第30話 普通に生きるということ
王都の建国祭は、中止にはならなかった。
ただし、予定されていた形ではなかった。
王宮前広場への入場は制限され、観覧席の半分は空席になった。露店は間隔を空けられ、水場には見張りが立ち、飲用と洗浄用の桶には色の違う布が巻かれた。
貴族の一部は不満を口にした。
商人の一部は損をしたと怒った。
教会は、神託祈祷の延期について沈黙した。
王太子府は、祭礼の格式を損なわぬ範囲での一時的措置である、と発表した。
だが、王都の人々はそれほど気にしなかった。
祭りが少し小さくなったことより、昨日まで隣で働いていた職人が熱を出して倒れたことの方が、ずっと近い問題だったからだ。
人は、王国よりも今日の水を先に見る。
それは、たぶん悪いことではない。
祭壇が止まってから5日目の朝、俺は王宮の客室で報告書を書いていた。
いや、書かされていた、という方が近いかもしれない。
目の前には紙の山がある。
王宮地下祭祀場の構造。
水路と祭壇の関係。
観測針の役割。
神託祈祷による人流集中の危険性。
王都封鎖計画の初動記録。
治癒院外部調査の結果。
これらを、忘れる前に書く。
そう言ったのはミナだった。
実際、少しずつ忘れていた。
完全に消えるわけではない。
だが、出来事の順番が曖昧になる。
誰がどの時点で何を言ったのか、どの数字を見てどの判断をしたのか、線がほどけていく。
記録しなければ、いつか断片だけになる。
だから、書く。
数字はもう見えない。
だが、紙に数字を書くことはできる。
「そこ、違う」
ミナが横から言った。
「どこが」
「神託祈祷完了率が下がったのは、水路のレバーが半分まで下がったあと。観測針が折れたあとは、祭壇停止率じゃなくて崩壊確率の方が大きく下がったって言ってた」
「俺が?」
「あなたが」
「よく覚えているな」
「ユリウスが忘れるなら、私が覚えてる」
ミナはそう言って、俺の書いた一文を赤いインクで直した。
彼女の字は読みやすい。
俺の字は、相変わらず少し傾いている。
「字が汚い」
「読める」
「後世の研究者が泣くわよ」
「後世に残すつもりなのか」
「残すわよ。残さなかったから、こうなったんでしょう」
それは正しい。
神託として隠されてきたものを、記録として残す。
それが、俺たちにできる後始末だった。
王宮地下の祭祀場は、現在封鎖されている。
国王の命令で近衛兵が立ち、王女宮と災害記録部の許可なしには誰も入れない。ベルグラン大司教は拘束されたが、教会は大司教個人の逸脱だと言い張っている。
王太子リシャールは表立って反対しなくなった。
だが、納得したわけではないらしい。
王女エレオノーラは、そのことを「一番面倒な状態です」と言った。
分かる気がした。
怒っている人間は見える。
黙っている人間は見えにくい。
昔なら、そこにも数字が浮かんだのかもしれない。
今は浮かばない。
王太子の反発率も、教会の再起率も、王都の再混乱率も、何も見えない。
ただ、ミナが集めた記録と、ラウルが送ってくる現場報告と、王女が読み解く政治の動きがある。
それを見て考えるしかない。
普通の人間のように。
「疲れた?」
ミナが聞いた。
「ああ」
「珍しく素直」
「リュカがいる」
そう言うと、机の下で丸くなっていたリュカが耳を動かした。
白い獣は、最近あまり怒らない。
その代わり、俺が大丈夫だと言うと、じっと見るようになった。
数字が見えなくても、嘘をつくとリュカには分かるらしい。
俺は水を飲んだ。
水差しの水は、ただの水だった。
飲用可否も、汚染率も、何も浮かばない。
だから、ミナが煮沸済みと書いた布を巻いてくれた。
見えないなら、印をつければいい。
リーベル村でやったことと同じだ。
自分で思いついたのか、誰かに教わったのか、そこは少し曖昧だった。
昼過ぎ、王女が客室を訪れた。
イリスを連れている。
王女はここ数日で少し痩せたように見えた。だが、背筋は変わらない。
「具合はいかがですか」
「報告書に殺されそうだ」
目を覚ました後、王女から口調を崩してよいと言われた。
なんとなく、この方がしっくり来た。
「それは困ります。まだ3冊ほど必要です」
「王族は人使いが荒い」
「王国を救った方には、それなりの後始末をお願いしなければ」
王女は淡々と言った。
冗談なのか本気なのか分かりづらい。
たぶん両方だ。
イリスが一通の手紙を差し出した。
「リーベル村からです」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少し強く鳴った。
俺は手紙を受け取った。
封は簡素だった。
だが、丁寧に閉じられている。
差出人の名は、セラ。
文字を見ただけで、どこか痛くなった。
俺は封を切った。
手紙は長くなかった。
ユリウスへ。
生きていると聞きました。
まず、それだけで十分です。
リーベル村は落ち着いています。井戸はまだ使っていません。水路はギルたちが直しています。麦倉の青い札の袋は、半分以上乾きました。ニナはもう少しだけ粥を嫌がる元気が出ました。ロイも歩けるようになりました。
ギルは、あなたがいないと文句を言う相手が減ってつまらないそうです。
