第19話 古代文明の災厄探知獣
南門の水場を分ける作業は、予想通り揉めた。
商人は怒り、職人は舌打ちし、旅芸人は大げさに嘆いた。
「水を飲むだけで、なぜ並び直さなきゃならん」
「馬用の水と人用の水を分ける? 今さら何を言ってるんだ」
「建国祭の前に縁起でもない」
「病人扱いする気か」
南門前の広場は、すぐに不満の声で満ちた。
ラウル副隊長は、王女の命令書を手にして動いていた。衛兵たちは水場の周りに縄を張り、桶を3種類に分ける。
飲用。
洗浄用。
馬用。
ただそれだけのことが、ひどく難しい。
人は、水を飲む順番より、自分が後回しにされたという感覚の方を強く覚える。
俺は南門の少し高い石段に立ち、広場全体を見た。
王都南門水場、共有停止前の接触拡大率、61%。
水場分離後の推定、38%。
発熱者確認を加えた場合、29%。
職人宿への連絡が間に合った場合、23%。
数字は下がる。
下がるが、まだ高い。
しかも、対策を守らなければすぐに戻る。
「並ばせるだけでは足りない」
俺が言うと、隣にいたラウルが眉を寄せた。
「では、何を」
「説明する者が必要だ。衛兵が命令するだけだと反発が増える」
「説明ですか」
「飲み水と洗い水を分ける理由。発熱者を別にする理由。商人の荷を止める理由。全部を言わなくていい。短く、同じ言葉で繰り返す」
ラウルは周囲を見た。
「衛兵に説明をさせます」
「声の大きい衛兵より、普段から門で顔を知られている者がいい」
「門番の古株を使えと」
「それと、商人側から1人」
「商人に協力させるのですか」
「商人が商人に言う方が早い」
ラウルは少し考え、部下に指示を出した。
すぐに、年配の門番と、南門商人組合のまとめ役らしい男が呼ばれた。
まとめ役の男は、最初から不満そうだった。
「王女殿下の命令とはいえ、これでは商いが止まります」
「止めたいわけではない。病で倒れる商人を減らしたい」
「病など、まだ噂でしょう」
「発熱患者はすでに増えている」
「王立病院がそう言っているのですか」
「王立病院の記録にある」
男の表情が変わった。
噂と記録では、重さが違う。
「何人です」
「今朝の推定で64人」
「……そんなに」
「そのうち建国祭準備関係者が57%。南部荷扱い関係者が41%。門の水場を使った可能性がある者も多い」
男は唇を引き結んだ。
「水場を分ければ、止まるのですか」
「止まるとは言えない。ただし、広がる速度は下がる」
「断言しないのですね」
「断言できることなら、もっと早く楽に済んでいる」
男は少しだけ眉を上げた。
それから、小さく息を吐いた。
「分かりました。私から商人たちに言います。ですが、王女殿下の印が必要です」
「イリスが持っている」
イリスはすでに命令書の写しを用意していた。
動きが速い。
南門商人組合のまとめ役は、それを受け取ると、門前の商人たちへ向かった。
すぐに怒号が上がった。
だが、先ほどよりは少し短い怒号だった。
怒りながらでも、人は動き始めた。
俺は広場の線を見る。
人の流れ。
水の流れ。
荷の流れ。
赤い線が、少しずつ細くなる。
南門水場から王都中心部への拡散線、強度低下。
接触拡大率、38%から32%。
悪くない。
そう思った瞬間、リュカが俺の足元で低く唸った。
俺は視線を下げる。
リュカは水場ではなく、南門の内側を見ていた。
その先には、王宮前広場へ続く大通りがある。
「まだ別の線か」
リュカは答えない。
白い毛が少し逆立っている。
俺の視界に、別の数字が浮かぶ。
王宮前仮設厨房、24時間以内の感染拡大率、66%。
職人宿共同水場、発熱者集中率、49%。
南門だけでは足りない。
分かっていた。
分かっていたが、体が追いつかない。
「次は仮設厨房だ」
俺が言うと、ラウルが顔をしかめた。
「今からですか」
「今からだ」
「こちらの指揮は」
「商人組合と門番に続けさせる。衛兵を2人残す。あなたは一緒に来てくれ」
