第28話 0.3%の選択
祭壇は、まだ動いていた。
水路の流れは弱まった。
円盤の回転も乱れ、銀針のいくつかは折れた。
それでも、中央の石盤は止まらない。
低い音が広間に響く。
水の音。
石の擦れる音。
神官たちの乱れた祈祷。
そして、俺の頭の奥で鳴る数字の音。
王国崩壊確率、99.4%。
神託祈祷完了率、68%。
祭壇中枢稼働率、不明。
不明。
またそれだ。
分からないものほど、いまは重要に見える。
俺は膝をついたまま、祭壇を見上げた。
視界が揺れている。
水路を半分閉じたことで、数字の洪水は少し弱まった。だが、完全には止まっていない。むしろ、祭壇は別のものを探しているようだった。
水路から入る情報が弱まった代わりに、別の線が濃くなる。
俺へ向かって。
そして、リュカへ向かって。
白い獣は俺の胸元にしがみついたまま、祭壇を睨んでいる。
小さな体が震えていた。
「リュカ」
名前を呼ぶと、リュカは俺を見た。
その目には、いつもの不満も、呆れもない。
ただ、強い警告があった。
逃げろ。
初めて、そう見えた。
だが、逃げられない。
ここで逃げれば、祭壇はまた動く。
神託が出る。
未来が固定される。
王都の人々は、その言葉に従って動き、病と混乱はさらに広がる。
王国崩壊確率、99.4%。
まだ高い。
だが、99.7%ではない。
上限の99.7%から99.4%へ落ちた。最初に残っていた0.3%分だけ、壁に傷が入った。
その傷を広げなければならない。
「水路を完全に閉じろ!」
国王の声が響いた。
近衛兵たちがレバーを押し込もうとしている。トビアスも加わり、顔を真っ赤にして鉄の柄に体重をかけていた。
レバーは半分より少し下まで下がった。
だが、そこで止まる。
錆びた音が響き、石の奥で何かが詰まっているようだった。
「動きません!」
近衛兵が叫ぶ。
ベルグラン大司教は、祭壇の向こうで両手を広げていた。
銀の祭服が黒い光を受けて鈍く光る。
「無駄です」
彼は言った。
声は落ち着きを取り戻している。
さっきの焦りが嘘のようだった。
「この祭壇は、水だけで動くものではない。王都の記録、王家の血、教会の祈祷、そして災厄を読む目。それらがそろって初めて神託は降りる」
災厄を読む目。
俺はベルグランを見た。
「最初から、それが目的だったのか」
「何のことです」
「俺を呼び戻した理由だ。研究院の召喚だけではない。あなたたちは、俺をここへ近づけたかった」
ベルグランは微笑んだ。
リュカが低く唸る。
嘘を聞いた時ではない。
真実が近づいた時の唸りだった。
「数を見る者は、古い記録に記されています」
ベルグランは言った。
「災厄探知獣に選ばれた者。その目は、都市の流れを数字として読む。祭壇は、その目を通じて未来をより正確に捉える」
「捉えるのではなく、固定する」
「同じことです」
「違う」
「違いません。曖昧な未来は、人を迷わせる。確定した未来は、人を導く」
王女エレオノーラが前へ出た。
「導くのではありません。閉じ込めるのです」
ベルグランは王女を見た。
「殿下は若い。王国を統べる重さをまだご存じない。民は自由を求めると言いながら、いざ危機になれば誰かの言葉を待つ。神託は、その言葉を与える」
「嘘の確実さを?」
「秩序を、です」
王女の目が怒りで細くなる。
王太子リシャールは、祭壇とベルグランを交互に見ていた。
彼の顔には、初めて明らかな迷いがあった。
彼は神託を信じていた。
王国を守るものだと信じていた。
だが、ベルグランの言葉は、信仰というより支配に近かった。
「大司教」
王太子が言った。
「神託は、王家を助けるものではなかったのか」
「もちろんです、殿下」
「ではなぜ、父上の許可なく始めた」
ベルグランの微笑がわずかに硬くなる。
「王が迷われた時、教会は王国のために動かねばなりません」
「それは、王を越えるという意味か」
広間の空気が変わった。
国王は王太子を見た。
王太子はベルグランを見ている。
