第2話 役立たずの統計士
王都を出て3時間ほど歩いたところで、雨はようやく細くなった。
街道の脇には、春先の草が濡れて光っている。馬車の轍には泥水がたまり、通るたびに靴の裾を汚した。
俺は外套の襟を立て、肩にかけた荷袋の位置を直した。
研究院にいた頃は、雨の日に長く歩くことなどほとんどなかった。地下室と資料庫と食堂を往復するだけで、一日の歩数は王都の猫より少なかったかもしれない。
その猫に似ているのか、狐に似ているのか分からない白い獣は、俺の横を平然と歩いていた。
リュカ、と呼ぶことにしたその獣は、泥を踏んでもほとんど汚れない。
「お前、どういう毛並みをしてるんだ」
リュカは俺を見上げた。
何を聞かれているのか分からない、という顔ではない。
分かっているが答える気はない、という顔だった。
「まあ、いい。答えられても困る」
そう言うと、リュカは耳を少し動かした。
街道には、人の気配が少ない。
建国祭前の王都へ向かう馬車なら何台も見たが、王都から離れていく者は少なかった。商人は王都へ品を運び、旅芸人は王都で稼ぎ、貴族は王都で顔を売る。
崩壊確率99.7%の都市へ、人は喜んで集まっていく。
それが悪いとは思わない。
人間は数字を見て生きているわけではない。雨が降れば濡れるし、腹が減れば食べるし、祭りがあれば浮かれる。
たぶん、その方が普通だ。
「俺は普通ではない、か」
声に出すと、思ったより惨めに聞こえた。
リュカが俺の靴先を前足で軽く叩いた。
「慰めているのか」
返事はない。
「違うか。歩くのが遅いと言いたいんだな」
今度は、リュカがふいと顔を背けた。
どうやら当たりらしい。
昼を少し過ぎた頃、小さな宿場町に着いた。
王都から半日ほどの距離にある、馬車の乗り換えと荷の積み替えで成り立っている町だ。通りには干し肉の匂いが漂い、馬小屋からは湿った藁の匂いがした。
俺はまず掲示板を見た。
旅人が宿を探す掲示板ではない。
町の死亡人数と、物価表と、荷馬車の遅延情報が貼られている方だ。
干し豆の価格が2割上がっている。
塩の搬入が三日遅れている。
昨日、荷馬車が1台、南の橋で車輪を折った。
熱病による死亡告知が、先月より2件多い。
まだ異常ではない。
「お兄さん、宿を探してるのかい」
声をかけてきたのは、肉串を焼いている女将だった。
丸い顔に、よく動く目。手は串を返しながら、こちらの荷物と靴と外套を順番に見ている。
職業柄、旅人の財布の厚みを見抜くのだろう。
「安いところを探している」
「安いなら、向こうの赤い屋根の宿だね。うちで肉串を2本買ってくれたら、紹介してやるよ」
「1本では?」
「2本だよ。雨の日は火を使うだけで損なんだ」
「理屈は分かる」
俺は銀貨を出しかけて、少し考えた。
手元には銀貨10枚。南部までの道中を考えると、無駄遣いはできない。
だが、朝から硬いパンしか食べていない。
死亡率以前に、空腹で判断力が落ちる。
「2本くれ」
「はいよ。そっちの白い子にもいるかい?」
女将がリュカを見て、目を細めた。
「ずいぶん綺麗な子だねえ。狐かい?」
「分からない」
「飼い主が分からないのかい」
「昨日から勝手についてきた」
「それはもう飼い主だよ」
俺は反論しようとしたが、リュカが当然のように俺の足元に座ったので、やめた。
女将は笑いながら、小さく切った肉を串から外して皿に置いた。
「ほら、白い子。熱いから気をつけな」
リュカは匂いを嗅いだ。
そして、食べなかった。
「おや、嫌いかい」
「贅沢なんだ」
俺が代わりに食べようとすると、リュカが俺の靴を噛んだ。
「何だ。俺にも食うなと?」
リュカは皿を見て、それから女将の後ろに積まれた薪の山を見た。
さらに、店の奥に置かれた水桶を見た。
俺は肉を持ったまま、少し黙った。
「女将。その肉は、いつ仕入れた」
「今朝だよ」
「どこの商人から?」
