第27話 未来を固定する祭壇
王宮地下への階段は、王の私室の奥にあった。
厚い壁掛けの裏に隠された扉を開くと、石造りの狭い通路が下へ続いている。灯りは少なく、壁に埋め込まれた青白い魔石が、頼りない光を落としていた。
空気が冷たい。
湿っているのに、埃っぽい。
水の匂いと、古い紙の匂いと、金属が焼けるような匂いが混ざっている。
リュカは俺の腕の中で、ずっと低く唸っていた。
いつもの警戒ではない。
もっと深い。
敵意と恐怖と、何か古い記憶のようなものが混じった声だった。
「リュカ」
名前を呼ぶと、白い獣は一瞬だけ俺を見た。
薄い金色の目が揺れている。
ここを知っている。
そう見えた。
だが、リュカは何も言わない。
言えないのか、言わないのか。
それもまだ分からない。
先頭を歩くのは、国王だった。
侍従が支えようとしたが、国王はそれを断った。足取りは重い。だが、引き返す気配はない。
その後ろに王女エレオノーラ。
王太子リシャールは、不満を隠しきれない顔で続いている。
イリス、トビアス、数人の近衛兵。
そして俺。
ラウルとミナは王都封鎖計画のために残した。
今ごろ南門と職人宿と治癒院周辺で、線を守っているはずだ。
王都封鎖計画継続率。
不明。
南門水場整理維持率。
不明。
職人宿隔離成功率。
不明。
数字が出ない。
この地下へ近づくほど、王都全体の数字まで白くかすんでいく。
ただ1つだけ、消えない数字があった。
王国崩壊確率、99.7%。
視界の奥に、黒い染みのように残っている。
俺はそれを見ないようにした。
見ないことで消えるなら苦労はない。
だが、見すぎれば固定されるかもしれない。
数字は警告だ。
決定ではない。
何度もそう言い聞かせる。
階段の途中で、王太子が足を止めた。
「陛下。やはりお戻りください。地下は冷えます。大司教に任せればよいのです」
国王は振り返らなかった。
「大司教が勝手に鐘を鳴らしたのだ」
「それは王国の安寧のためでしょう」
「王の許しなく王国の未来を占うことが、安寧か」
王太子は口を閉じた。
その沈黙には、迷いよりも苛立ちがあった。
彼は本気で、神託が王国を支えると思っているのだろう。
それが嘘ならまだ扱いやすい。
本気の信念ほど、動かしにくいものはない。
リュカが王太子を見ても唸らなかった。
王太子の言葉は、おそらく嘘ではない。
ただ、間違っている。
それが一番厄介だった。
階段を下りきると、広い空間に出た。
そこは、王宮の地下とは思えないほど大きかった。
円形の広間。
天井は高く、柱が12本立っている。
床には古い文字と線が刻まれ、その線は水路のような溝につながっている。溝には薄く水が流れ、青白い魔石の光を反射していた。
広間の中央には、祭壇があった。
祭壇というより、巨大な計算盤に近い。
石の円盤が何重にも重なり、輪の上には古代文字が刻まれている。円盤の周囲には、水の溝、銅の線、魔石、細い銀の針。
見た瞬間、胸の奥が冷えた。
これは祈る場所ではない。
集める場所だ。
水の流れ。
人の流れ。
病の流れ。
記録の流れ。
そのすべてを、ここへ集めるための場所だ。
「……祭壇ではない」
俺は呟いた。
王女が横に立つ。
「では、何ですか」
「観測装置だ」
言葉にすると、広間の冷たさが増した気がした。
王太子が鼻で笑った。
「石と水と古文字を見て、何でも装置に見えるのか」
「祈るだけなら、水路も銅線も銀針も要りません」
「神聖な象徴だ」
「象徴は、ここまで実用的に配置されません」
王太子の顔がこわばる。
国王が祭壇を見上げた。
「私は幼いころ、一度だけここを見たことがある」
王女が驚いて国王を見る。
「陛下?」
「父王に連れられてな。神託は王家の根だと教えられた。だが、その時も私は思った。これは祈りの場にしては、あまりに冷たい、と」
国王の声には、遠い記憶が混じっていた。
その時、広間の奥で声がした。
「陛下。お越しになるとは思いませんでした」
ベルグラン大司教だった。
白い法衣の上に銀の祭服をまとい、祭壇の前に立っている。
周囲には高位神官が6人。
全員が古い書を開き、祭壇を囲むように立っていた。
中央の円盤は、すでにゆっくり動き始めている。
石が擦れる音。
水が流れる音。
銀針が震える音。
祈祷は、もう始まっていた。
「ベルグラン」
国王の声が低くなる。
「私は許可していない」
「陛下。王国の危機において、神託は王を助けるものです」