その隙に、俺は祭壇の線を見た。
水路。
王家の血。
教会の祈祷。
災厄探知獣。
数を見る者。
祭壇は、いくつもの入力を求めている。
水を止めても不完全。
祈祷を止めても不完全。
王家を遠ざけても不完全。
だが、最後の1つ。
数を見る者。
俺がここにいる限り、祭壇は俺を使える。
俺の視界を通じて、王都の線を読み取る。
リュカの探知を通じて、災厄の線を嗅ぎ取る。
そして、神託として吐き出す。
王国崩壊確率、99.4%。
俺接続時の神託祈祷補完率、82%。
俺を祭壇から切り離した場合、祈祷完了率、31%。
数字が出た。
初めて、中枢の一部が見えた。
俺は息を止めた。
俺を切り離す。
99.7%が上限なら、99.4%への低下は偶然ではない。最初に残っていた0.3%は、この切れ目のことだったのか。
「ユリウス?」
王女が俺を見る。
俺は答えなかった。
答えれば、彼女は止める。
ミナがいれば止める。
セラなら、もっと怒るだろう。
リュカは、すでに気づいていた。
白い獣は俺の胸元から離れない。
前足が外套に食い込んでいる。
そのとき、リュカが外套を強く噛んだ。
小さな体で、俺を祭壇から遠ざけようとしている。
言葉はない。だが、その力だけで十分だった。
「リュカ」
俺は小さく言った。
「たぶん、俺がいると、あれは止まらない」
リュカの目が見開かれる。
小さな牙が、俺の袖に食い込んだ。
痛い。
だが、袖を離さない。
「分かっている。俺も嫌だ」
声が震えた。
認めたくなかった。
俺は自分を犠牲にするような人間ではないと思っていた。
いや、そう思いたかった。
世界を救うために消える天才。
そんなものにはなりたくなかった。
本当は、もっと普通に生きたかった。
リーベル村で、セラに怒られながら水桶を数えたり、ギルに文句を言われたり、リュカに靴を踏まれたり。
そういうものの方が、神託よりずっとよかった。
数字ではなく、今日の水や、明日の粥や、麦倉の札を見ていたかった。
だが、祭壇は俺の目を使おうとしている。
俺がここにいることで、未来が閉じる。
なら、切り離すしかない。
ただし、死ぬ必要はない。
そうであってほしい。
俺は必死に数字を探した。
死亡率。
自分自身の死亡率は、やはり見えない。
代わりに、別の数字が浮かんだ。
記憶喪失発生率、78%。
統計能力喪失率、86%。
王都危機抑制率、43%。
王国崩壊確率、99.4%から61%。
俺は笑いそうになった。
ひどい取引だ。
だが、死ぬよりはましだ。
たぶん。
リュカが激しく首を振った。
言葉はない。
それでも、嫌だと言っているのは分かった。
「俺も嫌だ」
俺はもう一度言った。
「でも、死ぬとは出ていない」
リュカはさらに強く袖を噛んだ。
「痛い」
それでも離さない。
ベルグランの声が広間に響く。
「祈祷を続けなさい! 数を見る者がここにいる。神託は完成する!」
神官たちの声が再びそろい始める。
祭壇の円盤が、乱れながらも回転を取り戻す。
水路は半分閉じている。
銀針は折れている。
それでも、祭壇は俺を中心に再計算しようとしている。
神託祈祷完了率、31%から44%。
俺接続強制率、52%。
王国崩壊確率、61%から72%。
まずい。
迷っている間に、また上がる。
俺はリュカの体をそっと抱き上げた。
「リュカ。頼む」
白い獣は俺を睨んだ。
怒っている。
悲しんでいる。
たぶん、両方だ。
「俺を祭壇から切り離す場所を教えてくれ」
リュカは動かなかった。
「頼む」
声がかすれた。
「俺は、未来を固定する道具にはなりたくない」
その言葉で、リュカの力が少しだけ緩んだ。
白い獣は俺の袖を離し、祭壇の中央ではなく、外周の一部を見た。
円盤の外側。
そこに、細い銀の針が1本だけ残っている。
ほかの針より小さく、目立たない。
だが、そこから俺へ向かう線が伸びていた。
観測針。
数を見る者との接続点。
不明だった文字が、初めて形を持つ。
「そこか」
リュカは小さく鳴いた。
否定ではない。
