第20話 数字が見えない場所
仮設厨房の水桶を分けたあと、王宮前広場の空気は少し変わった。
変わったと言っても、祭りの準備が止まったわけではない。
職人たちはまだ観覧席を組み、料理人たちは献立の変更に文句を言い、儀典官たちは青い顔で走り回っている。
だが、少なくとも水桶は分けられた。
飲用。
洗浄用。
廃棄用。
発熱している料理人は厨房から外され、果物を冷やしていた水は捨てられた。王女の命令書が掲げられると、誰も大声では逆らわなかった。
大声では、だ。
小声の不満なら、いくらでも聞こえた。
「王女殿下は神経質すぎる」
「祭りの前に病の話など」
「誰かが大げさに報告したんだろう」
「統計士? ああ、研究院を追い出された男らしい」
最後の声には、少しだけ聞き覚えのある響きがあった。
役立たず。
数字遊び。
机上の空論。
言葉は場所を変えても、あまり変わらないらしい。
リュカが俺の足元で耳を伏せた。
「気にしていない」
そう言った瞬間、リュカは半歩離れた。
嘘だ、ということらしい。
「少しは気にしている」
リュカは戻ってきた。
扱いが難しい。
王女エレオノーラは、料理長と儀典官に指示を出し終えると、俺の方へ戻ってきた。
「南門と仮設厨房は、一応動きました」
「一応か」
「ええ。一応」
王女は素直に認めた。
その潔さは助かるが、王族としてはたぶん珍しい。
俺は広場を見た。
仮設厨房経由の感染拡大率、66%から41%。
王宮前広場全体の24時間以内発熱者増加率、59%。
職人宿未対応時の再拡大率、63%。
数字は少し下がった。
しかし、別の線が濃い。
王立病院。
いや、その隣にある教会管理の治癒院。
王都では、病人はまず王立病院へ運ばれる。だが、治癒魔法を受ける者や、身分の高い者、教会の保護対象者は、隣接する治癒院へ回される。
問題は、治癒院の実数が記録に出てこないことだった。
治癒魔法実施件数はある。
祈祷件数もある。
だが、発熱者が何人いて、何人が悪化し、何人が回復し、何人が死亡したのかが曖昧だ。
治癒院関連記録欠損率、72%。
王都感染拡大評価への影響、46%。
ここを見ないと、王都全体の数字が歪む。
「次は治癒院だ」
俺が言うと、王女の表情が少し硬くなった。
「教会の管轄です」
「知っている」
「王女の命令でも、簡単には動きません」
「だろうな」
「ですが、行くのですね」
王女は深く息を吐いた。
「分かりました。私も同行します」
「感染リスクが上がる」
「政治的実行率も上がるのでしょう」
「嫌なことを覚えたな」
「あなたの言葉遣いが移ったのかもしれません」
イリスが横で小さく咳払いした。
笑いを隠したのだろう。
ラウル副隊長は、南門から引き連れてきた衛兵の一部を広場に残し、3人だけ連れて同行することになった。
トビアスはしばらく迷っていたが、結局ついてきた。
「研究院へは行かないのか」
俺が聞くと、彼は困ったように笑った。
「ここまで来たら、どの道怒られます」
「開き直ったな」
「少しだけ」
リュカがトビアスの靴を踏んだ。
トビアスはもう驚かなかった。
「ありがとうございます、と言えばいいのでしょうか」
「たぶん」
「たぶんですか」
「俺もまだ勉強中だ」
リュカは知らん顔で先へ歩き出した。
王立病院と治癒院は、王宮前広場から西へ少し入った場所にあった。
王立病院は石造りの大きな建物で、窓が多い。入口には患者を乗せた馬車が並び、薬草の匂いと汗の匂いが混ざっている。
その隣に、白い石で造られた治癒院がある。
高い尖塔。
磨かれた階段。
銀の鐘。
入口の上には、教会の紋章が刻まれていた。
見た目は、王立病院よりずっと清潔だ。
だが、清潔に見える場所が安全とは限らない。
俺は治癒院の入口を見た。
数字を待った。
何も浮かばなかった。
「……?」
俺は瞬きをした。
もう一度見る。
治癒院の入口。
出入りする神官。
白い布で顔を覆った患者。
水を運ぶ修道女。
薬草を積んだ台車。
何も出ない。
数字が、1つも浮かばない。
発熱率も、接触率も、重症化率も、欠損率も。
何も。
まるで、視界のそこだけが薄く切り抜かれているようだった。
