第18話 神託の記録
旧税関倉庫は、南門の東にあった。
王都へ入る荷から税を取っていた古い建物で、今はほとんど使われていないらしい。石造りの壁には蔦が這い、入口の看板は半分腐っている。建国祭の華やかな旗が揺れる大通りから少し外れただけで、空気が急に湿っぽくなった。
隠れて話すには、都合がいい場所だ。
だからこそ、嫌な場所でもある。
王都の南門では、今日も人が流れ込んでいる。
商人、職人、旅芸人、貴族の従者、神殿の巡礼者。
その誰もが、同じ水場を使い、同じ門を通り、同じ祭りへ向かっている。
俺の視界には、いくつもの線が浮かんでいた。
水の線。
人の線。
発熱の線。
嘘の線。
そのどれもが、南門の内側で絡まり合っている。
南門周辺、24時間以内の接触者数、推定1,400人。
発熱者混入率、4.6%。
水場共有者、推定520人。
建国祭強行時の大規模感染発生率、76%。
昨日より、少し悪い。
たった1日で悪くなる。
だから、待てない。
「こちらです」
イリスが倉庫の裏口を開けた。
中は薄暗かった。
埃の匂いと、古い木箱の匂いがする。窓には布がかけられ、外から中の様子は見えない。入口付近に南門衛兵隊の男が2人立っている。どちらも若くはない。飾りの兵ではなく、実務を知っている顔だった。
倉庫の奥に、簡素な机が置かれていた。
その前に、1人の女性が立っている。
年は20代半ばだろうか。
深い青の外套を羽織り、金色の髪を低い位置でまとめている。宝石はほとんど身につけていない。だが、姿勢と視線だけで、ただの貴族ではないと分かる。
エレオノーラ・アルデリア王女。
王位継承順位は高くないが、王宮内では記録と外交に強い王女として知られている。
少なくとも、俺の記憶の中ではそうだった。
王女は俺を見ると、軽く頭を下げた。
「ユリウス・レイン殿。追放した上、急な呼び立てをお許しください」
王族に頭を下げられると、反応に困る。
こちらも礼をするべきなのだろうが、どの深さが正解なのか分からない。
俺は少しだけ頭を下げた。
「王女殿下が、追放された統計士に頭を下げる必要はありません」
トビアスが横で小さく息をのんだ。
イリスは無表情だったが、目だけが少し笑っている。
王女は驚かなかった。
「追放したのは研究院であって,王女殿下ではないはずです」
「ですが王国の機関です。王族の一人として謝罪いたします」
まっすぐな言葉だった。
まっすぐすぎて、疑いたくなる。
俺の視界に数字が浮かぶ。
エレオノーラ王女、情報隠匿率、41%。
敵対率、6%。
協力意図、73%。
政治的利用意図、52%。
正直だが、無垢ではない。
当然だ。
王族が無垢で生きていけるはずがない。
リュカが俺の肩の上から王女を見ている。
唸らない。
ただ、じっと見ている。
王女もまた、リュカを見た。
その目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「その子が、白い獣ですね」
「リュカです」
「リュカ」
王女は小さく名を繰り返した。
リュカの耳が動く。
王女は手を伸ばさなかった。
それは賢明だった。
「古い記録に、その姿に似た獣が出てきます」
「王宮禁書庫の災厄記録ですね」
王女はイリスを見た。
イリスがわずかに頭を下げる。
「お伝えしました」
「そう」
王女は机の上に置かれた革表紙の冊子へ手を置いた。
「では、話が早いですね」
「早い話ほど、たいてい既に遅れています」
「耳が痛い言葉です」
「事実です」
「ええ」
王女は頷いた。
ここまで簡単に頷かれると、逆にやりづらい。
研究院の人間なら、まず反論する。
王太子府なら、体面の話をする。
王女は、事実です、と言った。
その言葉に嘘の匂いはなかった。
リュカも反応しない。