「分かりました」
ラウルは即答した。
ありがたい。
命令を理解してから動く人間は多いが、危険の方向を理解して動ける人間は少ない。
王女は旧税関倉庫から出てきて、俺たちへ近づいた。
「南門は」
「少し下がりました」
「少し」
「十分ではない」
「でしょうね」
王女は南門の混乱を見た。
その顔に苛立ちはあるが、驚きはない。
「王宮前広場へ向かうのですね」
「仮設厨房と職人宿を見ます」
「その前に、もう1つだけ聞いてください」
「今でなければならない話か」
「今でなければ、あなたは聞かずに走るでしょう」
否定できなかった。
王女はイリスへ目配せした。
イリスが抱えていた古い記録の写しを開く。
「白い獣についてです」
リュカが、俺の足元から王女を見上げた。
「その記録には、白き小獣とありました。ですが、別の写しでは違う名で呼ばれています」
「何と」
「災厄探知獣」
その言葉が出た瞬間、リュカが動きを止めた。
まるで、その名を知っているように。
俺の視界に数字が浮かぼうとして、浮かばなかった。
代わりに、不明、という文字が出る。
白い獣リュカ、災厄探知獣との関連性、不明。
古代記録との一致、不明。
主人公との接続、不明。
全部、不明。
なのに、胸の奥だけがざわつく。
「災厄を探知する獣、か」
「古代都市群では、井戸や穀物庫の異常が起きる前に、この獣が現れたとされています」
「病や飢饉を知らせたのか」
「そのように読めます。ただし、教会はこの部分を別の意味に解釈してきました」
「別の意味?」
「神が罰を下す前に遣わす獣、と」
俺は思わず顔をしかめた。
「便利な解釈だな」
「ええ。罰なら、人は原因を調べなくて済みます」
王女の声には、静かな怒りがあった。
その怒りは信用できる気がした。
少なくとも、リュカは唸らない。
「災厄探知獣は、数を見る者の傍を離れないと書かれていた」
俺は言った。
「なぜだ」
「分かりません」
「王女殿下でも?」
「分からないものを、分かると言うつもりはありません」
その返答はよかった。
分からない、と言える人間は、まだ話ができる。
王女は続けた。
「ただし、別の一節があります」
イリスが紙をめくる。
王女は古語の写しを見ながら、ゆっくり訳した。
「白き小獣、災いを避けるにあらず。災いへ至る線を嗅ぎ、数を見る者の目を借りる」
俺は黙った。
目を借りる。
嫌な言葉だった。
「リュカが、俺の目を使っていると?」
「可能性の話です」
「逆かもしれない」
俺が言うと、王女は目を上げた。
「逆?」
「俺がリュカの探知を、数字として見ているのかもしれない」
口にしてから、胸の奥が冷えた。
考えないようにしていた可能性だった。
リュカが来てから、数字の見え方は明らかに変わっている。
最初は確率だけだった。
その後、線が見えた。
危険な場所が見えた。
判定が見えた。
不明まで見えるようになった。
リュカが近くにいるほど、見え方が鋭くなる気がする。
俺が未来を見ているのではなく。
リュカが災厄を嗅ぎ、俺がそれを数字にしているのだとしたら。
俺たちは、どちらがどちらを使っているのか。
王女はすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって誠実だった。
「その可能性もあります」
「嫌な正直さだ」
「あなたに合わせました」
少しだけ皮肉が返ってきた。
イリスが口元を押さえている。
トビアスは相変わらず青い顔だ。
リュカは俺の足元に寄り、前足を靴に乗せた。
今度は踏むというより、置いた。
使っているのか。
使われているのか。
そんな問いは、リュカには関係ないのかもしれない。
ただ災厄があり、そこへ行く線があり、止めるべき人間がいる。
それだけなのかもしれない。
「分かった」
俺は言った。
「この話は後で続ける。今は仮設厨房だ」
王女は頷いた。
「私も行きます」
「危険だ」