村長は、麦倉の点検表が細かすぎると言いながら、毎朝見ています。
リュカはちゃんと食べていますか。
あなたは、ちゃんと休んでいますか。
王都で何があったのか、詳しくは分かりません。ただ、あなたが何か大変なことをしたのだろうとは思っています。
もし、数字が見えなくなったとしても、あなたが見ていたもの全部が無駄になるわけではありません。
たぶん、あなたは数字が見える前から、嫌なことに気づく人だったのだと思います。
でも、嫌なことばかり見なくてもいいです。
村の水路も、麦倉も、発熱者の表も、みんなで見られるようになりました。
だから、あなたが全部を見る必要はありません。
戻ってきてもいいです。
戻ってこなくても、ちゃんと生きてください。
でも、戻ってくるなら、できればリュカも一緒に。
セラ。
最後の行の下に、小さな追伸があった。
追伸。
水分をとってください。
俺はしばらく、手紙を見ていた。
文字が少し滲んだ。
涙かと思ったが、違うと言いたかった。
たぶん違わない。
リュカが椅子に飛び乗り、手紙を覗き込んだ。
「お前の食事の心配もされているぞ」
リュカは当然のような顔をした。
「ちゃんと食べているか」
リュカは俺を見た。
お前が言うな、という顔だった。
「いい手紙ね」
「ああ」
「返事を書く?」
「書く」
「今?」
「今」
「休みながらね」
リュカが俺の手首を踏んだ。
「休みながら書く」
王女が静かに言った。
「リーベル村へ戻るのですか」
俺は手紙をたたんだ。
すぐには答えられなかった。
王都にはまだ仕事がある。
報告書。
祭壇の調査。
治癒院の記録。
教会の責任。
王太子府との調整。
研究院の再編。
数え上げればきりがない。
以前の俺なら、全部やらなければならないと思っただろう。
今も、そう思いそうになる。
だが、数字は見えない。
未来も見えない。
なら、全部を自分が抱える理由も見えない。
「戻りたいとは思う」
俺は答えた。
「ただ、今すぐ全部を投げ出すわけにはいかない」
「もちろんです」
「報告書を書き終える。祭壇の再起動を防ぐ手順を残す。王都封鎖計画の記録をミナに渡す。治癒院の外部調査を引き継ぐ」
「それで?」
「それで、王都を出る」
言った瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
王女は驚かなかった。
むしろ、少し安心したようにも見えた。
「王女宮に残っていただく案もありました」
「断る」
「早いですね」
「王宮は、数字がなくても息苦しい」
王女は微かに笑った。
「否定しません」
「研究院にも戻らない」
「それも予想していました」
ミナが少し寂しそうな顔をした。
「災害記録部には、たまに来て。あなたの字は汚いけど、視点は使えるから」
「褒めているのか」
「半分は」
その言い方に、どこか懐かしさを感じた。
誰かも同じように言った気がする。
セラだったか。
それとも別の誰かだったか。
記憶はまだところどころ穴だらけだ。
でも、懐かしいという感覚は残っている。
それなら、まだ辿れるかもしれない。
俺はセラへの返事を書いた。
セラへ。
生きている。
リュカも生きているし、よく食べている。人の手紙の上に乗るくらいには元気だ。
王都はまだ落ち着いたとは言えないが、最悪の線からは少し外れたようだ。
俺は数字が見えなくなった。
記憶も少し欠けている。
けれど、リーベル村のことは覚えている。
井戸の縄、麦倉の札、ニナの粥、ギルの文句、村長の杖、薬草の匂い。
全部ではないかもしれないが、残っている。
王都で必要な記録を書き終えたら、戻る。
たぶん、以前のようには役には立たない。
数字も見えない。
ただ、桶の色を間違えないくらいはできるだろう。
水分はとっている。
ユリウス。
書き終えると、リュカが紙の端を前足で押さえた。
「読めるか」
リュカは当然のような顔をしている。
「なら、確認してくれ」
リュカは文字を読めるはずがない。
だが、しばらく紙を見てから、俺の手を軽く踏んだ。
悪くない、ということにしておく。
ミナが封を用意してくれた。
イリスが、リーベル村へ最短で届ける使いを手配すると言った。
王女は窓の外を見ている。
縮小された建国祭の音が、遠くから聞こえた。
明るすぎない音楽。
人の声。
水桶を運ぶ車輪の音。
王都はまだ傷んでいる。
それでも、完全には崩れなかった。
俺は窓辺へ行った。
リュカが足元についてくる。
王都の屋根が朝の光を受けている。
そこにはもう、数字は浮かばない。
危険率も、死亡率も、崩壊確率も。
ただ、人がいる。
水を汲む人。
店を開ける人。
咳をしている人。
笑っている人。
怒っている人。
歩いている人。
それだけだった。
それだけなのに、以前よりも多く見えている気がした。
普通に生きるということは、未来が見えないまま、それでも今日の支度をすることなのかもしれない。
俺はまだ、それが得意ではない。
だが、少しずつ覚えればいい。
リュカが俺の靴に体を寄せた。
踏まない。
ただ、そこにいる。
「リーベル村に戻ったら、まず何をするべきだろうな」
リュカは答えない。
白い尾だけが、ゆっくり揺れた。




