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“役立たずの統計士”と追放された俺、死亡率が見える能力で王国崩壊を回避していたら、白い聖獣に懐かれました  作者: くるみ


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第29話 数字のない朝

 目を開けると、白い天井が見えた。


 しばらく、それが天井だと分からなかった。

 白い面。

 薄い影。

 窓から差し込む朝の光。

 どこかで鳥が鳴いている。

 それだけが、ぼんやりと分かった。

 俺は息を吸った。

 薬草の匂いがする。

 水を煮たような匂いもする。

 古い石の冷たさではなく、干した布の匂いがした。


 地下ではない。

 それだけで、少し安心した。

 安心した理由は、すぐには思い出せなかった。

 体を起こそうとすると、胸の上に重みがあった。

 白い毛。

 丸くなった小さな獣。


 リュカ。

 名前は、自然に浮かんだ。

 それだけは、忘れていなかった。


「重い」


 声が出た。

 かすれていた。

 リュカの耳がぴくりと動く。

 次の瞬間、白い獣は顔を上げ、俺を見た。

 薄い金色の目が、大きく開かれる。

 そして、俺の胸元に前足を押しつけた。

 痛い。


「起きたばかりの病人にすることじゃない」


 そう言うと、リュカは俺の手首を噛んだ。

 強くはない。

 だが、明らかに怒っている。


「悪かった」


 何が悪かったのか分からないまま、そう言った。

 リュカは噛むのをやめなかった。


「……たぶん、かなり悪かった」


 ようやく離した。

 扱い方は覚えているらしい。

 俺は少しだけ笑おうとして、頭の奥に鈍い痛みを感じた。

 何かをした。

 何かを壊した。

 銀の針。

 黒い光。

 水の音。

 王国崩壊確率。

 そこまで思い出したところで、胸の奥が冷えた。

 俺は反射的に視界の端を探した。

 数字を。

 だが、何も浮かばなかった。


 天井を見る。

 数字はない。

 窓を見る。

 数字はない。

 机の上の水差しを見る。

 水質、汚染率、飲用可否。

 いつもなら、何かが見えたはずだった。

 だが、何もない。

 ただの水差しがあるだけだった。

 俺はゆっくり手を伸ばし、リュカを見た。

 リュカの上にも、何も浮かばない。

 死亡率も、危険度も、不明の文字すらない。

 白い獣が、白い獣として見える。

 それだけだった。


「消えたのか」


 小さく呟く。

 リュカは俺を見ていた。

 否定もしない。

 肯定もしない。

 ただ、近くにいる。

 そのことが、妙に怖かった。

 数字が見えない。

 本来なら、普通のことだ。

 だが、俺には普通が分からない。

 ずっと数字を見ていた気がする。

 いつからだ。

 なぜだ。

 誰に話したのか。

 考えようとすると、記憶の一部が白く抜けた。


 研究院。

 地下室。

 紙の山。

 誰かの声。

 女の声。

 ミナ。

 名前は出た。

 顔も、ぼんやり浮かぶ。

 だが、その顔が俺に何を言ったのかが抜けている。

 セラ。

 別の名前が浮かぶ。

 薬草の匂い。

 井戸。

 小さな女の子。

 ギル。

 木片。

 麦倉。

 断片はある。

 だが、つながらない。

 まるで、誰かが本のページを何枚も抜き取ったようだった。


 扉が開いた。

 入ってきたのは、青い外套を着た女性だった。

 金色の髪。

 静かな目。

 王女。

 名前は。

 少し遅れて浮かんだ。

 エレオノーラ。

 彼女は俺を見ると、一瞬だけ立ち止まった。

 それから、急いで近づいてくる。


「ユリウス」


「……おはようございます」


 言ってから、これで合っているのか分からなくなった。

 王女に、おはようございます、でいいのか。

 以前なら分かっていたのだろうか。

 王女は椅子を引き寄せ、寝台の横に座った。


「目が覚めて、よかった」


 その声には、本当に安堵があった。

 俺は少し戸惑った。


「どのくらい寝ていましたか」


「一晩です」


「一晩」


「祭壇が崩れたあと、あなたは倒れました。リュカがずっと離れませんでした」


 胸の上の白い獣を見る。

 リュカは当然のような顔をしている。


「重かっただろうな」


「何度もどかそうとしましたが、全員噛まれました」


「すみません」


「あなたが謝ることではありません」


 王女はそう言ったが、リュカは俺の指をまた軽く噛んだ。

 違う。

 そう言っているようだった。


「俺が謝ることでもあるみたいです」


 王女は少しだけ笑った。

 だが、すぐに表情を戻す。


「体はどうですか」


「重いです。頭も少し痛い。ただ、痛みより……」


「より?」


「数字が見えません」


 王女の目が静かに揺れた。

 彼女は驚かなかった。

 予想していたのだろう。


「まったく?」


「はい」


「人を見ても?」


「今、殿下を見ても何も」


「水や場所は?」


「何も」


 言葉にするたび、不思議な感覚があった。

 喪失感。

 安堵。

 恐怖。

 その全部が混ざっている。

 あれほど嫌だった数字なのに、ないと足元が消えたように感じる。

 王女はしばらく黙っていた。

 それから、静かに言った。


「祭壇は停止しました」


 俺は息を止めた。


「完全に?」


「完全とは言い切れません。地下祭祀場は崩れ、一部は水没しました。観測針は折れ、円盤も割れています。少なくとも、予定されていた今夜の神託祈祷は行えません」


「王都は」


「封鎖計画は続いています。ミナとラウル副隊長が動かしています。南門と職人宿、仮設厨房、王立病院裏、治癒院周辺の整理は維持されています」


「発熱者は」


 王女は一瞬だけ迷った。

 数字を言うべきか迷ったのだろう。

 俺はそれに気づいた。


「言ってください。見えないので」


 言ってから、少し苦笑した。

 王女も、わずかに口元を緩めた。


「王立病院の発熱患者は増えています。ただし、増加の速度は落ちました。重症者は出ていますが、南門と職人宿からの新規流入は減っています。治癒院の外部記録も取れ始めました」


