第31話 数字ではなく、世界を
王都を出たのは、建国祭から12日後の朝だった。
予定よりも遅くなった。
報告書は増えた。
王宮地下祭祀場の調査記録。
王都封鎖計画の経過報告。
治癒院の外部記録。
神託祈祷停止に関する証言。
ベルグラン大司教の尋問記録。
王立研究院に残された過去の災害記録。
書いても書いても、終わらなかった。
それでも、終わりは必要だった。
どこかで筆を置かなければ、俺はまた同じことを始める。
すべての危険を見つけ、すべての手順を作り、すべての失敗を防ごうとする。
数字が見えなくなっても、その癖は残っていた。
むしろ、見えないからこそ不安になる。
見えないものを埋めるように、紙を増やしたくなる。
そんな俺を止めたのは、ミナだった。
「ここまで」
彼女は俺の前に積まれた紙束の上に、両手を置いた。
「まだ治癒院の洗濯記録が」
「私が見る」
「王太子府の反応も」
「王女殿下が見る」
「研究院の過去記録は」
「災害記録部で保管する」
「祭祀場の水路は」
「ラウル副隊長が封鎖した」
「ベルグランが」
「拘束中」
「教会が」
「うるさい。でも、それはあなたが1人でどうにかする話じゃない」
ミナは一息に言った。
俺は言い返せなかった。
リュカが机の上で、俺のペンを前足で押さえていたからだ。
白い獣は、最近よくそうする。
書きすぎるとペンを押さえる。
立ち上がろうとすると外套を噛む。
水を飲まないと水差しの前に座る。
災厄探知獣というより、休憩管理獣だ。
そう言うと、リュカに手首を噛まれた。
たぶん、不満だったのだろう。
王女エレオノーラも、俺が王都を出ることを止めなかった。
「本当は、もう少し残っていただきたい気持ちはあります」
王宮の小さな応接室で、彼女はそう言った。
「しかし、それは私の都合です。あなたは、ここで使い潰されるべき人ではない」
「役に立つかどうかも分からない」
「役に立つ人ほど、そう言って残ろうとします」
「俺は、もう数字が見えない」
「だからこそ、残すのは危険だと思っています」
その言葉に、俺は少し驚いた。
王女は窓の外を見た。
王宮の庭では、使用人たちが建国祭の飾りを片づけていた。
「数字が見えていたあなたを、人は利用しようとしました。数字が見えなくなったあなたを、今度は英雄として利用しようとするかもしれません」
「英雄ではない」
「ええ。そう言うと思いました」
王女は少しだけ笑った。
「ですが、民は物語を求めます。追放された統計士が王都を救った。白い獣とともに神託を止めた。そういう話は、広まりやすい」
「それは困る」
「でしょうね」
「止めてくれ」
「努力します。ただし、全部は止められません」
それは、たぶん正直な答えだった。
王都には、すでに噂が流れている。
未来を見た統計士。
神託を砕いた賢者。
白い聖獣の主。
どれも違う。
違うが、完全な嘘でもないところが厄介だった。
「リュカは、聖獣ではないと思うぞ」
俺が言うと、リュカは足元で顔を上げた。
「では、何ですか」
王女が聞く。
俺は少し考えた。
災厄探知獣。
古代記録に出てくる白い小獣。
未来を固定する祭壇を嫌うもの。
嘘を嫌い、危険な線を嗅ぎ、俺の足を踏むもの。
「面倒な同行者だな」
リュカが俺の靴を踏んだ。
王女が笑った。
「たぶん、その表現が一番近いのでしょう」
王都を出る朝、ミナが見送りに来た。
手には新しい手帳を持っていた。
「これ、持っていって」
「もう十分書いた」
「そうじゃなくて、これから書くの」
「何を」
「見えない世界の記録」
ミナは手帳を俺に押しつけた。
表紙は薄い茶色で、角が補強されている。
災害記録部で使う丈夫な手帳だ。
「数字が見えないなら、普通に観察して書けばいい。天気とか、水の味とか、リュカが何に怒ったかとか」
「最後の項目は多すぎる」
「なら、厳選して」
ミナは少し笑った。
それから、急に真面目な顔になった。
「忘れたくないことがあったら、すぐ書いて」
「ああ」
「忘れても、また聞けばいい。私も、セラさんも、村の人たちも、たぶん覚えてる」
「たぶん?」
「人の記憶も、そこまで信用しすぎない方がいいでしょ」
ミナらしい言い方だった。
俺は手帳を受け取った。
「ありがとな」
「たまには手紙を書いて。字は読めるように」
「努力する」
「努力じゃなくて、読めるように」
どこかで聞いたような言い方だった。
倒れるな、と言った誰か。
ギルだったか。
記憶の奥で、文句ばかり言う男の顔が少し鮮明になった。
俺は少し笑った。
「分かった。読めるように書く」
ミナは満足そうに頷いた。
王女は、王宮の門まで見送ってくれた。
イリスも一緒だった。
ラウルは南門の整理を続けているため、手紙だけを寄越した。
内容は短かった。
生きて戻ったら、次は現場で倒れる前に座れ。
それだけだった。
簡潔で、とても分かりやすい。
トビアスは、研究院へ戻ったらしい。
彼からも手紙が来た。
ヴェルナー様は降格処分となり、自分の部下になりました。不満ばかり言って困っていましたが、災害記録部の写しをひたすら書かせていたら、おとなしくなりました。
俺はそれを読んで、しばらく考えた。