「ユリウス?」
王女が俺を見る。
俺は答えようとして、言葉に詰まった。
見えない。
たったそれだけのことが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
今まで、数字が悪いことは怖かった。
だが、数字が見えないことは、もっと怖い。
悪いかどうかすら分からない。
どこから手をつければいいのかも分からない。
「見えない」
俺は小さく言った。
王女の表情が変わる。
「数字が、ですか」
「ああ」
イリスも息をのんだ。
ラウルは意味が分からない顔をしたが、俺の様子が普通ではないことは分かったらしい。
リュカが俺の足元に戻ってきた。
白い獣は治癒院を見ていない。
むしろ、見ないようにしている。
耳を伏せ、尾を低くしている。
怖がっている。
リュカが。
「お前も嫌なのか」
リュカは答えない。
ただ、俺の外套の裾を噛んだ。
行くな。
今度は、はっきりそう見えた。
俺は足を止めた。
王女が治癒院を見上げる。
「ここは、教会が神託の祈りを行う場所でもあります」
「治癒院では?」
「表向きは」
「裏では?」
「神託記録の一部が、ここで保管されています。禁書庫にあるものは王宮側の写しです。原本に近いものは、教会が持っています」
俺は治癒院を見た。
白い石。
銀の鐘。
清潔な階段。
そこだけ、数字がない。
いや、ないだけではない。
視線が滑る。
見ようとすると、頭の奥が鈍く痛む。
神託。
予測の記録。
古代都市群。
災厄探知獣。
数を見る者。
ここは、ただの治癒院ではない。
「中に入る必要があります」
王女が言った。
「それは危険だ」
俺は反射的に言った。
数字は見えない。
それでも、危険だとは分かる。
リュカの反応だけで十分だった。
「ですが、ここを見なければ治癒院の実数が分かりません」
「実数の問題だけではない」
「では、何の問題ですか」
「数字が見えない場所が、王都の発熱者を抱えているというのが問題だ」
王女は黙った。
それは、彼女にも意味が分かったのだろう。
見えない場所に、病人が集まっている。
記録も欠けている。
教会が神託を管理している。
そのすべてが同じ場所にある。
偶然で片づけるには、線が太すぎる。
トビアスが震える声で言った。
「研究院にも、治癒院の実数は出てきません。治癒魔法の件数だけです」
「なぜ疑わなかった」
俺が聞くと、彼は俯いた。
「教会の記録だからです」
「教会の記録は間違えないと?」
「そう教わってきました」
リュカがトビアスを見た。
唸らない。
今の言葉は嘘ではないらしい。
ただ、信じてきた。
それだけだ。
それが一番厄介なこともある。
治癒院の門が開いた。
中から、白い法衣を着た男が出てくる。
年は50代ほど。銀糸の刺繍が入った法衣から見て、高位聖職者だろう。
男は王女を見ると、穏やかに微笑んだ。
「エレオノーラ殿下。急なお越しとは珍しい」
「ベルグラン大司教」
王女の声が少し硬くなった。
大司教。
教会側の権力者。
俺は彼を見た。
数字は浮かばない。
ベルグラン大司教の情報も、何も見えない。
敵対率も、嘘も、発熱率も。
空白。
それが異様だった。
ベルグランは俺へ視線を向けた。
「そちらが、噂の統計士殿ですか」
「ユリウス・レインだ」
「王都を救うためにお戻りになったとか」
「戻ったわけではない」
「では?」
「被害を減らしに来た」
ベルグランは微笑んだ。
「それは尊いことです。ですが、ここは教会の治癒院。病の者を救う場所です。混乱を招く調査は控えていただきたい」
言葉は柔らかい。
だが、扉は閉じられている。
リュカが小さく唸った。
ベルグランの視線がリュカに移る。
その一瞬、彼の笑みがわずかに薄れた。
「……珍しい獣ですね」
「俺にもよく分からない」
「分からないものをここへ連れてくるのは、感心しませんな」
「分からない記録を神託として扱うよりはましだ」
空気が止まった。
トビアスが顔を青くする。
イリスは目を伏せた。
ラウルは無言で姿勢を正す。
王女だけが、俺を止めなかった。
ベルグランは笑みを保っていた。
