第25話 建国祭前夜
建国祭前夜の王都は、奇妙なほど明るかった。
大通りには灯籠が吊るされ、王宮前広場では楽師たちが最後の音合わせをしている。菓子の匂い、焼いた肉の匂い、香草の匂い。祭りを待つ人々の声が、夜になっても途切れない。
その足元で、王都封鎖計画は静かに始まった。
封鎖という言葉は使わない。
南門では、水場整理。
東職人宿では、発熱者確認。
仮設厨房では、衛生点検。
王立病院裏では、洗濯動線の分離。
治癒院周辺では、搬送路整理。
全部、別々の名目だ。
だが、やっていることは同じだった。
人と水と病の線を切る。
俺は旧税関倉庫の机に広げた地図を見ていた。
南門水場、接触拡大率、32%から24%。
仮設厨房経由の感染拡大率、41%から29%。
東職人宿、24時間以内の死亡者発生率、34%から19%。
王都全体の大規模混乱発生率、76%から69%。
下がっている。
それでも、まだ高い。
リュカは地図の上で、王宮地下の印を前足で押さえている。
南門でも、職人宿でも、仮設厨房でもない。
やはり、そこなのだ。
「封鎖の初動は進んでいます」
イリスが報告書を置いた。
「南門はラウル副隊長の指揮で持ちこたえています。商人組合も不満はありますが、今のところ協力的です。仮設厨房は献立変更を受け入れました。ただし、王太子府の儀典官が再三抗議しています」
「アルノルト卿か」
王女エレオノーラが言った。
「ええ。観覧席の完成が遅れる、貴族席の菓子が減る、祭礼の格式が損なわれる、と」
ミナが書類から顔を上げた。
「人が熱で倒れているのに、菓子の心配?」
「王都では、菓子で人が怒ることもあります」
イリスは真顔で言った。
冗談ではないらしい。
俺は地図に目を落とした。
「怒らせればいい。菓子で怒っている間は、まだ水場を戻せとは言っていない」
「あなたの基準、やっぱりおかしいわね」
ミナが言う。
「そうか?」
「ええ、かなり」
リュカが俺の靴を踏んだ。
「今のは嘘ではないだろう」
リュカは離れない。
「……表現が悪かったことは認める」
リュカは足を離した。
最近、判定が細かい。
倉庫の扉が開き、ラウルが入ってきた。
外套には土と水の跡がついている。南門から直接戻ったのだろう。
「南門は一応持っています。だが、夜半までが限界です。商人たちは明日の朝一番で荷を入れたい気持ちが強いです。門前に荷車が溜まりすぎれば、怒りが一気に増えます」
「発熱者は?」
「確認できた者だけで17人。うち5人は荷下ろし場にいた。別動線へ移しました」
「水場は」
「飲用、洗浄用、馬用を分けました。だが、目を離すとすぐ混ぜる者がいますね」
「見張りを固定してください。交代は2刻ごと。見張りが疲れると混ざる」
「分かりました」
ラウルはすぐに頷いた。
その実直さがありがたい。
だが、彼の顔には別の報告が残っていた。
「それと、治癒院周辺で揉めています」
倉庫の空気が重くなる。
「教会か」
「ええ。搬送馬車の入口を分けようとしたところ、神官たちが拒否しました。病人を選別するのは信仰に反する、と」
「選別ではなく記録だ」
「そう言いましたが、通じませんでした」
通じないだろう。
通じないように言っているのだから。
教会にとって、記録されることは不都合なのだ。
治癒院外部記録取得率、52%から43%。
神託祈祷中止成功率、18%から15%。
数字が下がる。
リュカが地図の上で、治癒院の印を強く踏んだ。
「俺が行く」
俺が立ち上がると、王女がすぐに言った。
「私も行きます」
「危険だ」
「言うと思いました」
「実際に危険だろう」
「分かっています。でも、王女がいなければ教会は一歩も動きません」
数字が浮かぶ。
王女同行時の治癒院周辺整理成功率、49%。
王女非同行時、22%。
王女感染リスク、14%。
王女と教会の政治衝突発生率、71%。
嫌な数字だ。
だが、選ばなければならない。
「分かった。ただし、治癒院の中には入らない」
「約束します」
リュカが王女を見た。
唸らない。
少なくとも、今の言葉は嘘ではないらしい。
旧税関倉庫を出ると、王都の夜風はぬるかった。
建国祭の灯りが遠くまで続いている。人々は笑い、歌い、明日の祭りを待っている。
その同じ夜に、南門では発熱者が分けられ、職人宿では作業班が止められ、治癒院では病人の数が隠されている。
祭りの光は、ものを見えにくくする。
リュカは俺の肩に乗らず、足元を歩いた。
治癒院に近づくほど、白い毛が逆立っていく。
王立病院の前を通ると、患者を運ぶ馬車がまた1台入っていった。
王立病院発熱者、推定92人。
収容余力、残り9床。
薬草在庫、通常時の24%。
数字は悪い。
だが、少なくとも見える。
治癒院の白い建物が見えた瞬間、数字は消えた。
視界の一部が、また白く抜け落ちる。
リュカが低く唸った。
治癒院の裏手には、衛兵と神官が向かい合っていた。
ラウルの部下たちは、馬車の出入り口を2つに分けようとしている。だが、白い法衣の神官たちが道を塞いでいた。
その中心に、ベルグラン大司教が立っている。
相変わらず穏やかな顔だ。
だが、目は少しも笑っていない。
「エレオノーラ殿下。夜分にまたお越しとは」
「治癒院周辺の搬送路を整理します」
「病人を門前で分けるなど、信仰の場にふさわしくありません」
「病人を守るためです」
「神の御前では、すべての者が等しい」
