第21話 固定される未来
治癒院の扉は、閉じたままだった。
白い石の階段は磨かれ、銀の鐘は澄んだ音を立て、法衣を着た神官たちは静かに出入りしている。
見た目だけなら、そこは王都で最も清潔な場所だった。
だが、俺には何も見えない。
発熱率も、死亡率も、接触者数も、薬草消費量も。
治癒院だけが、視界の中で白く抜け落ちている。
だから俺たちは、中ではなく外を数えることにした。
治癒院へ入った馬車の数。
運び込まれた薬草の束。
洗濯物の量。
厨房へ届く食材。
裏門から出ていく灰の袋。
夜間に鳴る鐘の回数。
人は記録を隠せる。
だが、人が動けば痕跡は残る。
見えない場所を直接見ることができないなら、その周囲に落ちる影を数えればいい。
それは、災害記録部の地下で、死者数の合わない帳簿を睨み続けた結果、勝手に身についたやり方だった。
「昨夜から今朝までに、治癒院へ入った馬車は11台です」
イリスが紙を広げた。
旧税関倉庫の机の上には、王女宮の使用人や衛兵が集めた記録が積まれている。
「薬草の搬入は通常の約2倍。洗濯物は3倍近く。厨房への粥用の米も増えています。ただし、治癒院から王立病院への正式報告は、発熱患者8人、治癒済み5人、重症者なし、です」
「合わない」
俺は言った。
「はい」
イリスは頷いた。
王女エレオノーラは腕を組み、表情を変えずに記録を見ている。
「推定では、何人ですか」
王女が聞いた。
俺は紙の数字を見た。
馬車11台。
1台あたり平均搬送者数、2人から4人。
付き添いを除く。
洗濯物の増加量。
粥の量。
薬草の消費。
灰の袋。
治癒院内推定発熱者数、32人から46人。
重症者、少なくとも6人。
死亡者発生率、24時間以内で28%。
俺は奥歯を噛んだ。
「少なくとも30人以上。重い者もいる。公式記録の8人は少なすぎる」
トビアスが青ざめた。
「教会が、そこまで少なく報告していると?」
「報告していないのか、数えていないのか、隠しているのかはまだ分からない」
「どれが一番悪いんですか」
「全部悪い」
トビアスは黙った。
リュカは机の上に乗り、治癒院の記録を押さえている。
だが、紙を見ているわけではなかった。
リュカは、閉じられた扉の向こうにある何かを見ているようだった。
いや、嗅いでいるのかもしれない。
災厄へ至る線を嗅ぐ獣。
その言葉が頭の中に残っている。
「次に死者が出るとしたら、どこですか」
ラウルが聞いた。
実務の声だった。
彼は恐れているが、恐れて動きを止める人間ではない。
俺は王都の簡易地図を見た。
南門。
仮設厨房。
職人宿。
王立病院。
治癒院。
水場。
人の流れ。
青黒い線が地図の上に浮かぶ。
数字も浮かぶ。
職人宿東棟、24時間以内の重症者発生率、37%。
王立病院裏手洗い場、二次感染発生率、44%。
治癒院、推定死亡者発生率、28%。
そして、1本の線が濃くなる。
東職人宿から、王宮前広場の観覧席へ。
そこに、赤い点が浮かんだ。
俺は言いかけた。
東職人宿だ、と。
だが、その瞬間、赤い点が濃くなった。
まるで、俺がそれを認識したことで、未来がそこへ寄ったように。
ぞっとした。
俺は口を閉じた。
「ユリウス?」
王女が俺を見る。
俺は地図から目を離した。
心臓が嫌な音を立てている。
「少し待ってくれ」
「何が見えましたか」
「言う前に、確認したい」
俺は地図を見ないようにしながら、別の紙を引き寄せた。
職人宿の記録。
食事の配布量。
水桶の位置。
発熱者の有無。
昨日までの作業班。
文字を追う。
計算する。
普通の手順で。
見えた数字ではなく、紙の記録から辿る。
東職人宿。
そこに重症者が出る可能性は確かに高い。
だが、なぜあの赤い点があれほど濃くなったのか。
俺が見たからか。
俺がそこだと認識したからか。
そんなはずはない。
予測は未来を変えない。
予測は、現在の条件から未来の可能性を読むだけだ。
そう思ってきた。
そうでなければ困る。
