第26話 王宮地下の祭祀場
王宮へ向かう馬車の中で、誰も話さなかった。
王女エレオノーラは正面に座り、膝の上で手を組んでいる。イリスは隣で書類を抱え、トビアスは青い顔のまま窓の外を見ていた。
俺はリュカを膝に乗せていた。
白い獣は、いつものように丸くならない。
体を低くし、王宮の方角を睨んでいる。
建国祭前夜の王都は明るい。
だが、王宮へ近づくほど、俺の視界の端の数字は薄くなった。
南門や仮設厨房では、悪い数字でも見えていた。
治癒院では、数字が消えた。
王宮に近づく今、その消え方が広がっている。
まるで、数字が白い霧に呑まれていくようだった。
王宮周辺、感染拡大率。
不明。
王宮地下祭祀場、神託祈祷実施率。
不明。
王国崩壊確率。
99.7%。
他は消えるのに、その数字だけは消えなかった。
嫌な冗談のようだ。
見たいものは見えず、見たくないものだけが残る。
「ユリウス殿」
王女が静かに呼んだ。
「今、何が見えていますか」
「ほとんど何も」
「何も?」
「不明ばかりだ。ただ、崩壊確率だけは残っている」
「99.7%」
「そうだ」
王女は目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「なら、その0.3%を探しましょう」
俺は少し驚いた。
「かなり小さい数字だぞ」
「0ではありません」
その言葉を王女に言われるとは思わなかった。
リュカが王女を見た。
唸らない。
嘘ではないらしい。
「それは、俺がよく使う言い方だな」
「ええ。あまり健康にはよくなさそうですが、今だけ借ります」
「返却は不要だ」
「では、使い捨てます」
王女は微かに笑った。
こんな状況で笑えるのは強い。
あるいは、強く見せることに慣れているのだろう。
王宮の正門に着くと、そこはすでに騒がしかった。
王太子府の衛兵、教会の神官、王宮の使用人、儀典官たちが入り乱れている。建国祭前夜の準備のためだけではない。国王の招集鐘が鳴ったせいで、王宮全体がざわついていた。
王女が馬車を降りると、門番たちはすぐに道を開けた。
王族の力は、こういう時にはっきり見える。
ただし、それがどこまで通じるかは別だ。
王宮内の廊下には、青と金の布が飾られていた。
建国祭用の装飾だ。
天井から下がる旗には、初代国王が古き災厄を退けた場面が刺繍されている。
俺はその絵を横目で見た。
初代国王。
災厄。
神託。
白い獣。
数を見る者。
神話として飾られたものの下に、本当は何が埋まっているのか。
リュカが低く喉を鳴らした。
「ここも嫌か」
リュカは答えない。
だが、俺の外套の袖を噛まない。
止めるのではなく、急げと言っているようだった。
王女は王宮の奥へ進もうとした。
その前に、廊下の向こうから男が現れた。
年は30代前半。
金の髪に整った顔。肩には王太子の青い外套。立っているだけで周囲の者が頭を下げる。
リシャール王太子。
王女の異母兄だ。
彼はエレオノーラを見ると、眉をひそめた。
「エレオノーラ。こんなところで何をしている」
「陛下の招集を受けました」
「お前は王女宮で待機していればよい。神託祈祷は王と王太子と教会が担うものだ」
「今夜の祈祷には問題があります」
廊下の空気が冷えた。
王太子の視線が俺へ移る。
「その男か」
俺は礼をするべきか迷った。
迷っているうちに、王太子が先に言った。
「研究院を追放された統計士が、王女宮を惑わせていると聞いた」
「ユリウス・レインです」
「名は聞いていない」
「失礼しました」
王太子の眉がさらに寄る。
トビアスが後ろで小さく震えた。
イリスは無表情だ。
王女は一歩前に出た。
「兄上。王都では発熱者が増えています。南門と職人宿、仮設厨房、治癒院周辺で対策が必要です。神託祈祷を早めれば、人の流れがさらに王宮へ集まります」
「だからこそ神託が必要なのだ」
王太子は即答した。
「民が不安になれば、王家は未来を示さねばならない。建国祭を止めれば、王国が揺らぐ」
「未来を示すことが、未来を固定する危険があります」
「何を馬鹿な」
「神託は神の言葉ではありません。古代都市の予測記録です」
王太子の顔から表情が消えた。
廊下の者たちがざわつく。
神官の1人が青ざめ、別の儀典官が口元を押さえた。
ベルグランはおらず、司教が代理に出席しているようだった。
「それ以上言うな」
王太子の声は低かった。
王女は引かなかった。
「言います。今夜の祈祷は止めるべきです」
「お前は、王家の根幹を否定するつもりか」
「王家を守るために言っています」
「王家を守るのは、私の役目だ」
王太子はそう言い、俺を見た。
「統計士。お前の数字とやらで、王女を脅したのか」
「脅してはいません」
「では、何を見せた」
王国崩壊確率、99.7%。
その数字が視界に浮かぶ。
だが、ここでそれを言えばどうなる。
王太子は反発する。
王女はさらに追い詰められる。
周囲の者は混乱する。
未来が1本の線に固定されるかもしれない。