「死者は」


「出ました」


 王女は隠さなかった。


「王都全体で、昨夜から今朝までに7人」


 7人。

 数字として聞くと、小さいように見える。

 だが、7人には名前がある。

 家がある。

 誰かの朝がある。

 俺は以前なら、死亡率や増加率を考えただろう。

 今は、ただ7人という重さだけが残った。


「そうですか」


 それしか言えなかった。

 王女は続けた。


「けれど、もっと増える可能性がありました。あなたが祭壇を止めたことで、神託は出ませんでした。王都全体に一斉の移動命令も出ていません。建国祭本祭は縮小されました」


「中止ではなく?」


「中止までは通りませんでした。ですが、王宮前広場への入場は制限され、祈祷は公開式典から外されました。王太子府はかなり反発しましたが、国王陛下が命じました」


 国王。

 白髪の男。

 なぜ100%ではない、と聞いた人。

 その顔は思い出せる。


「国王陛下は」


「お疲れですが、ご無事です」


「王太子は」


 王女の表情が少し曇った。


「混乱されています。大司教に裏切られたと感じておられるようです。ですが、王太子府はまだ建国祭の体面を守ろうとしています」


「ベルグラン大司教は」


「拘束されました」


 王女の声が硬くなる。


「ただし、教会は彼を切り離そうとしています。あれは大司教個人の判断であり、教会全体は関与していない、と」


「便利な言い方ですね」


 反射的に言った。

 王女が少しだけ笑う。


「その言い方は残っているのですね」


「何がですか」


「嫌なことを、短く言う癖です」


 リュカが俺の指を踏んだ。


「これは、まだ直っていないという意味か」


 王女は小さく頷いた。


「おそらく」


 少しだけ空気が緩んだ。

 だが、俺の中の空白はそのままだった。


「記憶は」


 王女が聞いた。

 俺は窓の外を見た。

 王宮の庭が見える。

 木々。

 石畳。

 朝の光。

 そこに数字はない。


「全部なくなったわけではありません。名前は分かる。出来事も、断片的には。ただ、つながりが欠けています」


「研究院のことは」


「覚えています。地下室、報告書、追放されたこと」


「リーベル村は」


 リーベル村。

 その言葉で、胸の奥が少し痛んだ。

 井戸。

 白い獣。

 薬草の籠。

 セラ。

 夕焼け。

 誰かが、少し困ったように笑っていた。


「覚えています。でも、ところどころ抜けている」


「セラさんのことは」


 名前が胸に落ちた。

 セラ。

 薬師見習い。

 言い方がひどいです、と言った人。

 休め、と言った人。

 戻る場所がある、と言った人。

 そこまで思い出した瞬間、喉が詰まった。


「少し」


 嘘だった。

 少しではない。

 でも全部かもわからない。

 どちらとも言えなかった。

 リュカが俺の胸元に顔を押しつけた。

 嘘だと怒るのではなく、ただそこにいた。

 王女は、それ以上聞かなかった。


「リーベル村へ、知らせを出しました」


「何を」


「あなたが生きていること。王都の危機はまだ続いているが、祭壇は止まったこと。リュカも一緒にいること」


「そうですか」


「返事が来るには数日かかります」


 俺は頷いた。

 返事。

 誰から来るのか。

 セラか。

 ギルか。

 村長か。

 その名前は浮かぶのに、顔の輪郭が少しぼやける。

 怖い。

 数字が見えないことより、覚えていたいものがぼやけることの方が怖かった。

 俺はリュカの毛を撫でた。

 リュカは逃げなかった。

 それも少し怖い。


「殿下」


「はい」


「俺は、これから役に立ちますか」


 王女はすぐには答えなかった。

 優しい嘘を探しているのかと思った。

 だが、彼女はそういう人ではなかった。