王女が静かに言った。
「数を見る者は、数を用い、数に縛られ、やがて数に呑まる」
神託の記録の一節だった。
俺は思わず顔を上げた。
「今それを言うのは、趣味が悪い」
「ですが、必要だと思いました」
王女は言葉を引っ込めなかった。
確かに必要だったのだろう。
俺も同じことを考えていた。
数を見る者。
数に縛られる者。
やがて数に呑まれる者。
もし、俺が数字を見ることで、その未来が少しずつ固定されるのだとしたら。
俺が救おうとしているものを、俺自身が狭めている可能性がある。
考えたくない。
だが、考えないといけない。
リュカが机の上から降り、俺の膝へ前足をかけた。
見上げる目は、いつもより静かだった。
「お前は知っているのか」
リュカは答えない。
ただ、俺の手帳を前足で押さえた。
書くな、か。
見るな、か。
いや。
たぶん、決めつけるな、だ。
俺は深く息を吐いた。
「ラウル」
「はい」
「東職人宿だけを見るな。東棟、西棟、作業班、水場、洗い場、観覧席の4系統を同時に分ける」
ラウルが眉を寄せた。
「東職人宿が最も危ないのでは?」
「危ない。だが、そこだけに注目すると、ほかの線を見落とす」
違う。
本当は、そこだけを強く見たくなかった。
見たことで、そこへ未来が寄るのが怖かった。
だが、説明としては間違っていない。
「分散して対策する。東職人宿は発熱確認。西棟は水場を分ける。作業班は今日の移動を止める。観覧席へ入る者は名簿にする」
「分かりました」
ラウルはすぐに動いた。
イリスも命令書を書き始める。
王女は俺を見ていた。
「今のは、数字を避けましたね」
「見すぎないようにしただけだ」
「同じことでは?」
「少し違う」
「ユリウスは、少し違う、が多いですね」
「生きるか死ぬかほどは違わないが、無視できるほど小さくもない差だ」
王女は少しだけ笑った。
「その表現は、あなたらしい」
「褒めているのか」
「半分は」
どこかで何度も聞いた言い方だった。
セラ。
マーサ。
村の人々。
遠いはずのリーベル村が、急に近く感じられた。
その時、旧税関倉庫の扉が開いた。
ミナ・クレイルが駆け込んできた。
髪は乱れ、眼鏡はずれ、抱えた書類の端が折れている。
地下の災害記録部からそのまま走ってきたのだろう。
「ユリウス!」
「ミナ」
彼女は俺を見るなり、息を切らしながら言った。
「ごめん。報告書、もっと早く読むべきだった」
「後悔はあとでしろと書いたはずだ」
「読んだわよ。だから走ってきたの」
ミナは机に書類を広げた。
「王立病院の追加記録。発熱患者は今朝の時点で74人。午後にはさらに増える。東職人宿で2人重症。南門荷下ろし場で1人意識混濁。治癒院はやっぱり数字を出していない」
東職人宿。
赤い点が、また頭の中に浮かぶ。
今度は紙の記録が先だった。
俺が見たからではない。
すでに起きていたことだ。
そう思いたかった。
だが、完全には安心できない。
「東職人宿の2人は、いつから悪化した」
「今朝よ。あなたが南門に入る前」
少しだけ息が楽になった。
俺が見たから悪化したわけではない。
少なくとも、今回は。
そう思った瞬間、別の数字が浮かんだ。
東職人宿、今後24時間以内の死亡者発生率、34%。
俺が対策を1点集中した場合、29%。
4系統に分散した場合、18%。
数字が変わった。
見た未来に引き寄せられるのではなく、対策の幅を残したことで下がった。
俺は机に手をついた。
「分散でいい」
ミナが眉をひそめる。
「何の話?」
「東職人宿だけに集中しない。水場、作業班、観覧席、荷下ろし場を同時に切る」
「分かった。記録は私が整理する」
「できるか」
「誰に言ってるの。災害記録部よ」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
地下の湿った部屋。
積み上がった死亡記録。
鼠の死骸が出る書架。
あまり誇れる場所ではない。
