第1話 王国崩壊確率99.7%
王国崩壊確率、99.7%。
朝一番に見えた数字がそれだったので、俺はしばらく報告書の表紙を見つめたまま動けなかった。
紙の上には、昨日までに集めた記録が並んでいる。
南部の降雨量。北方街道の通行量。王都の小麦価格。西の砦に配属された騎士の補充数。薬草の流通量。教会が発表した治癒魔法の実施件数。王立病院の死亡記録。
どれも、単体で見れば大した異常ではない。
小麦価格は少し上がったが、凶作と呼ぶほどではない。薬草の流通は滞っているが、戦時でもないのだから一時的な商人同士の争いかもしれない。王立病院の死亡者数も、冬明けにはよくある範囲だ。
だが、組み合わせると違う。
数字は嘘をつかない。
いや、正確には、人間よりは嘘が下手だ。
「……99.7%は、さすがに悪い冗談だろ」
俺は自分で書いた数字を指で叩いた。
紙が乾いた音を立てる。
冗談ならよかった。寝不足のせいで計算を誤ったのなら、なおよかった。俺は昨夜の計算板を引き寄せ、もう一度、線を引き直した。
疫病拡散率、46%。
王都食糧不足発生率、61%。
辺境反乱発生率、28%。
西方軍の補給断絶率、52%。
王立研究院の警告無視率、88%。
最後の数字を見て、俺はため息をついた。
「そこだけは、やけに信用できるな」
机の下から、小さな音がした。
かり、と床板を爪で掻くような音だ。
俺が覗き込むと、白い毛玉がこちらを見上げていた。
狐にも見えるし、猫にも見える。耳は少し大きく、尾は体のわりに長い。雪のように白い毛並みに、薄い金色の目。
昨日の夜、研究院の裏庭に落ちていた妙な獣だった。
「お前、まだいたのか」
白い獣は返事をしなかった。ただ、じっと俺を見ている。
「腹が減ったなら、食堂に行け。ここには硬いパンしかない」
そう言って、昨日の残りのパンを机から落とす。
白い獣は匂いを嗅いだだけで、食べなかった。
「贅沢だな。研究院の下級研究員より良いものを食ってるのか」
獣は、やはり返事をしない。
代わりに、俺の足元へ寄ってきて、報告書の端を前足で押さえた。
「それは食うな。俺の3日分の睡眠時間だ」
白い獣は紙を見ていた。
いや、紙ではない。
表紙に書いた数字を見ている。
王国崩壊確率、99.7%。
白い毛が、ふわりと逆立った。
「……お前にも、悪い数字に見えるか」
獣は小さく喉を鳴らした。
怯えているようにも、怒っているようにも聞こえた。
俺は報告書を閉じ、脇に抱えた。
「まあ、安心しろ。たぶん誰も信じない」
それが最も悪い冗談だった。
王立研究院の本棟は、今日も立派だった。
高い天井。磨き上げられた床。歴代院長の肖像画。魔術研究部の廊下には、今朝も見学の貴族たちが並んでいる。
災害記録部の部屋だけが、地下にあった。
湿気が多く、日当たりが悪く、たまに書架の裏で鼠が死ぬ。王国中の死亡記録を扱う部署としては、妙に似合っている。
「レイン君、院長がお呼びだ」
階段を上がったところで、同僚のミナが声をかけてきた。
彼女は俺の抱えた報告書を見て、眉を寄せる。
「また出すの?」
「そのつもりだ」
「今度は何パーセント?」
「王国崩壊確率、99.7%」
ミナは数秒黙った。
それから、気の毒そうな顔をした。
「ユリウス、今日はやめた方がいいと思う」
「なんでだ」
「昨日、魔術研究部が新しい防壁術式を発表したばかりなの。院長は機嫌がいい。そういう日に、あなたが王国は崩壊しますなんて言ったら、たぶん燃やされる」
「俺が?」
「報告書が」
「なら書き直せばいい」
「そういうところよ」
ミナは小さくため息をついた。
彼女は悪い人間ではない。むしろ災害記録部の中では、数少ないまともな人間だ。俺の報告書も、全部は信じないが、全部を笑うこともしない。
「ねえ、本当に99.7%なの?」
「このまま何もしなければ、だ」
「何をすれば下がるの?」
「王都の薬草流通を王権で一時管理する。南部の井戸水を調査する。西方軍の補給路を北回りに変える。研究院は魔術防壁より疫病対策に予算を回す。あと、教会の治癒魔法実施記録を実数で出させる」
「……多いわね」
「崩壊確率を下げるには少ないくらいだ」
「院長が聞いたら怒るわよ」
「怒っても死亡率は下がらない」
ミナは今度こそ黙った。
少し困ったように俺を見て、それから足元に目を落とす。
「ところで、その子は?」
白い獣が、いつの間にか俺の靴の横にいた。
研究院の廊下を当然のように歩いている。
「知らん」