「南から来た荷馬車だね。何だい、味見もしないうちから文句かい」
「そうじゃない。保管場所を見せてもらえるか」
女将の顔から笑みが消えた。
「お兄さん、役人かい?」
「昨日までは王立研究院にいた」
「じゃあ、もっと嫌だね」
「だろうな」
俺は肉を皿に戻した。
「この町で、腹を壊した客はいるか」
女将の眉がぴくりと動いた。
人間は、隠したいことを聞かれたとき、答える前に顔がほんの少し動く。
「……2人くらいだよ。旅人なんて、道中で何を食べてるか分からないだろ」
「発熱は?」
「さあね」
「死亡告知に熱病が2件増えていた」
「掲示板まで見る旅人は嫌われるよ」
「よく言われる」
実際には、初めて言われた。
だが、言われても不思議ではない自覚はあった。
リュカが低く喉を鳴らした。
女将ではなく、店の奥を睨んでいる。
「女将、水桶を最後に洗ったのはいつだ」
「水桶?」
「そこに肉を冷やすための布がかかっている。井戸水で濡らしているな。井戸は町の南側か」
女将が黙った。
俺の頭の中で、数字が組み上がっていく。
南から来た荷馬車。
遅延した塩。
雨。
洗われていない水桶。
肉の保存。
腹痛と発熱。
この店の食中毒発生率、68%。
3日以内に重症者が出る確率、23%。
町全体への拡大率、12%。
王国崩壊に比べれば、小さい。
それでも、皿の上の肉を誰かが食べれば、その誰かには100%だ。
「今日は売るのをやめた方がいい」
「冗談じゃないよ。仕入れにいくら払ったと思ってるんだい」
「捨てろとは言っていない。火を通し直せ。水桶を洗って、布を替えて、井戸水は煮沸しろ。肉を切る包丁も」
「そんな手間をかけてたら、客が逃げる」
「逃げた客は明日戻る。死んだ客は戻らない」
言ってから、また言葉を選べなかったと思った。
女将は怒るかと思ったが、意外にも怒鳴らなかった。
代わりに、じっと俺を見た。
「あんた、嫌なことを言うね」
「よく言われる」
「それも嘘だろ」
「そうかもしれない」
女将は深いため息をついた。
それから、奥に向かって怒鳴った。
「トマ! 水桶をひっくり返しな! あと火を強くしとくれ!」
店の奥から、少年の「ええっ」という声がした。
女将は皿の肉をつまみ、俺の前でじろりと見た。
「これで何もなかったら、あんたに肉串を10本買ってもらうよ」
「今は2本分しか払えない」
「出世してからでいい」
「研究院を追放されたばかりだ」
「じゃあ、出世は先だね」
女将はそう言って笑った。
俺は少しだけ返事に困った。
追放された、と口にした瞬間、思ったより胸の奥が重くなったからだ。
研究院に未練がないわけではない。
地下の湿った部屋も、書架の黴臭さも、徹夜明けの薄いスープも、好きだったわけではない。
だが、あそこには記録があった。
俺の数字を、誰も信じなくても、紙だけは受け止めてくれた。
「お兄さん?」
「何でもない」
女将は、少しだけ声を柔らかくした。
「本当に研究院を追い出されたのかい」
「ああ」
「何をやらかしたんだい」
「王国が崩壊すると報告した」
女将は串を落としかけた。
「……そりゃ追い出されるよ」
「俺もそう思う」
「でも、言わなきゃいけなかったんだろ」
思わず、女将を見た。
彼女は火の具合を見ながら、何でもないことのように言った。
「肉が傷んでるかもしれないって分かったら、売る前に言う。井戸が濁ってるなら、飲む前に言う。王国がどうとかは大きすぎて分からないけど、同じことじゃないのかい」
俺は返事をしなかった。
同じこと。
そう言われると、少しだけ楽になった。
研究院では、俺の報告はいつも大げさだと言われた。
不安を煽るな。空気を読め。数字遊びはやめろ。机上の空論だ。
だが、傷んだ肉を売る前に止めることと、崩壊しかけた王国に警告することが同じなら。
俺は、そこまでおかしなことをしていたわけではないのかもしれない。
リュカが俺の足首に体をこすりつけた。