肯定でもない。
たぶん、覚悟しろ、だ。
王女が近づいてきた。
「何をするつもりですか」
「俺と祭壇の接続を切ります」
「どういう意味です」
「この祭壇は、俺の目を使って神託を補完している。そこを切れば、祈祷は大きく乱れる」
「代償は」
王女はすぐに聞いた。
鋭い。
ありがたくもあり、つらくもある。
「記憶と能力、だと思います」
「だと思う?」
「自分の死亡率は見えません。死ぬかどうかは分からない。でも、記憶と能力を失う可能性は高い」
王女の顔が白くなった。
「そんなことは許可できません」
「許可を求めていません」
「ユリウス」
「王女殿下。あなたは国王陛下を守ってください。王太子を祭壇から離す。神官の祈祷を止める。水路のレバーを完全に下げる」
「あなたは」
「観測針を折る」
王女は言葉を失った。
国王がこちらを見ていた。
彼はすべてを聞いていたらしい。
「それで、王国は助かるのか」
国王が聞いた。
重い問いだった。
「助かる可能性が上がります」
「確約はないか」
「ありません」
国王は目を閉じた。
それから、静かに言った。
「なら、王も賭けよう」
彼は近衛兵に命じた。
「水路を閉じよ。王太子を下げろ。神官の祈祷を止める」
「父上!」
王太子が叫ぶ。
国王は振り返らなかった。
「リシャール。これが神の言葉なら、私の命令などなくとも降りるだろう。これが人の装置なら、止められる」
王太子は言葉を失った。
近衛兵たちが動く。
神官たちが抵抗し、広間に怒号が響く。
ベルグランが祭壇の前に立ちはだかる。
「止めるな! 王国は未来を知らねばならぬ!」
「未来を知る前に、今を見ろ」
国王の声が響いた。
その一言で、近衛兵たちは迷いを捨てた。
俺は観測針へ向かった。
足元が揺れる。
視界の端で数字が暴れる。
記憶喪失発生率、78%。
能力喪失率、86%。
切断成功率、43%。
王国崩壊確率、72%。
68%。
74%。
揺れている。
未来はまだ固定されていない。
リュカが隣を走る。
小さな体で、俺の足元を導く。
観測針は、祭壇の外周に突き立っていた。
細い銀の針。
先端はわずかに黒ずみ、針の根元には古い文字が刻まれている。
数を見る者、ここに触れ、災いの形を定む。
読めた。
なぜ読めるのか分からない。
だが、読めてしまった。
「定めるな」
俺は呟いた。
「警告で十分だ」
リュカが針の根元に前足を置いた。
ここだ。
俺は銀針をつかんだ。
冷たい。
次の瞬間、頭の中に無数の数字が流れ込んだ。
俺の記録。
研究院の地下室。
初めて死亡率が見えた日。
追放された日。
リーベル村の井戸。
セラの声。
ギルの文句。
ニナの手。
リュカの尾。
王女の目。
ミナの汚いと言った字。
すべてが数字に変わりかける。
やめろ。
これは数字ではない。
俺は歯を食いしばった。
銀針を折る。
細い針なのに、折れない。
祭壇が俺を引き込む。
観測者接続率、91%。
記憶同期率、44%。
能力固定率、73%。
リュカが俺の手に牙を立てた。
痛みが走る。
その痛みで、数字が一瞬途切れた。
俺は叫び、銀針に体重をかけた。
ぱきん、と乾いた音がした。
銀針が折れた。
広間のすべての音が、一瞬消えた。
水の音も。
祈祷も。
石の回転も。
そして、俺の数字も。
完全な静寂。
次の瞬間、祭壇が割れるような音を立てた。
円盤が逆回転し、水路の水が噴き上がる。
魔石が次々と砕け、黒い光が天井へ散った。
神官たちが倒れる。
ベルグランが叫ぶ。
王女が俺の名を呼ぶ。
リュカが鳴く。
俺は倒れた。
床が冷たい。
リュカが胸の上に乗っている。
その重さだけが、確かだった。
視界の端に、最後の数字が浮かんだ。
王国崩壊確率、61%。
43%。
28%。
まだ0ではない。
だが、壁は崩れ始めている。
俺はそれを見て、少しだけ笑った気がする。
次に目を開けた時、何を覚えているのかは分からなかった。
それでも、未来が1本ではなくなったことだけは、分かった。




