第17話 王女の密使
宿場町から先触れを出した翌朝、俺たちは王都へ向かった。
トビアスは昨日より口数が少なかった。
彼が隠していた王立病院の記録は、俺の荷袋の奥にある。召喚状とは別に持たされ、俺には見せるなと言われていた紙束だ。
その紙束があるだけで、トビアスの背中は少し小さく見えた。
責める気はなかった。
だが、同情だけで状況がよくなるわけでもない。
王都の発熱患者は、すでに増えすぎている。
発熱患者、推定64人。
王立病院収容余力、残り22床。
薬草在庫、通常時の31%。
建国祭強行時の大規模感染発生率、74%。
この数字が正しいなら、王都はもう警告の段階を過ぎている。
処置の段階だ。
それなのに、研究院は召喚状に「専門的知見を求める」などと書いた。
知見。
便利な言葉だ。
責任を渡さず、作業だけさせたいときに使う。
俺は馬上で手帳を開き、王都到着後の順序を書いた。
南門の井戸。
職人宿。
王宮前広場の仮設厨房。
王立病院裏手の洗い場。
薬草倉庫。
祭りの観覧席。
どこから見るべきか。
全部は見られない。
全部を同時に止めることもできない。
だから、最も広がる場所から止める。
人の流れと水の流れが交わる場所。
そこを切る。
「レイン殿」
前を行くトビアスが声をかけてきた。
「王都へ入ったら、まず研究院へ向かいます。ヴェルナー様が待っていますので」
「先に南門の井戸を見る」
「ですが」
「王都に入る人間と荷が最初に触れる水場だ。そこを見ずに研究院へ行く意味は薄い」
「召喚状では、研究院へ出頭と」
「俺は研究院の人間ではない」
同じことを、もう何度も言っている。
トビアスは困った顔をしたが、言い返さなかった。
肩の上でリュカが尾を揺らす。
王都が近づくにつれ、リュカは落ち着かなくなっていた。
何度も空気の匂いを嗅ぎ、王都の方角を睨む。
白い毛はまだ逆立っていない。
しかし、耳がずっと伏せられている。
「嫌な匂いでもするのか」
俺が小さく聞くと、リュカは俺の襟を前足で押さえた。
逃げるな、という意味にも見える。
行くな、ではない。
少なくとも、今は。
昼前、王都の城壁が見えた。
高い石壁と、青い屋根の尖塔。
遠くから見る王都は、相変わらず立派だった。
建国祭を控えた旗が風に揺れている。南門の外には荷馬車が列を作り、商人や職人、旅芸人たちが入都の順番を待っていた。
これだけの人が、一つの門から入っていく。
それだけで、数字が浮かぶ。
南門周辺、24時間以内の接触者数、推定1,200人。
水場共有者、推定460人。
発熱者混入率、3.8%。
発熱者がそのまま入都した場合の二次感染発生率、61%。
低くない。
いや、高い。
俺は手綱を握り直した。
その時、門へ続く列の横から、1台の荷馬車がゆっくり近づいてきた。
野菜を積んだ、ごく普通の荷馬車に見える。
だが、リュカが反応した。
白い毛がふわりと膨らむ。
敵意ではない。
警戒。
荷馬車の御者台に座っていたのは、灰色の外套を着た女だった。
年は30前後。栗色の髪を布で隠し、商人の妻のような格好をしている。
だが、手綱を持つ手が商人のものではない。
指先にペンだこがある。
馬の扱いにも慣れているが、荷を運ぶ者の粗さがない。
俺の視界に数字が浮かぶ。
身分偽装率、92%。
敵対率、9%。
接触目的、情報伝達、78%。
俺は馬を止めた。
トビアスが不安そうに振り返る。
「どうされました」
「客だ」
「客?」
荷馬車が俺たちの横で止まった。
女は御者台から降りると、深くはないが礼儀正しく頭を下げた。
「ユリウス・レイン様でいらっしゃいますか」
「様はいらない。あなたは?」
「イリス・ヴァルトと申します」
その名に、トビアスが小さく息をのんだ。
知っている名らしい。
俺は彼を見た。
「知り合いか」
「いえ、直接は。ただ、王宮書記官の名簿に」
イリスは静かに微笑んだ。
「元、王宮書記官です。現在は、エレオノーラ王女殿下の私室付きで働いております」
王女。
トビアスの顔がさらに青くなった。
俺は少しだけ警戒を強めた。
「王女殿下が、追放された統計士に何の用だ」
イリスは一瞬だけ目を細めた。
俺の言い方に驚いたわけではない。
むしろ、少し面白がっているようだった。
「殿下は、あなたを追放された統計士とは呼んでおられません」
「では?」
「王国で最も早く崩壊の数字を出した方、と」
それはそれで嫌だった。
「誉め言葉ではないな」
「殿下なりの最大級の評価かと」
「王宮の評価は分かりにくい」
「その点は同意いたしますわ」
イリスは荷台から封書を取り出した。
封蝋には、王立研究院ではなく、細い銀の百合が押されている。
王女エレオノーラの私印だろう。
トビアスが慌てて馬から降りた。
「王女殿下の書状であれば、まず研究院へ」
「トビアス様」
イリスの声は穏やかだった。
だが、トビアスの動きは止まった。