濡れた毛は冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
「そういえば、あんたの名前を聞いてなかったね」
「ユリウス・レイン」
「私はマーサ。宿は赤い屋根の『眠り馬亭』にしな。安いし、主人が口下手だから、あんたとは気が合う」
「それは褒めているのか」
「半分はね」
マーサは焼き直した肉を新しい皿にのせた。
「ほら、今度は大丈夫だろう?」
リュカが匂いを嗅いだ。
今度は、少しだけ食べた。
マーサの顔がぱっと明るくなる。
「あら、食べた!」
「判定役か、お前は」
リュカは知らん顔で、もう一切れ食べた。
俺も肉串を受け取り、ようやく昼食にありついた。
熱くて、少し焦げていて、塩気が強い。
研究院の食堂より、ずっとましだった。
「ユリウス」
マーサが、不意に真面目な声で呼んだ。
「南に行くなら、気をつけな。最近、リーベル村の方から来た商人が、妙に咳をしてた」
「いつだ」
「3日前だね。薬草をやたら買い込んでいった」
「年齢は」
「40くらい。痩せた男で、右手に火傷の跡があった」
俺は手帳を出して書き留めた。
リーベル村。
薬草の買い込み。
咳。
3日前。
火傷のある商人。
数字が少し動いた。
リーベル村、疫病発生率、72%から76%。
俺は手帳を閉じた。
「ありがとな。助かった」
「礼なら、また肉串を買いに来な」
「生きていたらな」
「縁起でもないことを言うんじゃないよ」
「まあな。だが、全員その条件に当てはまるだろ」
「まったく。あんた、本当に嫌なことを言うね」
マーサは呆れたように笑った。
俺も少しだけ笑った。
たぶん、追放されてから初めてだった。
その日の夜、眠り馬亭の狭い部屋で、俺は床に広げた手帳を見つめていた。
リュカはベッドの上を占領している。
「そこは俺の寝床だ」
リュカは目を閉じたまま、尾だけを動かした。
「聞こえているな」
反応はない。
俺は諦めて、椅子にもたれた。
窓の外では、雨がまた強くなっている。
リーベル村の疫病発生率は、76%。
村に到着するまで、早くて明日の昼。急いでも半日以上はかかる。
発症から重症化まで、おそらく4日から7日。
井戸水が原因なら、まだどうにかできる。
人から人へ移り始めているなら、隔離が必要になる。
俺は計算板に線を引いた。
その瞬間、ふと指が止まった。
数字の端が、かすかに滲んだ気がした。
76。
いや、78。
違う。
72。
「……何だ?」
こんな揺れ方は、今までなかった。
条件が変われば数字は変わる。情報が増えれば修正される。それは当然だ。
だが今の数字は、情報ではなく、俺の視線に反応して揺れたように見えた。
ベッドの上で、リュカが目を開けた。
薄い金色の目が、暗い部屋の中で光っている。
「お前、何か知っているのか」
リュカは答えない。
ただ、音もなくベッドから降りると、俺の手帳の上に前足を置いた。
ちょうど、リーベル村の名前を隠すように。
「行くな、という意味か」
リュカは動かない。
「それとも、急げという意味か」
やはり、動かない。
言葉が通じないというのは、不便だ。
だが、言葉が通じる人間がいつも正しいわけでもない。
俺は手帳を閉じた。
「明日、夜明け前に出る」
リュカの尾が、ゆっくりと揺れた。
肯定なのか、不満なのかは分からない。
俺は椅子に座ったまま、濡れた外套を見た。
王立研究院の銀章は、もう胸にない。
役職もない。
予算もない。
信じてくれる上司もいない。
あるのは、少しの銀貨と、古い計算板と、誰にも信じられなかった数字だけだ。
そして、白い獣が1匹。
「役立たずにしては、荷物が多いな」
そう呟くと、リュカが俺の膝に飛び乗った。
思ったより重い。
「……お前も荷物に含めるぞ」
リュカは聞いていないふりをして、丸くなった。
雨音の向こうで、宿場町の鐘が鳴った。




