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“役立たずの統計士”と追放された俺、死亡率が見える能力で王国崩壊を回避していたら、白い聖獣に懐かれました  作者: くるみ


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20/31

第20話 数字が見えない場所

 仮設厨房の水桶を分けたあと、王宮前広場の空気は少し変わった。

 変わったと言っても、祭りの準備が止まったわけではない。


 職人たちはまだ観覧席を組み、料理人たちは献立の変更に文句を言い、儀典官たちは青い顔で走り回っている。

 だが、少なくとも水桶は分けられた。

 飲用。

 洗浄用。

 廃棄用。

 発熱している料理人は厨房から外され、果物を冷やしていた水は捨てられた。王女の命令書が掲げられると、誰も大声では逆らわなかった。

 大声では、だ。

 小声の不満なら、いくらでも聞こえた。


「王女殿下は神経質すぎる」

「祭りの前に病の話など」

「誰かが大げさに報告したんだろう」

「統計士? ああ、研究院を追い出された男らしい」


 最後の声には、少しだけ聞き覚えのある響きがあった。

 役立たず。

 数字遊び。

 机上の空論。

 言葉は場所を変えても、あまり変わらないらしい。

 リュカが俺の足元で耳を伏せた。


「気にしていない」


 そう言った瞬間、リュカは半歩離れた。

 嘘だ、ということらしい。


「少しは気にしている」


 リュカは戻ってきた。

 扱いが難しい。

 王女エレオノーラは、料理長と儀典官に指示を出し終えると、俺の方へ戻ってきた。


「南門と仮設厨房は、一応動きました」


「一応か」


「ええ。一応」


 王女は素直に認めた。

 その潔さは助かるが、王族としてはたぶん珍しい。

 俺は広場を見た。

 仮設厨房経由の感染拡大率、66%から41%。

 王宮前広場全体の24時間以内発熱者増加率、59%。

 職人宿未対応時の再拡大率、63%。

 数字は少し下がった。

 しかし、別の線が濃い。

 王立病院。

 いや、その隣にある教会管理の治癒院。

 王都では、病人はまず王立病院へ運ばれる。だが、治癒魔法を受ける者や、身分の高い者、教会の保護対象者は、隣接する治癒院へ回される。


 問題は、治癒院の実数が記録に出てこないことだった。

 治癒魔法実施件数はある。

 祈祷件数もある。

 だが、発熱者が何人いて、何人が悪化し、何人が回復し、何人が死亡したのかが曖昧だ。

 治癒院関連記録欠損率、72%。

 王都感染拡大評価への影響、46%。

 ここを見ないと、王都全体の数字が歪む。


「次は治癒院だ」


 俺が言うと、王女の表情が少し硬くなった。


「教会の管轄です」


「知っている」


「王女の命令でも、簡単には動きません」


「だろうな」


「ですが、行くのですね」


 王女は深く息を吐いた。


「分かりました。私も同行します」


「感染リスクが上がる」


「政治的実行率も上がるのでしょう」


「嫌なことを覚えたな」


「あなたの言葉遣いが移ったのかもしれません」


 イリスが横で小さく咳払いした。

 笑いを隠したのだろう。

 ラウル副隊長は、南門から引き連れてきた衛兵の一部を広場に残し、3人だけ連れて同行することになった。

 トビアスはしばらく迷っていたが、結局ついてきた。


「研究院へは行かないのか」


 俺が聞くと、彼は困ったように笑った。


「ここまで来たら、どの道怒られます」


「開き直ったな」


「少しだけ」


 リュカがトビアスの靴を踏んだ。

 トビアスはもう驚かなかった。


「ありがとうございます、と言えばいいのでしょうか」


「たぶん」


「たぶんですか」


「俺もまだ勉強中だ」


 リュカは知らん顔で先へ歩き出した。

 王立病院と治癒院は、王宮前広場から西へ少し入った場所にあった。

 王立病院は石造りの大きな建物で、窓が多い。入口には患者を乗せた馬車が並び、薬草の匂いと汗の匂いが混ざっている。

 その隣に、白い石で造られた治癒院がある。


 高い尖塔。

 磨かれた階段。

 銀の鐘。

 入口の上には、教会の紋章が刻まれていた。

 見た目は、王立病院よりずっと清潔だ。

 だが、清潔に見える場所が安全とは限らない。

 俺は治癒院の入口を見た。

 数字を待った。

 何も浮かばなかった。


「……?」


 俺は瞬きをした。

 もう一度見る。

 治癒院の入口。

 出入りする神官。

 白い布で顔を覆った患者。

 水を運ぶ修道女。

 薬草を積んだ台車。