だが、目だけは笑っていない。
「神託を軽んじるのですか」
「記録として読むべきだと言っている」
「信仰を数字で測るおつもりか」
「発熱者数と死亡者数は測るべきだ」
「治癒院では、神の御手により多くの者が癒やされています」
「何人が発熱し、何人が悪化し、何人が回復し、何人が死んだんだ」
ベルグランは答えなかった。
沈黙が返る。
リュカがさらに低く唸った。
嘘ではない。
答えていない。
それだけなのに、嘘より厄介だった。
「記録はあるのか」
俺は聞いた。
「教会の記録は、教会が管理しています」
「つまり、見せないと」
「必要があれば、適切な手続きを経て」
「その間に発熱者は増える」
「不安を煽るべきではありません」
またその言葉だ。
不安を煽るな。
混乱を招くな。
平静を保て。
その言葉の下で、何人が倒れたのか。
俺は一歩前へ出ようとした。
リュカが強く袖を噛んだ。
今度は止める力だった。
行くな。
入るな。
そういう力だった。
俺は足を止めた。
リュカがここまで嫌がる場所へ、無理に入るべきではない。
少なくとも、準備なしでは。
王女が前へ出た。
「ベルグラン大司教。王女宮の名で、治癒院の発熱者数と死亡者数の提出を求めます」
「殿下。それは王女宮の権限を越えます」
「では、国王陛下の署名を得ます」
「陛下にご負担をかけるほどのことではありません」
「何人死ねば、負担に値しますか」
王女の声は静かだった。
ベルグランの笑みが消えた。
一瞬だけ。
すぐに戻った。
「殿下は、お疲れのようです」
「いいえ。ようやく目が覚めただけです」
ラウルが一歩前に出た。
衛兵たちもそれに続く。
武力で押し入るには足りない。
だが、王女が退かないという意思は伝わる。
ベルグランはしばらく王女を見つめていた。
やがて、静かに言った。
「今日中に、概要だけでも出しましょう」
「数字で」
「可能な範囲で」
「確かな数字で」
王女は繰り返した。
ベルグランは微笑んだ。
「……努力いたします」
それは、しない、という意味に近かった。
だが、ここで押し切るには材料が足りない。
数字も見えない。
俺は歯を食いしばった。
治癒院の扉が閉じられる。
その瞬間、リュカの唸り声がやんだ。
白い獣は俺の足元で、小さく震えていた。
俺はしゃがみ、リュカの背に手を置いた。
少し冷たい。
「大丈夫か」
リュカは答えない。
ただ、俺の手に額を押しつけた。
王女が低い声で言った。
「ここが、数字が見えない場所なのですね」
「ああ」
「教会の神託と関係があると思いますか」
「分からない」
俺は治癒院を見上げた。
白い石の建物。
清潔な階段。
閉じられた扉。
そこには、何の数字も浮かばない。
だからこそ、確信に近い不安があった。
「ただ、あそこは危ない」
「数字が見えないのに?」
「見えないからだ」
王女は静かに頷いた。
イリスが手帳を開く。
「治癒院から実数を取る別の方法を探します」
「患者を運んだ馬車、薬草の搬入、食事の量、洗濯物の数」
俺は言った。
「中の記録が見えないなら、外へ出る痕跡を見る。直接入らなくても、数は外に漏れる」
王女の目がわずかに光った。
「王女宮の使用人と衛兵を使います」
「急がないと手遅れになる」
「ええ」
治癒院の扉は閉じたまま、何も語らない。
俺の数字も沈黙している。
だが、外側の世界にはまだ数字がある。
馬車の数。
薬草の量。
洗濯物の重さ。
食事の残り。
人は隠しても、動いた痕跡までは完全に消せない。
数字が見えない場所があるなら、その周りを数えればいい。
研究院で学んだことが、ようやく少し役に立った気がした。
リュカはまだ治癒院を見ようとしなかった。
白い獣が嫌う場所。
数字が消える場所。
神託が管理される場所。
その3つが同じ場所にある。
偶然ではない。
だが、まだ証拠は足りない。
王都の水を分け、発熱者を分け、記録を集める。
そして、あの見えない場所の外側から、穴を開ける。
俺はそう決めた。
治癒院の銀の鐘が、静かに鳴った。
澄んだ音だった。
だが俺には、その音が何かを覆い隠す蓋のように聞こえた。




