表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
“役立たずの統計士”と追放された俺、死亡率が見える能力で王国崩壊を回避していたら、白い聖獣に懐かれました  作者: くるみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/17

第2話 役立たずの統計士

 王都を出て3時間ほど歩いたところで、雨はようやく細くなった。


 街道の脇には、春先の草が濡れて光っている。馬車の轍には泥水がたまり、通るたびに靴の裾を汚した。

 俺は外套の襟を立て、肩にかけた荷袋の位置を直した。


 研究院にいた頃は、雨の日に長く歩くことなどほとんどなかった。地下室と資料庫と食堂を往復するだけで、一日の歩数は王都の猫より少なかったかもしれない。

 その猫に似ているのか、狐に似ているのか分からない白い獣は、俺の横を平然と歩いていた。

 リュカ、と呼ぶことにしたその獣は、泥を踏んでもほとんど汚れない。


「お前、どういう毛並みをしてるんだ」


 リュカは俺を見上げた。

 何を聞かれているのか分からない、という顔ではない。

 分かっているが答える気はない、という顔だった。


「まあ、いい。答えられても困る」


 そう言うと、リュカは耳を少し動かした。

 街道には、人の気配が少ない。

 建国祭前の王都へ向かう馬車なら何台も見たが、王都から離れていく者は少なかった。商人は王都へ品を運び、旅芸人は王都で稼ぎ、貴族は王都で顔を売る。


 崩壊確率99.7%の都市へ、人は喜んで集まっていく。

 それが悪いとは思わない。

 人間は数字を見て生きているわけではない。雨が降れば濡れるし、腹が減れば食べるし、祭りがあれば浮かれる。

 たぶん、その方が普通だ。


「俺は普通ではない、か」


 声に出すと、思ったより惨めに聞こえた。

 リュカが俺の靴先を前足で軽く叩いた。


「慰めているのか」


 返事はない。


「違うか。歩くのが遅いと言いたいんだな」


 今度は、リュカがふいと顔を背けた。

 どうやら当たりらしい。

 昼を少し過ぎた頃、小さな宿場町に着いた。

 王都から半日ほどの距離にある、馬車の乗り換えと荷の積み替えで成り立っている町だ。通りには干し肉の匂いが漂い、馬小屋からは湿った藁の匂いがした。


 俺はまず掲示板を見た。

 旅人が宿を探す掲示板ではない。

 町の死亡人数と、物価表と、荷馬車の遅延情報が貼られている方だ。

 干し豆の価格が2割上がっている。

 塩の搬入が三日遅れている。

 昨日、荷馬車が1台、南の橋で車輪を折った。

 熱病による死亡告知が、先月より2件多い。

 まだ異常ではない。


「お兄さん、宿を探してるのかい」


 声をかけてきたのは、肉串を焼いている女将だった。

 丸い顔に、よく動く目。手は串を返しながら、こちらの荷物と靴と外套を順番に見ている。

 職業柄、旅人の財布の厚みを見抜くのだろう。


「安いところを探している」


「安いなら、向こうの赤い屋根の宿だね。うちで肉串を2本買ってくれたら、紹介してやるよ」


「1本では?」


「2本だよ。雨の日は火を使うだけで損なんだ」


「理屈は分かる」


 俺は銀貨を出しかけて、少し考えた。

 手元には銀貨10枚。南部までの道中を考えると、無駄遣いはできない。

 だが、朝から硬いパンしか食べていない。

 死亡率以前に、空腹で判断力が落ちる。


「2本くれ」


「はいよ。そっちの白い子にもいるかい?」


 女将がリュカを見て、目を細めた。


「ずいぶん綺麗な子だねえ。狐かい?」


「分からない」


「飼い主が分からないのかい」


「昨日から勝手についてきた」


「それはもう飼い主だよ」


 俺は反論しようとしたが、リュカが当然のように俺の足元に座ったので、やめた。

 女将は笑いながら、小さく切った肉を串から外して皿に置いた。


「ほら、白い子。熱いから気をつけな」


 リュカは匂いを嗅いだ。

 そして、食べなかった。


「おや、嫌いかい」


「贅沢なんだ」


 俺が代わりに食べようとすると、リュカが俺の靴を噛んだ。


「何だ。俺にも食うなと?」


 リュカは皿を見て、それから女将の後ろに積まれた薪の山を見た。