トビアスは、思ったより強くなったのかもしれない。
リュカはその手紙を踏まなかった。
つまり、悪くないのだろう。
王都の南門を出る時、水場にはまだ色布が巻かれていた。
飲用は青。
洗浄用は白。
馬用は赤。
見張りの門番が、桶を間違えた旅人に注意している。
商人たちは文句を言いながらも、列を守っていた。
完璧ではない。
それでいい。
完璧ではなくても、続けられる仕組みの方が役に立つ。
南門を出ると、王都の喧騒が少し遠ざかった。
道の先には宿場町があり、さらに南へ行けばリーベル村がある。
俺は馬には乗らず、荷馬車に同乗した。
まだ長く歩けるほど体力が戻っていない。
荷馬車の御者は、宿場町のマーサが手配してくれた男だった。
途中で彼は何度も、王都で何があったのか聞きたそうな顔をした。
だが、リュカが荷台の端に座ってじっと見ていたせいか、最後まで聞かなかった。
ありがたかった。
街道は、来た時と同じ道だった。
だが、見え方はまったく違った。
以前は、すべてに数字が浮かんでいた気がする。
川の増水率。
荷馬車の事故率。
旅人の発熱率。
村の食糧不足率。
何を見ても、まず危険が見えた。
今は違う。
川はただ流れている。
荷馬車は軋みながら進んでいる。
旅人は疲れた顔で歩いている。
畑の麦は、風に揺れている。
数字はない。
だから、何も分からない。
そう思った。
だが、しばらく見ていると、別のものが見えた。
川岸に咲く小さな花。
荷馬車の車輪についた泥。
旅人の靴底の擦り切れ。
麦の穂に残る朝露。
以前なら、そこから危険を読むための材料にしたかもしれない。
今は、ただそれとして見ている。
それだけでいいのかもしれない。
俺はミナからもらった手帳を開いた。
最初のページに、日付を書こうとして手が止まる。
今日が何日か、少し曖昧だった。
御者に聞くと、彼はすぐに教えてくれた。
俺はそれを書いた。
その下に、今日見たものを書いた。
川は思ったより静か。
南の畑に白い花。
リュカ、干し肉を盗もうとした。
書いた瞬間、リュカが荷台の上で顔を上げた。
「事実だ」
リュカは知らん顔をした。
「嘘ではない」
リュカはそっぽを向いた。
たぶん、事実でも書かれたくないことはあるらしい。
俺は久しぶりに声を出して笑った。
笑うと、頭が少し痛んだ。
だが、悪くない痛みだった。
夕方、宿場町に着いた。
マーサの店は、前より少し静かだった。
水桶は店の外に2つ並び、片方には青い布、もう片方には白い布が巻かれている。
王都より先に、ここではもう習慣になりつつあるらしい。
マーサは俺を見るなり、手を腰に当てた。
「生きてたかい、統計士さん」
「一応」
「一応で帰ってくるんじゃないよ」
「努力する」
「努力じゃなくて、ちゃんと食べな」
そう言って、彼女は粥と肉の入った器を出した。
粥。
その言葉で、ニナの顔が浮かんだ。
今度は少しはっきりと。
小さな手。
リュカの尾を握る指。
ふわふわ、と言った声。
俺は器を受け取った。
「感謝する」
「礼はいいから食べな」
マーサはリュカにも小さな干し肉を出した。
リュカは当然のように食べた。
「お前、さっき盗もうとしただろ」
リュカは無視した。
マーサが笑う。
「相変わらず賢い獣だね」
「面倒な獣です」
リュカが俺の靴を踏んだ。
宿場町の夜は早かった。
王都ほど明るくない。
窓の外には、少し欠けた月が出ていた。
俺は寝台の横で手帳を開く。
今日の終わりに、もう1行だけ書いた。
数字は見えない。
でも、世界は見える。
書いてから、少し大げさだと思った。
消そうか迷っていると、リュカが紙の上に前足を置いた。
消すな、ということらしい。
「読めるのか」
リュカは答えない。
ただ、紙の上に座り込んだ。
邪魔だった。
だが、悪くなかった。
翌朝、俺たちはリーベル村へ向かった。
道は緩やかに南へ下っていく。
遠くに、村の屋根が見えた。
井戸のある広場。
麦倉。
水路。
東の空き家。
北の納屋。
思い出せる。
全部ではない。
だが、思い出せる。
荷馬車が村へ近づくと、最初に子供の声が聞こえた。
「あ、リュカだ!」
リュカの耳が動く。
白い獣は荷台から飛び降り、村の方へ走り出した。
「待て」
もちろん、待たない。
俺は荷馬車から降りた。
足元が少しふらつく。
だが、立てる。
村の入口に、数人の姿が見えた。
ギル。
村長。
ミア。
ニナ。
そして、セラ。
薬草の籠を抱えて、こちらを見ている。
彼女の顔を見た瞬間、抜け落ちていたページの一部が戻るような感覚があった。
全部ではない。
それでも、十分だった。
セラはゆっくり歩いてきた。
何かを言おうとして、少し迷った顔をした。
俺も、何と言えばいいのか分からなかった。
迷っていると、リュカがセラの足元から俺を見た。
また面倒そうな目をしている。
言え。
たぶん、そういう目だ。
俺は息を吸った。
「ただいま」
セラは少しだけ笑った。
「お帰りなさい」
その言葉を聞いた瞬間、未来の数字は見えなかった。
死亡率も、崩壊確率も、成功率もない。
ただ、村の風が吹いていた。
薬草の匂いがして、遠くで水路の音がした。
俺は、それでいいと思った。