だが、今はその言葉が頼もしかった。
ミナは王女に気づき、慌てて礼をした。
「も、申し訳ありません、殿下」
「構いません。今は礼より記録を」
「はい」
ミナはすぐに顔を上げた。
彼女もまた、今何が優先されるべきか分かっている。
王女は俺へ目を向けた。
「今のことで、何か分かりましたか」
「確実なことは何も」
「では、不確実なことは?」
嫌な聞き方だ。
だが、必要な聞き方でもある。
俺は少し考えた。
「数字を見ること自体が、未来を狭める可能性がある」
倉庫の中が静かになった。
ミナが手を止める。
トビアスが息をのむ。
イリスも、ラウルも、王女も、俺を見ている。
俺は続けた。
「確定ではない。ただ、強く見すぎると、その線が濃くなる感覚がある。だから、1つの未来を見て、そこへ全員を集中させるのは危険かもしれない」
「では、どうすれば」
王女が聞いた。
「幅を残す」
俺は地図に4本の線を引いた。
「1点だけを救おうとしない。複数の線を同時に細くする。数字を決定ではなく、警告として使う。断言しすぎない。記録で確認する。俺が見たものだけに頼らない」
言いながら、自分にも言い聞かせていた。
数字は未来ではない。
警告だ。
決定ではない。
決定にしてはいけない。
リュカが地図の上に乗り、4本の線の真ん中に座った。
邪魔だった。
だが、不思議と正しかった。
1本だけを見るな。
全体を見ろ。
リュカがそう言っているように見えた。
「その獣」
ミナが目を丸くした。
「何なの?」
「俺も知りたい」
リュカは何も答えない。
ただ、地図の上で尾を揺らした。
王女が静かに言った。
「古代記録には、未来を知ろうとしすぎた都市は、未来に縛られたとあります」
「比喩ではなかったのかもしれない」
「ええ」
「予測を重ね、対策を重ねるほど、人々がその予測に従って動く。すると、別の可能性が消えていく」
ミナが小さく言った。
「未来が固定される」
その言葉は、倉庫の中に重く落ちた。
そうだ。
未来が固定される。
未来を避けるための予測が、未来を固定する。
それが古代都市群を崩壊させたのだとしたら。
俺たちは、同じことをしているのかもしれない。
王都を救おうとして、王都の未来を細い線へ追い込んでいるのかもしれない。
だが、何もしなければ人は倒れる。
数字を見なければ、危険は消えるわけではない。
見すぎれば固定される。
見なければ見落とす。
その間を歩かなければならない。
なんて面倒な能力だ。
いや、能力と呼んでいいのかも分からない。
災厄探知獣と、数を見る者。
その組み合わせが、救いなのか、罠なのか。
今はまだ分からない。
「ユリウス」
ミナが言った。
「一人で見ないで。記録は私たちが見る。現場はラウル副隊長が見る。王宮は殿下が動かす。だから……全部を一人で決めないで」
その言葉は、セラの言葉に似ていた。
自分だけで全部決めようとしている顔です。
あのときも言われた。
また同じことをしている。
俺は息を吐いた。
「分かった」
リュカが、珍しく俺の手に頭をこすりつけた。
嘘ではない、と認められたらしい。
王女が地図を見た。
「では、4系統で動きます。ラウル副隊長は東職人宿と観覧席。ミナは記録整理。イリスは命令書と王女宮への連絡。私は王太子府へ建国祭の縮小を再度要求します」
「通るのか」
俺が聞くと、王女は薄く笑った。
「通らないでしょう」
「では」
「通らない前提で、別の道を用意します」
それはいい答えだった。
未来を1本に絞らない。
通らない道を見るなら、別の道も残す。
王女はすでにそれをしている。
俺は地図を見た。
線はまだ多い。
だが、さっきより少しだけ細い。
固定されかけた未来が、わずかにほどけたように見えた。
それが本当に見えたのか、そう思いたかっただけなのかは分からない。
ただ、リュカは地図の上で丸くなり、初めて少しだけ目を閉じた。
その姿を見て、今はこの方針でいいのだと思うことにした。