 さらに、店の奥に置かれた水桶を見た。

 俺は肉を持ったまま、少し黙った。


「女将。その肉は、いつ仕入れた」


「今朝だよ」


「どこの商人から?」


「南から来た荷馬車だね。何だい、味見もしないうちから文句かい」


「そうじゃない。保管場所を見せてもらえるか」


 女将の顔から笑みが消えた。


「お兄さん、役人かい?」


「昨日までは王立研究院にいた」


「じゃあ、もっと嫌だね」


「だろうな」


 俺は肉を皿に戻した。


「この町で、腹を壊した客はいるか」


 女将の眉がぴくりと動いた。

 人間は、隠したいことを聞かれたとき、答える前に顔がほんの少し動く。


「……2人くらいだよ。旅人なんて、道中で何を食べてるか分からないだろ」


「発熱は?」


「さあね」


「死亡告知に熱病が2件増えていた」


「掲示板まで見る旅人は嫌われるよ」


「よく言われる」


 実際には、初めて言われた。

 だが、言われても不思議ではない自覚はあった。

 リュカが低く喉を鳴らした。

 女将ではなく、店の奥を睨んでいる。


「女将、水桶を最後に洗ったのはいつだ」


「水桶?」


「そこに肉を冷やすための布がかかっている。井戸水で濡らしているな。井戸は町の南側か」


 女将が黙った。

 俺の頭の中で、数字が組み上がっていく。

 南から来た荷馬車。

 遅延した塩。

 雨。

 洗われていない水桶。

 肉の保存。

 腹痛と発熱。


 この店の食中毒発生率、68%。

 3日以内に重症者が出る確率、23%。

 町全体への拡大率、12%。

 王国崩壊に比べれば、小さい。

 それでも、皿の上の肉を誰かが食べれば、その誰かには100%だ。


「今日は売るのをやめた方がいい」


「冗談じゃないよ。仕入れにいくら払ったと思ってるんだい」


「捨てろとは言っていない。火を通し直せ。水桶を洗って、布を替えて、井戸水は煮沸しろ。肉を切る包丁も」


「そんな手間をかけてたら、客が逃げる」


「逃げた客は明日戻る。死んだ客は戻らない」


 言ってから、また言葉を選べなかったと思った。

 女将は怒るかと思ったが、意外にも怒鳴らなかった。

 代わりに、じっと俺を見た。


「あんた、嫌なことを言うね」


「よく言われる」


「それも嘘だろ」


「そうかもしれない」


 女将は深いため息をついた。

 それから、奥に向かって怒鳴った。


「トマ! 水桶をひっくり返しな! あと火を強くしとくれ!」


 店の奥から、少年の「ええっ」という声がした。

 女将は皿の肉をつまみ、俺の前でじろりと見た。


「これで何もなかったら、あんたに肉串を10本買ってもらうよ」


「今は2本分しか払えない」


「出世してからでいい」


「研究院を追放されたばかりだ」


「じゃあ、出世は先だね」


 女将はそう言って笑った。

 俺は少しだけ返事に困った。

 追放された、と口にした瞬間、思ったより胸の奥が重くなったからだ。

 研究院に未練がないわけではない。

 地下の湿った部屋も、書架の黴臭さも、徹夜明けの薄いスープも、好きだったわけではない。

 だが、あそこには記録があった。

 俺の数字を、誰も信じなくても、紙だけは受け止めてくれた。


「お兄さん?」


「何でもない」


 女将は、少しだけ声を柔らかくした。


「本当に研究院を追い出されたのかい」


「ああ」


「何をやらかしたんだい」


「王国が崩壊すると報告した」


 女将は串を落としかけた。


「……そりゃ追い出されるよ」


「俺もそう思う」


「でも、言わなきゃいけなかったんだろ」


 思わず、女将を見た。

 彼女は火の具合を見ながら、何でもないことのように言った。


「肉が傷んでるかもしれないって分かったら、売る前に言う。井戸が濁ってるなら、飲む前に言う。王国がどうとかは大きすぎて分からないけど、同じことじゃないのかい」


 俺は返事をしなかった。

 同じこと。

 そう言われると、少しだけ楽になった。


 研究院では、俺の報告はいつも大げさだと言われた。

 不安を煽るな。空気を読め。数字遊びはやめろ。机上の空論だ。

 だが、傷んだ肉を売る前に止めることと、崩壊しかけた王国に警告することが同じなら。

 俺は、そこまでおかしなことをしていたわけではないのかもしれない。