「知らんって」
「昨日からいる」
「飼うの?」
「俺が?」
「他に誰がいるの」
白い獣はミナを見上げた。
ミナがしゃがみ、そっと手を伸ばす。
「おいで」
白い獣は、一歩下がった。
「あ、嫌われた」
「見る目がある奴だ」
「あなたね」
ミナが睨む。俺は肩をすくめた。
白い獣は俺の足に体を寄せ、また報告書を見上げた。
「変な子。まるでその紙が怖いみたい」
「99.7%は、だいたい誰でも怖い」
「あなた以外はね」
「俺も怖いが」
ミナは少し驚いた顔をした。
「そうなの?」
「怖くなければ、報告書など書かない」
言ってから、少し余計だったと思った。
ミナは何か言いかけたが、その前に院長室の扉が開いた。
中から、オスカー・ヴェルナー上級研究員が出てくる。
灰色の髪をきっちり撫でつけ、胸元には魔術研究部の銀章が光っている。災害記録部の人間ではないが、院長の覚えがよく、研究院全体の予算配分にも口を出す男だ。
「ユリウス・レイン」
彼は俺の名を呼び、手元の報告書に視線を落とした。
「また数字遊びか」
「報告です」
「同じことだ。君の紙束は、いつも王国を滅ぼしたがる」
「俺が滅ぼそうとしているわけではありません」
「口答えはいい。入れ」
院長室には、3人いた。
院長、オスカー、そして王太子府から来たという文官だ。窓際には、新しい魔術防壁の模型が飾られている。青白い光が小さな城壁の形を作り、部屋の中を無駄に明るくしていた。
俺は報告書を差し出した。
「王都および周辺領の複合災害発生予測です。早急に対策を取る必要があります」
院長は表紙を見た。
そして、最初の一行だけで顔をしかめた。
「王国崩壊確率、99.7%……?」
文官が噴き出した。
「失礼。いや、これはまた、大きく出ましたな」
オスカーは笑わなかった。
その代わり、心底うんざりした顔をした。
「レイン君。何度言えば分かる。王国は数字で動いているのではない。騎士が守り、魔術師が支え、神が導いている」
「騎士も魔術師も神殿も、食糧と水と薬草がなければ機能しません」
「理屈だけなら子供でも言える」
「理屈を無視すれば大人でも死にます」
空気が冷えた。
ミナがここにいなくてよかった、と思った。いたら今ごろ頭を抱えている。
院長は報告書を数枚めくった。
「南部の井戸水、北方街道の通行量、薬草流通……。レイン君、君はまた、些細な記録を無理やり結びつけているだけではないのかね」
「些細な記録が同時に同じ方向を向くと、災害になります」
「それが机上の空論だと言っているのだ」
文官が頷いた。
「王太子殿下は、来月の建国祭に向けて王都の士気を高めたいとお考えです。この時期に、崩壊だの疫病だのと騒がれては困る」
「疫病は建国祭を避けてくれません」
「君は本当に、言葉を選ばないな」
オスカーが静かに言った。
彼は机の上の報告書を取り上げると、ぱらぱらとめくった。
「魔術防壁への予算を削減し、薬草と井戸の調査に回せ、か。君は、王国最高の魔術師たちより、自分の計算を信じろと言うのか」
「その通りです」
部屋が静まり返った。
白い獣が、俺の足元で低く身を伏せた。
オスカーの視線が、初めて白い獣に向く。
「その獣は何だ」
「分かりません」
「研究院に野良を入れるな」
「勝手についてきました」
「君に似ているな。役に立たないくせに、居座る」
白い獣の毛が逆立った。
俺は無意識に、足を少し前に出した。
オスカーはそれを見て、薄く笑った。
「ユリウス・レイン。君は本日付で災害記録部の統計士を解任する」
院長が目を閉じた。
文官は驚いたふりもしなかった。
どうやら、最初からそういう話だったらしい。
「理由を伺っても?」
「研究院の秩序を乱し、不確かな予測で王国に不安を広げた。十分だろう」
「報告書は?」
「却下する」
「読まずに?」
「読む価値がない」
オスカーは、俺の報告書を閉じた。
その表紙に書かれた99.7という数字が、部屋の光を受けてやけに白く見えた。
「君は数字を信じすぎた。王国に必要なのは、神託と剣と魔術だ。確率ではない」
「確率を見ない者から死にます」
「最後までそれか」
オスカーは報告書を俺に投げ返した。
紙束が胸に当たり、床に数枚散った。
「出て行け。役立たずの統計士」
その言葉に、怒りは湧かなかった。
不思議なほど、何も感じなかった。
ただ、視界の端に墨を落としたような黒い数字が浮かんだ。
俺には紙面上だけでなく、目の前の視界に黒い数字が重なって見えていた。