「助けを求めた覚えはない」
「王が求めずとも、神は告げます」
「神か」
国王は祭壇を見た。
「これが神か」
ベルグランの微笑がわずかに揺れた。
王女が前へ出る。
「大司教。祈祷を止めてください。王都では発熱者が増えています。神託祈祷による人流と情報の集中は危険です」
「殿下は、統計士殿の言葉に惑わされておいでです」
「私は記録を見ました」
「記録は、信仰の一部にすぎません」
「いいえ。信仰の都合で記録を隠してはいけません」
ベルグランの目が細くなる。
リュカが俺の腕から飛び降りた。
白い獣は床に降りると、祭壇へ向かって数歩進んだ。
その瞬間、祭壇の銀針が一斉に震えた。
神官たちがざわつく。
ベルグランの顔色が変わった。
「その獣を近づけるな」
初めて、彼の声に明確な焦りが混じった。
リュカは足を止めない。
白い毛が逆立ち、薄い金色の目が祭壇を睨んでいる。
俺の視界に、不意に線が見えた。
数字ではない。
銀色の線。
王都中から、この祭壇へ向かっている。
南門の水場。
職人宿。
仮設厨房。
王立病院。
治癒院。
祈祷堂。
王宮。
人と水と記録が、細い線になって祭壇へ集まっている。
そして、祭壇から別の線が伸びる。
王宮の上へ。
教会へ。
王太子府へ。
都市の人々の認識へ。
これは未来を見るだけではない。
ここで出された神託は、人を動かす。
人が動けば、線が濃くなる。
線が濃くなれば、未来が狭まる。
未来が固定される。
「止めろ」
俺は言った。
自分でも驚くほど低い声だった。
ベルグランがこちらを見る。
「何を見たのです、統計士殿」
「神託ではない、予測だ。しかも、出した瞬間に人を動かし、その予測どおりの道を作る」
「それこそ神の導きです」
「違う。自己成就する災害だ」
神官の1人が怒りで顔を赤くした。
だが、ベルグランは笑った。
「なるほど。あなたはよく見えるらしい」
その言葉に、背筋が冷えた。
ベルグランは俺が何かを見ていることを知っている。
少なくとも、予想していた。
「数を見る者」
ベルグランが呟いた。
リュカが牙をむいた。
「災厄探知獣に選ばれた者。古い記録の通りです。やはり神託は正しかった」
「神託ではない」
「呼び名など、どうでもよいのです。重要なのは、王国が未来を知ることができるということ」
「未来を知るために、未来を固定している」
「固定される未来こそ、秩序です」
その言葉で、広間が凍った。
王女の顔が変わる。
国王の目が鋭くなる。
王太子だけが、理解できないという顔をしていた。
「秩序?」
俺は聞き返した。
「災害が起きる場所が分かれば、備えられる。反乱が起きる家が分かれば、先に潰せる。疫病が広がる区画が分かれば、閉じ込められる。未来が曖昧であるから、人は迷う。神託は迷いを消す」
「人の選択も消す」
「選択が多すぎるから国は乱れる」
ベルグランの声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、恐ろしい。
彼は狂っているわけではない。
確信している。
未来を固定することが王国の安定だと、本気で信じている。
リュカが祭壇へさらに近づいた。
銀針が激しく震える。
円盤の動きが少し乱れた。
ベルグランが神官たちへ叫ぶ。
「祈祷を続けなさい!」
神官たちが古語を唱え始める。
水路の水が強く流れ、魔石が光を増す。
俺の視界に数字が戻った。
いや、数字ではない。
数字の洪水だった。
王都発熱者、推定112人。
治癒院未記録患者、推定48人。
職人宿死亡者発生率、22%。
南門暴動発生率、37%。
王太子府強制祭行率、88%。
神託祈祷完了率、61%。
王国崩壊確率、99.7%。
99.7%。
黒い輪郭が、さらに濃くなる。
限界に張りついた。
視界が揺れる。
王女が俺の腕をつかむ。
「ユリウス殿!」
「見るな」
俺は自分に言ったのか、彼女に言ったのか分からなかった。
数字を見れば見るほど、濃くなる。
未来が閉じていく。
なら、1点を見てはいけない。
幅を残す。
複数の線を同時に細くする。
リュカが俺を振り返った。
その目が、はっきりと告げていた。
祭壇を止めろ。
だが、どうやって。
装置を壊せばいいのか。
水を止めるのか。
魔石を外すのか。
銀針を折るのか。
選択肢が多すぎる。
どれか1つを選んだ瞬間、その未来が固定されるかもしれない。
俺は祭壇を見た。
円盤。