 リュカが俺の足首に体をこすりつけた。

 濡れた毛は冷たいはずなのに、不思議と温かかった。


「そういえば、あんたの名前を聞いてなかったね」


「ユリウス・レイン」


「私はマーサ。宿は赤い屋根の『眠り馬亭』にしな。安いし、主人が口下手だから、あんたとは気が合う」


「それは褒めているのか」


「半分はね」


 マーサは焼き直した肉を新しい皿にのせた。


「ほら、今度は大丈夫だろう?」


 リュカが匂いを嗅いだ。

 今度は、少しだけ食べた。

 マーサの顔がぱっと明るくなる。


「あら、食べた!」


「判定役か、お前は」


 リュカは知らん顔で、もう一切れ食べた。

 俺も肉串を受け取り、ようやく昼食にありついた。

 熱くて、少し焦げていて、塩気が強い。

 研究院の食堂より、ずっとましだった。


「ユリウス」


 マーサが、不意に真面目な声で呼んだ。


「南に行くなら、気をつけな。最近、リーベル村の方から来た商人が、妙に咳をしてた」


「いつだ」


「3日前だね。薬草をやたら買い込んでいった」


「年齢は」


「40くらい。痩せた男で、右手に火傷の跡があった」


 俺は手帳を出して書き留めた。

 リーベル村。

 薬草の買い込み。

 咳。

 3日前。

 火傷のある商人。

 数字が少し動いた。

 リーベル村、疫病発生率、72%から76%。

 俺は手帳を閉じた。


「ありがとな。助かった」


「礼なら、また肉串を買いに来な」


「生きていたらな」


「縁起でもないことを言うんじゃないよ」


「まあな。だが、全員その条件に当てはまるだろ」


「まったく。あんた、本当に嫌なことを言うね」


 マーサは呆れたように笑った。

 俺も少しだけ笑った。

 たぶん、追放されてから初めてだった。


 その日の夜、眠り馬亭の狭い部屋で、俺は床に広げた手帳を見つめていた。

 リュカはベッドの上を占領している。


「そこは俺の寝床だ」


 リュカは目を閉じたまま、尾だけを動かした。


「聞こえているな」


 反応はない。

 俺は諦めて、椅子にもたれた。

 窓の外では、雨がまた強くなっている。

 リーベル村の疫病発生率は、76%。

 村に到着するまで、早くて明日の昼。急いでも半日以上はかかる。

 発症から重症化まで、おそらく4日から7日。

 井戸水が原因なら、まだどうにかできる。

 人から人へ移り始めているなら、隔離が必要になる。


 俺は計算板に線を引いた。

 その瞬間、ふと指が止まった。

 数字の端が、かすかに滲んだ気がした。

 76。

 いや、78。

 違う。

 72。


「……何だ?」


 こんな揺れ方は、今までなかった。

 条件が変われば数字は変わる。情報が増えれば修正される。それは当然だ。

 だが今の数字は、情報ではなく、俺の視線に反応して揺れたように見えた。

 ベッドの上で、リュカが目を開けた。

 薄い金色の目が、暗い部屋の中で光っている。


「お前、何か知っているのか」


 リュカは答えない。

 ただ、音もなくベッドから降りると、俺の手帳の上に前足を置いた。

 ちょうど、リーベル村の名前を隠すように。


「行くな、という意味か」


 リュカは動かない。


「それとも、急げという意味か」


 やはり、動かない。

 言葉が通じないというのは、不便だ。

 だが、言葉が通じる人間がいつも正しいわけでもない。

 俺は手帳を閉じた。


「明日、夜明け前に出る」


 リュカの尾が、ゆっくりと揺れた。

 肯定なのか、不満なのかは分からない。

 俺は椅子に座ったまま、濡れた外套を見た。

 王立研究院の銀章は、もう胸にない。

 役職もない。

 予算もない。

 信じてくれる上司もいない。

 あるのは、少しの銀貨と、古い計算板と、誰にも信じられなかった数字だけだ。

 そして、白い獣が1匹。


「役立たずにしては、荷物が多いな」


 そう呟くと、リュカが俺の膝に飛び乗った。

 思ったより重い。


「……お前も荷物に含めるぞ」


 リュカは聞いていないふりをして、丸くなった。

 雨音の向こうで、宿場町の鐘が鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