「まず王都の状況を確認したい」
俺は言った。
「南門の水場、職人宿、仮設厨房、王立病院裏の洗い場。この4つを今すぐ分ける必要があります。建国祭の人流を減らすか、少なくとも発熱者と南部荷扱い者を会場準備から外すべきです」
「あなたの先触れは読みました」
「一部は止められたと聞きました」
「止めた者の名も把握しています」
「なら適切な対応を」
「後でします」
王女の声は静かだった。
「今は、人を動かす方が先です」
俺は少しだけ黙った。
その判断は正しい。
腹立たしさを処理しても、発熱者は減らない。
「あなたも慣れないなら口調を崩してもらって構いませんわ」
「じゃあ、遠慮なく」
「南門衛兵隊の副隊長を呼んでいます」
王女が言うと、奥にいた壮年の男が一歩前へ出た。
「副隊長のラウル・ベックです」
日焼けした顔に、短く刈った髪。肩幅が広く、声が低い。
ラウル、命令実行率、82%。
政治的忖度率、18%。
現場判断力、76%。
悪くない。
「南門の水場を分けられるか」
俺が聞くと、ラウルはすぐに答えた。
「命令があれば可能です。ただし、商人が騒ぎます」
「騒がせていい。水桶を共有させるな。飲用、洗浄、馬用を分ける。発熱者は門内へ入れず、別の場所へ」
「発熱者を見分ける人手が足りません」
「職人宿と荷下ろし場から優先して見る。全員を完全に見る必要はない。広がる場所から手を入れる」
ラウルは眉を寄せたが、反論はしなかった。
「分かりました」
王女がイリスへ目を向ける。
「私の印で命令書を出します。衛生局を待たずに動かして」
「はい」
イリスはすぐに紙を広げた。
動きが速い。
王宮の人間にしては、無駄な確認が少ない。
王女は俺へ向き直った。
「あなたには、このあと南門の水場を直接見ていただきたい。ただ、その前に見せたい記録があります」
「今か」
「今です」
「発熱者は増えている」
「その発熱者が増えている理由に、関係するかもしれません」
その言葉で、リュカが初めて王女に向かって小さく唸った。
敵意ではない。
警戒。
王女は動かなかった。
「白い獣は、嘘を嫌うと聞いています」
「誰から」
「イリスから。正確には、あなたの先触れを運んだ者たちの噂から」
「噂は速いな」
「王都では、特に」
王女は革表紙の冊子を開いた。
古い紙の匂いが広がる。
文字は現在の王国文字ではない。古語に近い。俺も研究院で少しだけ読んだことがあるが、すらすら読めるほどではない。
王女はその中の一節を指で示した。
「これは建国以前の記録です。王国が成立する前、古代都市群が崩壊した時代のものとされています」
「なぜ禁書庫に」
「王家と教会が、長く管理してきたからです」
「管理というより隠蔽では」
トビアスがまた小さく息をのむ。
王女は気にしなかった。
「ここに、こうあります。白き小獣、災いの前に現る。井戸に伏し、穀に牙を向け、虚言の者を避く。人の目には獣なれど、数を見る者の傍を離れず」
数を見る者。
俺の手が止まった。
リュカが肩の上で体を硬くする。
「続きは」
俺の声は、自分でも分かるほど低かった。
王女はページをめくった。
「数を見る者、王を救うにあらず。数を用い、数に縛られ、やがて数に呑まる。白き小獣、その者の傍にありて、災いの線を嗅ぐ」
倉庫の中が静まり返った。
ラウルも、イリスも、トビアスも、何も言わない。
俺は笑おうとした。
無理だった。
「古い比喩だろう」
リュカが俺の頬を尾で叩いた。
痛くはない。
だが、嘘をつくな、と言われた気がした。
王女は静かに俺を見ている。
「私も、最初は比喩だと思いました。ですが、あなたの報告書には、崩壊確率という言葉がありました」
「統計的推測だ」
「南部の疫病を止めた」
「井戸の汚染を見つけただけだ」
「麦倉の損失を予測した」
