥がこびりついていた。
「その水樽を、どこの井戸で洗った」
「何でそんなことを聞く」
「病気が広がるかもしれない」
男は露骨に顔をしかめた。
「またそれか」
「また?」
「村にもいたんだよ。井戸が悪いだの、神殿に届けろだの騒ぐ娘が」
「娘?」
「薬師見習いだ。半端者のくせに、口だけは達者でな」
リュカが前へ出た。
男は思わず手綱を引き、馬が鼻を鳴らした。
「おい、近づけるな」
「名前は」
「何の」
「その薬師見習いの名前だ」
「知らん」
嘘だ。
男の死亡率より先に、その短い嘘が見えた気がした。
正確には、分かっただけだ。
視線が右へ逃げる。口の端がこわばる。知らないと言うには、怒りが混じりすぎている。
「知っているな」
「兄さん、役人か何かか」
「昨日までは研究院にいた」
「なら、もっと関係ないな」
男は手綱を鳴らした。
荷馬車が動き出す。
俺は横へ避けた。
リュカは避けなかった。
「リュカ」
白い獣は、荷馬車の前に立ったまま、男を見上げている。
馬が怯えたように足踏みした。
男の顔色が悪くなる。
「どけろ!」
「リュカ、どけ」
リュカは動かなかった。
代わりに、荷台の奥を見ていた。
俺は幌の隙間から、もう一度中を覗いた。
布袋の陰に、小さな木箱がある。
箱の側面に、神殿の印が焼き付けられていた。
「それは何だ」
「商品だ」
「神殿の箱が?」
「預かりものだよ」
「誰から」
「うるさいな。あんたには関係ない」
男が立ち上がりかけた瞬間、強く咳き込んだ。
顔を背けるのが間に合わず、幌の内側に飛沫が散る。
俺は反射的に一歩下がった。
感染症の種類は分からない。
だが、飛沫。発熱。井戸水。薬草の買い込み。南部の村。神殿の箱。
別々の線が、ひとつの形に近づいていく。
「王都へ行くな」
俺は言った。
男が睨む。
「あ?」
「今の状態で王都へ入れば、少なくとも20人以上に広がる可能性がある。建国祭前なら、もっと増える」
「馬鹿を言うな。俺は急いでるんだ」
「急ぐ理由は、その箱か」
男の顔色が変わった。
肯定と同じだった。
リュカが前足で地面を掻いた。
まるで、ここに線を引いているようだった。
「戻れ。少なくとも宿場町で医師に診せろ。水樽と幌は洗え。荷台の布は燃やした方がいい」
「ふざけるな。そんなことをしたら損が出る」
「死者が出るよりは安い」
「俺一人が少し咳をしているだけだろうが!」
男の声が街道に響いた。
その怒鳴り声に驚いたのか、近くの畑から老夫婦が顔を出した。
まずい。
人が集まれば、それだけ接触が増える。
「離れてください」
俺は老夫婦に向かって言った。
「その荷馬車に近づかない方がいい」
「何だい、病かい?」
老婆が不安そうに声を上げる。
男は舌打ちした。
「余計なことを言うな!」
「余計かどうかは、4日後に分かる」
「この野郎」
男が御者台から降りようとした。
その瞬間、リュカが跳んだ。
白い影が男の足元を横切り、荷馬車の車輪の前で身を低くする。
馬が大きく嘶いた。
荷馬車が傾き、応急処置の縄が軋む。
「止めろ!」
俺はとっさに車輪へ手をかけた。
重い。
泥に足を取られ、肩に嫌な音が走る。
だが、ここで車輪が外れれば荷が散る。汚れた水樽も、幌も、神殿の箱も道に投げ出される。
拡散率が跳ね上がる。
「手綱を引け!」
男に怒鳴る。
今度は従った。
馬が止まり、荷馬車の揺れが収まる。
俺は息を吐いた。
肩が痛む。
リュカがすぐそばに寄ってきて、俺の手袋を噛んだ。
「分かってる。無茶はした」
リュカは離さない。
「だが、荷をぶちまけるよりはましだ」
リュカはまだ離さなかった。
男は御者台で青ざめていた。
先ほどまでの怒りは薄れ、代わりに怯えが見える。
「……あんた、何者なんだ」
「統計士だ」
「統計士が、何でそんなことまで分かる」
「見れば分かる」
言ってから、ひどく雑な説明だと思った。
だが、これ以上の言い方を俺は知らなかった。
老夫婦が距離を取ったまま、こちらを見ている。
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……セラだ」
「何が」
「薬師見習いの名前だよ。セラ・アルヴィン。あいつが、井戸を封じろって騒いでた」
「なぜ従わなかった」
「村長が止めた。井戸を封じたら、村が終わるって」
水がなければ村は生きられない。
その判断自体は、愚かではない。
だが、汚染された井戸を使い続ければ、周囲に拡大する。
「村で死者は出たか」