「以前と同じ形では、難しいでしょう」


「そうですね」


「でも、あなたが見たものを記録として残すことには意味があります。祭壇の構造、神託の仕組み、水路と人流の関係。数字が見えなくても、あなたは考えられる」


「考え方まで消えていなければ」


「消えていません」


 王女は即答した。


「なぜ分かるんですか」


「起きてすぐ、王都の状態を聞いたからです」


 言われてみれば、そうだった。

 俺は目を覚ましてすぐ、水差しではなく、王都の発熱者を気にした。

 いいことなのか悪いことなのかは分からない。

 リュカが俺の手を前足で押さえた。

 たぶん、悪くない、ということにしておく。

 扉が軽く叩かれた。

 入ってきたのはミナだった。

 髪は乱れ、目の下には濃い隈がある。手には紙束を抱えていた。

 彼女は俺が起きているのを見ると、目を見開いた。


「ユリウス!」


「おはよう」


 ミナは泣きそうな顔になった。

 だが、すぐに怒った顔になった。


「馬鹿なの、ユリウス」


「そうかもしれない」


「否定しなさいよ」


「材料が足りない」


「そういうところ!」


 ミナは紙束を寝台の横に置くと、深く息を吐いた。


「生きててよかった」


 その言葉は、王女の安堵とは違う響きだった。

 もっと近く、もっと乱暴で、温かかった。


「迷惑をかけた」


「本当よ」


「すまない」


「謝るなら、あとで報告書を書いて」


「何の」


「王宮地下祭祀場の構造。あなたが見たもの全部。忘れる前に」


 忘れる前に。

 その言葉が胸に刺さった。

 ミナも、気づいている。

 俺が忘れ始めていることに。

 俺は頷いた。


「書く」


「今すぐ?」


「今すぐ」


 王女が眉をひそめる。


「体は」


「忘れる方が困ります」


 リュカが俺の手首を踏んだ。


「無理はしない」


 リュカは離れない。


「少しだけ書く」


 まだ離れない。


「休みながら書く」


 ようやく離した。

 ミナが苦笑した。


「その子、前より厳しくなってない?」


「前をあまり覚えていない」


 言った瞬間、ミナの表情が凍った。

 俺はすぐに失敗したと思った。


「すまない。全部ではない」


「……うん」


 ミナは目を伏せた。


「分かってる。だから、書こう。覚えているうちに」


 王女が机を用意させた。

 俺は寝台の上で体を起こし、紙とペンを受け取った。

 手が震える。

 字がうまく書けない。

 それでも、書き始めた。

 神託ではなく、予測である。

 王宮地下祭祀場は、水路、人流、記録、祈祷を集約する観測装置である可能性が高い。

 観測針は、数を見る者との接続点である。

 観測者が祭壇に取り込まれると、予測は固定化する。

 固定された予測は、人の行動を誘導し、自己成就する。

 文字を書きながら、自分が書いたことの意味を確認する。

 数字は見えない。


 だが、言葉はまだ残っている。

 記録はできる。

 なら、まだ完全には失っていない。

 リュカは俺の横で、紙の端を前足で押さえていた。

 邪魔だった。

 でも、その重みがなければ、手が震えすぎて書けなかったかもしれない。


 窓の外では、建国祭の朝が始まっていた。

 縮小された祭り。

 制限された人流。

 分けられた水場。

 記録される発熱者。

 王国はまだ救われていない。

 ただ、未来は1本ではなくなった。

 俺にはもう、その確率は見えない。

 だが、それでいいのかもしれない。


 見えない未来を、見えないまま選ぶ。

 それが普通に生きるということなら。

 俺は、それを少しだけ思い出さなければならなかった。

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