「感染症は、神の御前でも人から人へ広がります」
王女の声は静かだった。
ベルグランの眉がわずかに動く。
「殿下は、信仰を軽んじておられる」
「いいえ。命を軽んじていないだけです」
神官たちがざわついた。
俺は一歩前へ出た。
リュカが袖を噛む。
無理に入るな。
分かっている。
俺は治癒院の門ではなく、周囲を見た。
裏門から出てくる洗濯物の籠。
薬草を積んだ台車。
食事の壺。
空になった水樽。
中は見えない。
なら、外を数える。
「ベルグラン大司教」
俺が声をかけると、彼はこちらを見た。
「統計士殿。また数字の話ですか」
「そうだ」
「信仰の場で数字を振り回すのは控えていただきたい」
「なら、数字を出してくれ」
「何の数字でしょう」
「発熱者数、重症者数、死亡者数、治癒後に再発した人数。治癒魔法の件数ではなく、人の数だ」
ベルグランは微笑んだ。
「治癒院では、多くの者が癒やされています」
「多く、では記録にならない」
「神の恩寵は、表で測るものではありません」
「病は測れる」
ベルグランの笑みが薄れる。
リュカが低く唸った。
嘘をついたからではない。
たぶん、話が隠れる方向へ進んでいるからだ。
王女が命令書を掲げた。
「王女宮の名で、治癒院周辺の搬送路整理を行います。治癒院内への立ち入りは求めません。入口を分け、出入りの数を記録するだけです」
「記録するだけ、ですか」
「ええ」
「それは、治癒院を疑っているということです」
「疑いを晴らすためにも、記録が必要です」
うまい言い方だ。
王女は、こちらの目的を隠してはいない。
だが、教会が拒みにくい形にしている。
ベルグランは少し黙った。
その沈黙の間に、治癒院の中から咳が聞こえた。
1人ではない。
複数。
くぐもった咳。
隠しきれない音。
神官たちの何人かが、わずかに顔を強張らせる。
ベルグランは振り返らなかった。
「……よろしい。搬送路の整理だけなら、認めましょう」
王女の目が細くなる。
「記録もです」
「出入りの数のみ」
「十分です。今は」
今は。
その言葉に、ベルグランの視線が少し鋭くなった。
だが、彼はそれ以上拒まなかった。
治癒院周辺整理成功率、49%から61%。
治癒院外部記録取得率、43%から58%。
神託祈祷中止成功率、15%から17%。
わずかに上がる。
わずかすぎる。
それでも、線は太くなった。
ラウルがすぐに衛兵へ指示を出す。
搬送馬車の入口と出口を分ける。
薬草の搬入口を別にする。
洗濯物の籠は記録してから外へ出す。
食事の壺も数える。
神官たちは不満そうだったが、王女と衛兵の前では大きく逆らえなかった。
その時だった。
王宮の方角から、鐘が鳴った。
試しの鐘ではない。
低く、重い音。
1回。
2回。
3回。
王女の顔色が変わった。
「国王陛下の招集鐘です」
「なぜ今」
イリスが呟く。
遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。
王宮の伝令が治癒院前へ駆け込んできた。
彼は王女を見つけると、馬から飛び降りる。
「エレオノーラ殿下! 国王陛下より召集です。王太子殿下、ベルグラン大司教、王女殿下はただちに王宮へ」
ベルグランは静かに微笑んだ。
まるで、待っていたように。
俺の背筋に冷たいものが走る。
数字は見えない。
治癒院の前だからか。
王宮地下の線が絡んでいるからか。
分からない。
ただ、リュカが激しく唸った。
白い毛が逆立つ。
王女が伝令に尋ねる。
「議題は」
「建国祭前夜の神託祈祷を、予定より早めるとのことです」
空気が凍った。
予定より早める。
建国祭当夜ではない。
今夜。
王宮地下祭祀場使用率、急上昇。
神託祈祷実施率、91%から97%。
王国崩壊確率、99.7%。
数字が一気に濃くなる。
リュカが俺の袖を噛んだ。
強く。
痛いほどに。
見すぎるな。
分かっている。
だが、目をそらすわけにはいかない。
ベルグランが穏やかに言った。
「殿下。神託は、王国を安んじるためのものです」
王女は彼を見た。
その目は、初めてはっきりと怒っていた。
「いいえ、大司教」
彼女は静かに言った。
「今夜の神託は、王国を固定しようとしています」
ベルグランの笑みが消えた。
王女は俺へ向き直った。
「ユリウス殿。封鎖計画を続けてください」
「あなたは」
「王宮へ行きます」
「危険だ」
「わかっています」
「神託祈祷を止めるつもりですか」
「止める。止められなくても、遅らせられる」
数字が浮かぶ。
王女単独での儀式停止成功率、9%。
ユリウス同行時、23%。
王都封鎖計画継続率、ユリウス不在時、41%。
ユリウス同行時の封鎖計画遅延率、54%。
どちらを選んでも悪い。
だが、神託祈祷が今夜行われるなら、王宮地下が最優先になる。
リュカが王宮の方角へ向いた。
行け。
今度は、そう見えた。
「ミナとラウルに封鎖計画を続けさせます」
俺は言った。
王女が目を見開く。
「あなたは」
「王宮地下へ行きます」
リュカが袖を離した。
ベルグランがこちらを見る。
その目に、初めて明確な警戒が浮かんだ。
数字は見えない。
だが、それで十分だった。
建国祭前夜。
祭りの灯りの下で、王都封鎖計画は走り始めた。
そして同じ夜、神託祈祷は予定より早く始まろうとしていた。
未来を固定する場所へ。
俺とリュカは、向かわなければならなかった。