「湿気と鼠を見た」
「魔物の進路を読んだ」
「地形を見れば」
「そして、その白い獣はあなたから離れない」
反論が止まった。
リュカは肩の上で動かない。
王女は冊子を閉じた。
「私は、あなたを神託の人間として扱うつもりはありません」
「神託などではない」
「ええ。私もそう思います」
俺は王女を見た。
「どういう意味だ」
「この記録は、長く神託と呼ばれてきました。けれど、私には違うものに見えます」
王女は机の上に、もう1枚の紙を広げた。
それは古い記録の写しではない。
現代語で整理された表だった。
古代都市の井戸の異常。
穀物庫の損失。
人口移動。
獣の移動。
発熱者数。
暴動。
崩壊。
それらが、年ごと、地域ごとに並べられている。
俺はその表を見た瞬間、息をのんだ。
これは神話ではない。
記録だ。
災害記録。
それも、かなり精密な。
「神託ではありません」
王女が言った。
「これは、おそらく予測の記録です」
視界の端に数字が浮かぶ。
王宮災厄記録、現在の王都危機との一致率、64%。
白い獣との関連性、不明。
数を見る者との関連性、71%。
古代都市群崩壊との構造的類似、58%。
頭の奥が痛む。
俺は机に手をついた。
リュカが肩から机へ降り、冊子の上に前足を置いた。
王女もイリスも動かなかった。
リュカは古い文字の一節を押さえている。
白き小獣。
数を見る者。
災いの線。
俺はリュカを見た。
「お前、知っているのか」
リュカは答えない。
答えられないのか、答えないのか。
それすら分からない。
ただ、薄い金色の目が、こちらを見上げていた。
今までで一番、人間のような目だった。
王女が静かに言った。
「王家と教会は、この記録を神託として扱ってきました。未来を知るためのものとして」
「未来を知るため」
「ええ。そして、その神託の管理を担ってきたのが教会です」
教会。
治癒魔法の実施件数。
実数の不明な発熱者記録。
神託。
王宮禁書庫。
白い獣。
線が増える。
水の線ではない。
人の線でもない。
もっと古い線だ。
王都の地下深くから、王宮と教会と研究院へ伸びているような、見えない線。
俺は目を閉じた。
見すぎるな。
リュカの前足が、俺の手に触れた。
小さい。
温かい。
少しだけ、呼吸が戻る。
「王女殿下」
俺は目を開けた。
「今すぐ神託の話を深掘りする余裕はない」
「分かっています」
「南門の水場を止める。職人宿を分ける。仮設厨房を確認する。発熱者を会場から外す。まずそれだ」
「ええ」
「ただし、そのあとで、この記録を全部見せてください」
王女は頷いた。
「そのつもりです」
「教会には」
「知らせません」
リュカは唸らなかった。
王女は少なくとも、その点では本気らしい。
ラウルが命令書を受け取り、衛兵たちを連れて外へ出た。
イリスはさらに数枚の書類を書き始める。
トビアスは隅で青い顔をしていたが、逃げなかった。
俺は古い冊子をもう一度見た。
神託の記録。
そう呼ばれてきたもの。
だが、そこに並んでいたのは、井戸、穀物、人口移動、病、暴動、崩壊だった。
神ではない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
それは、誰かが世界を観察し、記録し、予測しようとした痕跡だ。
そして、その先に何があったのか。
古代都市群は崩壊した。
数を見る者は、数に呑まれる。
白い小獣は、その傍を離れない。
俺はリュカを見た。
リュカは何も言わない。
だが、俺から目をそらさなかった。
倉庫の外では、南門の人波がまだ動いている。
王都は祭りの準備を続けている。
俺は、神託の記録を閉じた。
今はまず、水を分けなければならない。
未来が何であれ、人は今日の水で倒れるのだから。