「この書状は、ユリウス・レイン様個人に宛てられたものです。研究院を経由する必要はございません」
「しかし」
「研究院を経由したために、届かなかった書類がいくつあるか、殿下は把握しておられます」
トビアスは黙った。
イリスは俺へ封書を差し出した。
リュカが肩の上から身を乗り出し、封蝋の匂いを嗅ぐ。
唸らない。
少なくとも、嘘の匂いはしないらしい。
俺は封を切った。
書状は短かった。
ユリウス・レイン殿。
あなたの先触れの一部は、王都南門で止められました。
しかし、災害記録部のミナ・クレイルより、同内容の写しが王女宮へ届いています。
王立研究院は、建国祭の縮小に反対しています。
王太子府も、現時点では祭りの継続を望んでいます。
私は、あなたの報告を直接聞きたい。
研究院に入る前に、南門東の旧税関倉庫へ来てください。
エレオノーラ・アルデリア。
最後まで読んで、俺は少しだけ息を吐いた。
先触れの一部は止められた。
予想はしていた。
だが、実際に書かれると腹が立つ。
先触れ到達率、69%。
到達時に一部対策が始まる率、34%。
その34%は、さらに削られているらしい。
「南門で止めたのは誰だ」
俺が聞くと、イリスはすぐに答えた。
「衛生局の一部職員と、王太子府の儀典官です。建国祭前の混乱を避けるため、とのことでした」
「混乱を避けるために、混乱の原因を残すのか」
「王宮では、よくあることです」
「嫌な場所だな」
「ええ」
即答だった。
俺は少しだけイリスを見直した。
少なくとも、王宮を美しく語る人間ではないらしい。
トビアスが不安げに言った。
「レイン殿。研究院への召喚もございます。先に王女宮へ向かうと、ヴェルナー様が」
「怒るだろうな」
「はい」
「それは王都の発熱拡大率を下げるか」
トビアスは口を閉じた。
答えはない。
「イリス。旧税関倉庫には誰がいる」
「エレオノーラ王女殿下、私、王女宮の侍医1人、南門衛兵隊の副隊長、それから災害記録部のクレイル様が来られる予定です」
「ミナが?」
「はい。研究院には内密に動いておられます」
ミナ。
あの地下室で、記録を積み上げていた同僚。
俺の報告書を全部信じたわけではないが、全部を笑うこともしなかった人間。
彼女が動いているなら、まだ少し可能性はある。
俺の視界に数字が浮かぶ。
王女側と協力した場合の初動対策成立率、48%。
研究院のみと協力した場合、27%。
王太子府承認を待つ場合、14%。
南門水場を即時分離した場合の感染拡大抑制率、36%。
数字は、迷う余地をあまり残さなかった。
「旧税関倉庫へ行く」
俺が言うと、トビアスが顔を強張らせた。
「レイン殿」
「あなたは研究院へ先に戻ってもいい」
「それでは、私は任務を」
「あなたの任務は俺を王都へ連れてくることだろう。王都には着いた」
「しかし」
トビアスは何か言いかけて、リュカを見た。
リュカは彼をじっと見ている。
嘘をつくな。
たぶん、そういう目だ。
トビアスは肩を落とした。
「……私も同行します」
「研究院に怒られるぞ」
「どちらにしても怒られます」
「それはそうだ」
「なら、せめて人が死なない方で怒られたい」
その言葉は、悪くなかった。
リュカがトビアスの靴を軽く踏んだ。
トビアスは苦笑した。
「また踏まれました」
「褒められている」
「本当にそうなのでしょうか」
「俺にも分からない」
イリスがそのやり取りを見て、小さく笑った。
「その白い獣についても、殿下はお話を聞きたいと」
リュカの耳が動いた。
俺はイリスを見た。
「王女殿下は、リュカを知っているのか」
「名前までは存じません。ただ、古い記録に似た獣が出てくるそうです」
「古い記録?」
「王宮禁書庫の、建国以前の災厄記録です」
その言葉で、リュカの体が固くなった。
ほんの一瞬。
だが、俺には分かった。
リュカは反応した。
王宮禁書庫。
建国以前。
災厄記録。
白い獣。
俺の視界に数字は浮かばなかった。
代わりに、不明、という文字だけが薄く出た。
まただ。
見えないものが、見える形で現れ始めている。
「……旧税関倉庫へ案内してくれ」
俺は言った。
イリスが頷き、荷馬車へ戻る。
南門の列は相変わらず長い。
人々は笑い、話し、荷を運び、祭りの旗を見上げている。
誰も、自分たちが危険な線の上に立っているとは思っていない。
その足元に、俺にはいくつもの線が見える。
水の線。
人の線。
発熱の線。
責任逃れの線。
嘘の線。
そのすべてが、王都の中心へ向かって絡み合っている。
リュカが俺の肩の上で、小さく身震いした。
俺はその背を軽く押さえた。
「行くぞ」
白い獣は答えない。
ただ、王都の城壁をじっと見ていた。
王都への入門は、王女の密使から始まった。
そして、俺はまだ知らなかった。
王都に隠されているのは、疫病の記録だけではない。
俺が見ている数字と、リュカの正体に関わる記録もまた、王宮の奥に眠っているのだと。