 何も出ない。

 数字が、1つも浮かばない。

 発熱率も、接触率も、重症化率も、欠損率も。

 何も。

 まるで、視界のそこだけが薄く切り抜かれているようだった。


「ユリウス?」


 王女が俺を見る。

 俺は答えようとして、言葉に詰まった。

 見えない。

 たったそれだけのことが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。

 今まで、数字が悪いことは怖かった。

 だが、数字が見えないことは、もっと怖い。

 悪いかどうかすら分からない。

 どこから手をつければいいのかも分からない。


「見えない」


 俺は小さく言った。

 王女の表情が変わる。


「数字が、ですか」


「ああ」


 イリスも息をのんだ。

 ラウルは意味が分からない顔をしたが、俺の様子が普通ではないことは分かったらしい。

 リュカが俺の足元に戻ってきた。

 白い獣は治癒院を見ていない。

 むしろ、見ないようにしている。

 耳を伏せ、尾を低くしている。

 怖がっている。

 リュカが。


「お前も嫌なのか」


 リュカは答えない。

 ただ、俺の外套の裾を噛んだ。

 行くな。

 今度は、はっきりそう見えた。

 俺は足を止めた。

 王女が治癒院を見上げる。


「ここは、教会が神託の祈りを行う場所でもあります」


「治癒院では?」


「表向きは」


「裏では?」


「神託記録の一部が、ここで保管されています。禁書庫にあるものは王宮側の写しです。原本に近いものは、教会が持っています」


 俺は治癒院を見た。

 白い石。

 銀の鐘。

 清潔な階段。

 そこだけ、数字がない。

 いや、ないだけではない。

 視線が滑る。

 見ようとすると、頭の奥が鈍く痛む。

 神託。

 予測の記録。

 古代都市群。

 災厄探知獣。

 数を見る者。

 ここは、ただの治癒院ではない。


「中に入る必要があります」


 王女が言った。


「それは危険だ」


 俺は反射的に言った。

 数字は見えない。

 それでも、危険だとは分かる。

 リュカの反応だけで十分だった。


「ですが、ここを見なければ治癒院の実数が分かりません」


「実数の問題だけではない」


「では、何の問題ですか」


「数字が見えない場所が、王都の発熱者を抱えているというのが問題だ」


 王女は黙った。

 それは、彼女にも意味が分かったのだろう。

 見えない場所に、病人が集まっている。

 記録も欠けている。

 教会が神託を管理している。

 そのすべてが同じ場所にある。

 偶然で片づけるには、線が太すぎる。

 トビアスが震える声で言った。


「研究院にも、治癒院の実数は出てきません。治癒魔法の件数だけです」


「なぜ疑わなかった」


 俺が聞くと、彼は俯いた。


「教会の記録だからです」


「教会の記録は間違えないと?」


「そう教わってきました」


 リュカがトビアスを見た。

 唸らない。

 今の言葉は嘘ではないらしい。

 ただ、信じてきた。

 それだけだ。

 それが一番厄介なこともある。

 治癒院の門が開いた。

 中から、白い法衣を着た男が出てくる。

 年は50代ほど。銀糸の刺繍が入った法衣から見て、高位聖職者だろう。

 男は王女を見ると、穏やかに微笑んだ。


「エレオノーラ殿下。急なお越しとは珍しい」


「ベルグラン大司教」


 王女の声が少し硬くなった。

 大司教。

 教会側の権力者。

 俺は彼を見た。

 数字は浮かばない。

 ベルグラン大司教の情報も、何も見えない。

 敵対率も、嘘も、発熱率も。

 空白。

 それが異様だった。

 ベルグランは俺へ視線を向けた。


「そちらが、噂の統計士殿ですか」


「ユリウス・レインだ」


「王都を救うためにお戻りになったとか」


「戻ったわけではない」


「では?」


「被害を減らしに来た」


 ベルグランは微笑んだ。


「それは尊いことです。ですが、ここは教会の治癒院。病の者を救う場所です。混乱を招く調査は控えていただきたい」


 言葉は柔らかい。

 だが、扉は閉じられている。

 リュカが小さく唸った。

 ベルグランの視線がリュカに移る。

 その一瞬、彼の笑みがわずかに薄れた。


「……珍しい獣ですね」


「俺にもよく分からない」


「分からないものをここへ連れてくるのは、感心しませんな」


「分からない記録を神託として扱うよりはましだ」


 空気が止まった。

 トビアスが顔を青くする。

 イリスは目を伏せた。

 ラウルは無言で姿勢を正す。

 王女だけが、俺を止めなかった。