俺は少し黙った。
リュカが袖を噛まない。
言え、でもなく、黙れ、でもない。
選べ、ということか。
「数字ではありません」
俺は言った。
「記録をお見せしました」
王太子の目が細くなる。
「記録?」
「発熱患者の増加。南門の水場共有。職人宿の重症者。仮設厨房の発熱料理人。治癒院の実数不明。神託祈祷による人流集中。これらはすべて記録できる事実です」
「だから何だ」
「神託を出す前に、水場を分け、発熱者を分け、人の流れを分けるべきです」
「つまらん」
王太子は切り捨てた。
「民は、水桶の話を聞きたいのではない。王家が未来を示すのを待っている」
「未来を示す前に、今日の水で人が倒れます」
言葉が少し鋭くなった。
王太子の顔が赤くなる。
王女が俺を横目で見た。
短く、という目だった。
もう遅い。
その時、廊下の奥から別の声がした。
「リシャール。そこまでにしなさい」
全員が振り返った。
白髪の男が、侍従に支えられて立っていた。
アルデリア国王。
思ったより小柄だった。
王冠も剣も持っていない。濃紺の上着を羽織り、顔色は悪い。だが、目だけは鋭かった。
王女と王太子が膝をつく。
周囲の者も一斉に頭を下げた。
俺は一瞬遅れて頭を下げた。
リュカだけは下げなかった。
国王はそのリュカを見た。
目がわずかに揺れる。
「白い獣か」
その声には、驚きよりも記憶の色があった。
リュカは国王をじっと見た。
唸らない。
だが、近づきもしない。
「陛下」
王太子が言った。
「今夜の祈祷は予定通り」
「予定より早めると言ったのは、ベルグランだ」
国王は静かに言った。
「私は、まだ許可していない」
空気が変わった。
王女が顔を上げる。
王太子の表情がわずかに乱れた。
「しかし、大司教は」
「大司教は王ではない」
国王の声は弱いが、はっきりしていた。
その一言で、廊下の神官たちが黙る。
俺は国王を見た。
数字は浮かばない。
治癒院ほどではないが、国王の周囲にも薄い空白がある。
王宮地下の影響か。
それとも、王家そのものが神託と結びついているのか。
分からない。
国王は俺へ視線を向けた。
「お前が、ユリウス・レインか。王国崩壊確率99.7%と書いた男」
廊下がざわめいた。
王女が息をのむ。
ミナがいれば、たぶん頭を抱えていただろう。
俺は国王を見返した。
「なぜ、100%ではない」
問いは静かだった。
だが、ひどく重かった。
なぜ99.7%なのか。
なぜ0.3%が残ったのか。
俺はこれまで、その0.3%を深く考えてこなかった。
高すぎる数字にばかり目を取られていた。
だが、国王はそこを聞いた。
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「ただ、0.3%は残っているとも言えます」
国王は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「なら、その0.3%を聞こう」
王太子が顔を上げる。
「陛下!」
国王は手を上げて制した。
「神託の前に、この男の話を聞く」
王太子は悔しそうに唇を噛んだ。
王女は静かに息を吐いた。
俺はリュカを見た。
白い獣は、国王ではなく、廊下の奥を見ている。
王宮地下へ続く扉の方角だ。
やはり時間はない。
「陛下。話を聞いていただけるなら、ここではなく地図のある場所へ」
「なぜだ」
「神託ではなく、予測であることを、言葉だけでなく記録で示します」
国王は頷いた。
「よい」
その時だった。
廊下の奥から、低い鐘の音が響いた。
治癒院の銀の鐘とは違う。
もっと古く、深い音。
王女の顔が変わる。
王太子も振り返った。
国王の目が細くなる。
イリスがかすれた声で言った。
「地下祭祀場の鐘です」
「誰が鳴らした」
国王の声が低くなる。
答えは誰にも分からなかった。
だが、俺には1つだけ分かった。
リュカが全身の毛を逆立て、今までで一番強く唸ったからだ。
神託祈祷は、もう始まっている。
許可を待たずに。
王宮地下祭祀場使用率。
不明。
神託祈祷進行率。
不明。
王国崩壊確率。
99.7%。
視界の中央に、またその数字が浮かぶ。
俺は歯を食いしばった。
「陛下。地図より先に、地下へ行く必要があります」
国王は俺を見た。
そして、静かに頷いた。
「案内せよ」
王太子が何か言いかけたが、国王の視線で黙った。
王女はすでに歩き出している。
俺はリュカを抱き上げた。
白い獣の体は、小さく震えていた。
怖いのか。
怒っているのか。
たぶん、その両方だ。
王宮地下への扉が開かれる。
冷たい空気が流れてきた。
石と水と、古い紙の匂い。
そして、どこかで嗅いだことのある、数字が焼けるような匂い。
俺たちは、地下へ降り始めた。
神託ではない。
予測である。
だが、その予測は今、誰かの手で神託として動かされようとしていた。
未来を固定する場所へ。
俺たちは、間に合わなければならなかった。