「王女が来れば、動く者もいます」
「王女が倒れれば、混乱が増える」
「それも事実です」
「では」
「ですが、私が安全な場所で命令だけ出しても、王太子府と儀典官は動きません。建国祭を止めるなら、王族の姿が必要です」
数字が浮かぶ。
王女同行時の現場命令実行率、64%。
王女非同行時、31%。
王女感染リスク、12%。
王女同行による政治的反発率、48%。
どれも面倒な数字だった。
「王女殿下」
「何でしょう」
「あなたも、十分嫌な数字を持っている」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてはいない」
「では、必要な評価として受け取ります」
王女は薄く笑った。
この人も、なかなか厄介だ。
リュカは王女を見ても唸らない。
それだけで、今は十分だった。
仮設厨房へ向かう途中、王都の大通りを通った。
祭りの飾りは美しい。
花輪。旗。金色の布。菓子の匂い。楽師の調律の音。
その間を、人が行き交う。
咳をする職人。
水桶を運ぶ少年。
汗を拭う料理人。
荷車の陰で座り込む女。
彼らの上に、数字が浮かぶ。
発熱率、32%。
発症前接触者、推定18人。
重症化リスク、低。
水場接触、あり。
見える。
見えすぎる。
俺は足を止めそうになった。
リュカが袖を噛む。
止まるな。
全部を見るな。
たぶん、そう言っている。
全部は救えない。
だから、最も広がる場所から止める。
俺は仮設厨房へ向かった。
王宮前広場の裏手に作られた臨時厨房では、巨大な鍋がいくつも並び、料理人たちが忙しく動いていた。
水桶は12個。
そのうち、飲用と洗浄用が混ざっているものが7個。
発熱している料理人、推定5人。
症状を隠している者、3人。
仮設厨房を経由した感染拡大率、66%。
俺が数字を見た瞬間、リュカが低く唸った。
白い獣は、厨房の中央にある大きな水桶を見ている。
その水桶の縁に、青黒い線が絡みついて見えた。
俺はすぐに言った。
「その桶を止めろ」
料理長らしき男が振り返る。
「何だ、あんたは」
ラウルが前へ出た。
「南門衛兵隊だ。王女殿下の命令により、水場を確認する」
「王女殿下?」
料理長の顔色が変わる。
王女が一歩前に出た。
「その桶の水を、今すぐ使わないでください」
厨房が静まり返った。
王族の言葉は、やはり強い。
料理長は慌てて膝をつきそうになったが、王女が手で制した。
「礼は不要です。桶を分けてください。飲用、洗浄用、廃棄用。発熱している者は申し出なさい。今申し出れば罰しません」
誰も動かない。
リュカが、厨房の隅にいた若い料理人へ近づいた。
その青年は顔色が悪く、首元に汗が浮いている。
リュカが彼の前で止まる。
青年の手が震えた。
「……少し、熱があります」
彼が言った。
その1人をきっかけに、ほかの2人も申し出た。
症状を隠している者、3人から0人。
厨房経由の感染拡大率、66%から43%。
まだ高い。
だが、下がった。
王女が俺を見た。
「次は?」
「水桶を全部確認する。使った布も分ける。料理は火を通すものだけ残す。生の果物と水で冷やした菓子は止める」
料理長が青ざめた。
「それでは献立が」
「献立と発熱者、どちらを減らしたい」
言葉が鋭くなりすぎた。
だが、王女が続けた。
「献立は私が変更を認めます。責任は王女宮が持ちます」
料理長は黙り、深く頭を下げた。
リュカが俺の足元に戻る。
白い毛は少し逆立ったままだ。
災厄探知獣。
その言葉が頭の中で繰り返される。
リュカは災厄を避けるのではない。
災厄へ至る線を嗅ぐ。
そして、数を見る者の目を借りる。
もしそれが本当なら、俺が見ている数字は俺だけのものではない。
王都の厨房で、最初の水桶が廃棄された。
濁った水が排水溝へ流れていく。
俺の視界の中で、青黒い線が1本、細くなった。
まだ絡み合った線は多い。
それでも、1本は切れた。
今は、それで十分だった。