王立研究院、30日以内の機能不全発生率、87%。
王都、60日以内の大規模混乱発生率、74%。
オスカー・ヴェルナー、1年以内の後悔発生率、92%。
最後の数字だけ、妙に具体的で、少しだけ笑いそうになった。
「何がおかしい」
「いえ」
俺は床に落ちた紙を拾い集めた。
「では、失礼します」
「待て」
オスカーが言った。
「その報告書は置いていけ。研究院の資料だ」
「却下された紙束では?」
「記録は研究院の所有物だ」
「俺が3日寝ずに書いたものです」
「君の雇用契約上、研究成果は研究院に帰属する」
俺は少し考えた。
それから、報告書の束から表紙だけを抜き、残りを机に置いた。
「表紙は私物です」
「まだ言うのか」
「裏に食堂の未払い表を書いてあります」
院長が小さく咳き込んだ。
文官が顔をそらす。
オスカーは怒鳴りそうな顔をしたが、俺はもう一礼して扉へ向かった。
白い獣が、足元をついてくる。
扉を閉める直前、オスカーの声が聞こえた。
「君のような男がいなくても、王国は何一つ困らん」
その瞬間、白い獣が振り返った。
薄い金色の目が、院長室の奥を見据える。
そして、小さく震えた。
俺には、数字が見えていた。黒い確率が目の前の景色に薄く重なってくるのだ。
王国崩壊確率、99.7%。
だが、白い獣が何を見ていたのかは、まだ分からなかった。
研究院を出る頃には、雨が降り始めていた。
荷物は少なかった。
着替えが2組。古い計算板。記録用の手帳。硬いパン。退職金代わりに渡された銀貨が10枚。
門番は俺を見ると、気まずそうに目をそらした。
「レイン殿、その……」
「門の修繕は早めにした方がいい」
「え?」
「右の蝶番が3日以内に外れる。たぶん誰かの頭に当たる」
「最後までそれですか」
「当たると痛いからな」
門番は困ったように笑った。
「気をつけます」
「そうしてくれ」
俺は門を出た。
白い獣も一緒に出た。
「お前は残ってもいいんだぞ」
白い獣は俺を見上げた。
それから、前足で俺の靴を踏んだ。
「……分かった。来るなら勝手にしろ」
雨の中、王都の通りを歩く。
建国祭を控えた街は、色とりどりの布で飾られていた。露店では焼き菓子が売られ、子供たちが旗を振っている。誰も、王国が崩壊しかけているとは思っていない。
思わなくていいのかもしれない。
人は、毎朝あらゆる確率を見ながら生きているわけではない。
その方が、きっと健康だ。
城壁の門をくぐる直前、白い獣が立ち止まった。
王都の方を振り返り、全身の毛を逆立てる。
「どうした」
獣は鳴かなかった。
ただ、王都を見ていた。
雨に濡れた白い毛が、小さく震えている。
俺はその視線を追った。
立派な城壁。王宮の尖塔。研究院の青い屋根。建国祭の旗。
どこも、昨日と変わらない。
だが、俺の目には数字が浮かんでいた。
王都中心部、60日以内の死亡率上昇、79%。
王立研究院、30日以内の機能不全発生率、87%。
白い獣は、俺の外套の裾を噛んだ。
戻るな、と言っているように見えた。
「分かってる。戻らない」
獣はまだ離さない。
「……今は、な」
その言葉で、ようやく裾を離した。
俺は王都に背を向けた。
行くあてはない。
ただ、手帳の中には、ひとつ気になる記録があった。
南部辺境、リーベル村。
井戸水の濁り。薬草の買い占め。子供の発熱。魔獣の移動経路。
疫病発生率、72%。
王国崩壊に比べれば、小さな数字だ。
けれど、72%の向こうにも、人はいる。
「まずは南だ」
白い獣が、俺の横に並んだ。
「名前がないと不便だな。お前、何か希望はあるか」
当然、返事はない。
「白いからシロ、は安直すぎるか」
白い獣は俺を見た。
明らかに嫌そうだった。
「分かった。今のは忘れろ」
雨の街道を歩きながら、俺はしばらく考えた。
「リュカ」
口に出すと、獣の耳がぴくりと動いた。
「昔読んだ本に出てきた、雪明かりの意味の古語だ。正しい発音かは知らん」
白い獣は、少しだけ俺の方へ寄った。
「嫌ではないらしいな」
リュカは返事をしない。
ただ、雨の中、俺の隣を歩いていた。
その小さな足跡が、泥の上に続いていく。
俺はまだ知らなかった。
その獣が、ただの獣ではないことも。
俺が見ている数字が、ただの推測ではないことも。
そして、王国を救うために、いつか自分の名前さえ手放すことになることも。
このときの俺は、何も知らなかった。
ただ、雨に煙る南の街道を見て、こう思っていた。
72%なら、まだ間に合う。