「1人」
数字が動いた。
リーベル村、疫病発生率、81%。
重症者発生率、43%。
村外拡散率、26%。
胃のあたりが重くなる。
「いつだ」
「昨日の朝だ。年寄りだった。だから、皆、寿命だって」
「発熱は」
「……あった」
「咳は」
「俺みたいに少しだけだ」
「少し、で人は死ぬ」
男は言い返さなかった。
俺は荷袋から布を出し、口元を覆った。
「荷馬車は宿場町に戻せ。マーサという女将に、俺の名前を出せ。水桶を洗えと言った統計士だと言えば、たぶん怒りながら手伝ってくれる」
「俺は王都へ……」
「行けば、王都で人が死ぬ。1人ではすまない。戻れば、損で済む」
「損で済むって、簡単に言うなよ」
「簡単ではない。だが、比較すれば安い」
男は苦い顔をした。
「嫌なことを言う奴だな」
「昨日も言われた」
「そりゃ言われるだろうな」
男は咳をこらえながら、手綱を握り直した。
「……宿場町で、本当に診てくれるのか」
「診るのは医師だ。俺は診ない」
「統計士だもんな」
「ああ」
男は、少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
「分かったよ。戻る。ただし、何もなかったら、あんたを恨むからな」
「何もなければ、それが一番いい」
「そういうところだぞ」
男は荷馬車をゆっくり回した。
リュカは道の端へ避けたが、男と荷馬車が十分遠ざかるまで、ずっと見送っていた。
姿が霧に消えると、ようやく俺の手袋を離した。
「お前、さっきはわざと馬を止めたな」
リュカは知らん顔をした。
「危ないだろ」
白い獣は、俺の肩を見た。
それから、ふいと顔を背ける。
「俺に言われたくない、という顔だな」
返事はない。
その通りなのだろう。
俺は肩を軽く回した。痛みはあるが、動かせないほどではない。
問題は、リーベル村の数字だ。
81%。
想定より早い。
すでに死者が出ているなら、井戸水だけでは済まない可能性がある。
水。飛沫。荷物。神殿の箱。
村長。薬師見習いのセラ。
そして、南を嫌がるリュカ。
「急ぐぞ」
リュカは歩き出した。
今度は、俺より前を行かない。
足元に寄り添うように、横を歩いた。
昼前には、道はさらに悪くなった。
畑の端には、放置された荷車があった。車輪は片方が外れ、積んでいた干し草は雨を吸って黒ずんでいる。近くの小川は濁っていた。
橋のたもとで、俺は立ち止まった。
橋板に、新しい泥の跡がある。
荷馬車が通った跡だ。
その脇に、小さな足跡がいくつも残っていた。
子供の足跡だ。
村から外へ出たのか、外から村へ戻ったのか。
俺はしゃがんで跡を見た。
泥の乾き具合から見て、昨日の夕方以降。
足跡はふらついている。
片方のつま先を引きずっている。
発熱した子供が歩いた可能性。
あるいは、ただの怪我。
目前の数字ははっきりしない。
72、81、83、79。
揺れる。
「またか」
頭の奥が、薄く痛んだ。
数字が定まらないことはある。情報が足りないときは当然だ。
だが、今の揺れは違う。
俺が考えれば考えるほど、数字の方がこちらに寄ってくるような感覚がある。
橋の上で、リュカが小さく体を震わせた。
「寒いのか」
違う。
それは分かった。
リュカは橋の向こう、南の林を見ている。
薄い霧の奥から、鳥が一斉に飛び立った。
俺の視界に、初めて別の数字が浮かんだ。
リーベル村、24時間以内の死亡者発生率、57%。
間に合うかもしれない、という言葉が喉まで出た。
だが、口にはしなかった。
数字は、励ましではない。
ただの警告だ。
「行こう」
リュカが、短く尾を振った。
俺たちは橋を渡った。
南の空は、雨上がりだというのに、妙に白く霞んでいた。
遠くで、鐘の音が聞こえた。
1度。
2度。
3度。
村の鐘だ。
火事か、死者か、あるいはその両方か。
リュカが走り出した。
「待て、リュカ!」
白い影は霧の中へ飛び込んでいく。
俺は肩の痛みを無視して、その後を追った。
リーベル村まで、まだ半日はあると思っていた。
だが、村の危機は、こちらの予定より早く進んでいた。
数字はまた動いた。
81。
86。
89。
俺は初めて、自分の見ている数字に怒りを覚えた。
「勝手に上がるな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、霧の向こうで白い獣が振り返る。
その薄い金色の目だけが、妙にはっきり見えた。
まるで、急げ、と言っているようだった。