 ベルグランは笑みを保っていた。

 だが、目だけは笑っていない。


「神託を軽んじるのですか」


「記録として読むべきだと言っている」


「信仰を数字で測るおつもりか」


「発熱者数と死亡者数は測るべきだ」


「治癒院では、神の御手により多くの者が癒やされています」


「何人が発熱し、何人が悪化し、何人が回復し、何人が死んだんだ」


 ベルグランは答えなかった。

 沈黙が返る。

 リュカがさらに低く唸った。

 嘘ではない。

 答えていない。

 それだけなのに、嘘より厄介だった。


「記録はあるのか」


 俺は聞いた。


「教会の記録は、教会が管理しています」


「つまり、見せないと」


「必要があれば、適切な手続きを経て」


「その間に発熱者は増える」


「不安を煽るべきではありません」


 またその言葉だ。

 不安を煽るな。

 混乱を招くな。

 平静を保て。

 その言葉の下で、何人が倒れたのか。

 俺は一歩前へ出ようとした。

 リュカが強く袖を噛んだ。

 今度は止める力だった。

 行くな。

 入るな。

 そういう力だった。

 俺は足を止めた。

 リュカがここまで嫌がる場所へ、無理に入るべきではない。

 少なくとも、準備なしでは。

 王女が前へ出た。


「ベルグラン大司教。王女宮の名で、治癒院の発熱者数と死亡者数の提出を求めます」


「殿下。それは王女宮の権限を越えます」


「では、国王陛下の署名を得ます」


「陛下にご負担をかけるほどのことではありません」


「何人死ねば、負担に値しますか」


 王女の声は静かだった。

 ベルグランの笑みが消えた。

 一瞬だけ。

 すぐに戻った。


「殿下は、お疲れのようです」


「いいえ。ようやく目が覚めただけです」


 ラウルが一歩前に出た。

 衛兵たちもそれに続く。

 武力で押し入るには足りない。

 だが、王女が退かないという意思は伝わる。

 ベルグランはしばらく王女を見つめていた。

 やがて、静かに言った。


「今日中に、概要だけでも出しましょう」


「数字で」


「可能な範囲で」


「確かな数字で」


 王女は繰り返した。

 ベルグランは微笑んだ。


「……努力いたします」


 それは、しない、という意味に近かった。

 だが、ここで押し切るには材料が足りない。

 数字も見えない。

 俺は歯を食いしばった。

 治癒院の扉が閉じられる。

 その瞬間、リュカの唸り声がやんだ。

 白い獣は俺の足元で、小さく震えていた。

 俺はしゃがみ、リュカの背に手を置いた。

 少し冷たい。


「大丈夫か」


 リュカは答えない。

 ただ、俺の手に額を押しつけた。

 王女が低い声で言った。


「ここが、数字が見えない場所なのですね」


「ああ」


「教会の神託と関係があると思いますか」


「分からない」


 俺は治癒院を見上げた。

 白い石の建物。

 清潔な階段。

 閉じられた扉。

 そこには、何の数字も浮かばない。

 だからこそ、確信に近い不安があった。


「ただ、あそこは危ない」


「数字が見えないのに?」


「見えないからだ」


 王女は静かに頷いた。

 イリスが手帳を開く。


「治癒院から実数を取る別の方法を探します」


「患者を運んだ馬車、薬草の搬入、食事の量、洗濯物の数」


 俺は言った。


「中の記録が見えないなら、外へ出る痕跡を見る。直接入らなくても、数は外に漏れる」


 王女の目がわずかに光った。


「王女宮の使用人と衛兵を使います」


「急がないと手遅れになる」


「ええ」


 治癒院の扉は閉じたまま、何も語らない。

 俺の数字も沈黙している。

 だが、外側の世界にはまだ数字がある。


 馬車の数。

 薬草の量。

 洗濯物の重さ。

 食事の残り。

 人は隠しても、動いた痕跡までは完全に消せない。

 数字が見えない場所があるなら、その周りを数えればいい。

 研究院で学んだことが、ようやく少し役に立った気がした。


 リュカはまだ治癒院を見ようとしなかった。

 白い獣が嫌う場所。

 数字が消える場所。

 神託が管理される場所。

 その3つが同じ場所にある。

 偶然ではない。

 だが、まだ証拠は足りない。

 王都の水を分け、発熱者を分け、記録を集める。

 そして、あの見えない場所の外側から、穴を開ける。

 俺はそう決めた。


 治癒院の銀の鐘が、静かに鳴った。

 澄んだ音だった。

 だが俺には、その音が何かを覆い隠す蓋のように聞こえた。

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