水路。
魔石。
銀針。
神官の声。
王家の血。
教会の記録。
どれが中枢か。
数字は出ない。
不明。
不明。
不明。
その不明の中で、リュカだけが祭壇の下を見ていた。
祭壇の下。
水の流れが入る場所。
王都中の水路とつながる、細い暗渠。
そこに、青黒い線が集まっている。
「水だ」
俺は言った。
「水を止める」
王女がすぐに反応した。
「どこを?」
「祭壇の下。水の流れが入力になっている。水が止まれば、少なくとも祈祷は乱れる」
国王が近衛兵へ命じた。
「水路を探せ」
近衛兵たちが動く。
ベルグランが叫んだ。
「止めるな! 神託を妨げる者は、王国への反逆者だ!」
王太子が一歩前に出た。
「父上、お待ちください。神託を止めれば、民は不安に」
「リシャール」
国王は王太子を見た。
「民はすでに倒れている」
王太子は言葉を失った。
その瞬間、リュカが祭壇の下へ走った。
白い影が水路の縁へ飛び乗る。
ベルグランの神官の1人が、リュカを捕まえようと手を伸ばした。
「触るな!」
俺が叫ぶより早く、リュカが牙をむいた。
神官は怯んだ。
リュカは水路の蓋に前足をかける。
小さな体では開けられない。
だが、場所は示した。
王女が叫ぶ。
「そこです!」
近衛兵2人が駆け寄り、石の蓋を持ち上げる。
中から冷たい水音が響いた。
太い水路が、祭壇の下へ流れ込んでいる。
「堰は」
俺は周囲を見る。
水路の横に、古い鉄のレバーがあった。
錆びついているが、動くかもしれない。
近衛兵が手をかける。
動かない。
もう1人が加わる。
それでも動かない。
神官たちの声が大きくなる。
円盤の回転が速まる。
神託祈祷完了率、73%。
78%。
84%。
数字が迫る。
俺は動こうとした。
だが、足がもつれた。
見すぎた。
頭が痛い。
視界の端が暗い。
リュカがこちらを見る。
その目が、怒っていた。
倒れるな。
そう言っている。
俺は奥歯を噛んだ。
「トビアス!」
自分でもなぜ彼の名を呼んだのか分からない。
だが、彼はすぐに走った。
震えながら、近衛兵の横に飛びつく。
「私も!」
3人でレバーを押す。
錆びた音がした。
わずかに動く。
王女も走ろうとしたが、国王が制した。
「エレオノーラ、兵を」
王女はすぐに近衛兵をもう1人呼んだ。
4人で押す。
鉄が軋む。
水路の奥で、何かが動いた。
水音が変わる。
祭壇の円盤が一瞬だけ揺れた。
ベルグランの顔が歪む。
「やめろ!」
初めて、敬語が消えた。
レバーが、半分まで下がった。
水の流れが弱まる。
神託祈祷完了率、84%から79%。
79%から68%。
王国崩壊確率、99.7%から99.4%。
下がった。
まだ高い。
だが、下がった。
リュカが水路の縁で高く鳴いた。
今まで聞いたことのない声だった。
獣の声というより、細い笛の音に近い。
祭壇の銀針が一斉に震え、数本が折れた。
広間に甲高い音が響く。
神官たちの祈祷が乱れる。
その瞬間、祭壇の中央から黒い光のようなものが立ち上がった。
光なのに暗い。
影なのに眩しい。
俺の視界に、無数の数字が浮かんだ。
過去の死亡率。
古代都市の崩壊率。
疫病拡大率。
反乱発生率。
飢饉発生率。
王の暗殺率。
民の暴動率。
都市の焼失率。
それらが一瞬で流れ込んでくる。
多すぎる。
これは記録だ。
古代から蓄積された、災厄の記録。
神託ではない。
予測でもない。
予測を繰り返し、固定を繰り返し、積み上がった未来の残骸だ。
俺は叫んだ。
声になったかどうか分からない。
リュカが水路から飛び戻り、俺の胸へ体当たりした。
小さな体なのに、強い衝撃だった。
視界が切れる。
数字の洪水が、一瞬だけ途切れる。
俺は膝をついた。
リュカが俺の胸元にしがみついている。
王女の声が聞こえた。
「ユリウス!」
国王の声も聞こえる。
「祭壇を止めろ! 水路を完全に閉じよ!」
ベルグランの怒号。
王太子の混乱した声。
神官たちの悲鳴。
すべてが重なった。
レバーはまだ完全には下がっていない。
祈祷も完全には止まっていない。
祭壇は壊れかけているが、まだ動いている。
俺は顔を上げた。
王国崩壊確率、99.4%。
まだ高い。
だが、99.7%ではない。
初めて、壁に傷が入った。
リュカが俺の頬を舐めた。
普段なら絶対にしない仕草だった。
俺は息を吸った。
まだ終わっていない。
だが、止められる。
少なくとも、その可能性は見えた。




