第16話 白い獣は嘘を嫌う
王都へ向かう街道は、行きと同じ道のはずだった。
だが、見え方は少し違っていた。
来るときは、ただ南へ急いでいた。リーベル村の数字が悪く、間に合うかどうかだけを見ていた。
今は、王都へ戻っている。
戻る、という言葉が気に入らなかった。
研究院に戻るのではない。
王都に戻るのでもない。
被害を減らしに行く。
そう何度も自分に言い聞かせたが、街道の先に王都の尖塔があると考えるだけで、胸の奥に重いものが沈む。
俺を役立たずと呼んだ場所。
俺の報告書を読まずに却下した場所。
今になって、専門的知見を求めるなどと書いて寄越した場所。
戻る理由はない。
それでも、行く理由はある。
その差を、俺はまだうまく飲み込めずにいた。
肩の上で、リュカが前足を俺の襟にかけている。
馬の揺れが気に入らないのか、時々耳を伏せる。だが、降りようとはしない。
「落ちるなよ」
そう言うと、リュカは俺の頬を尾で叩いた。
「今のは俺が悪いのか」
返事はない。
前を行く研究院の使者が、ちらりとこちらを振り返った。
名はトビアスというらしい。
年は30前後。上級研究員付きの使者にしては若いが、馬の扱いは慣れている。灰色の外套は汚れが少なく、革袋には王立研究院の印が入っている。
彼はリュカを見るたび、目をそらす。
怖がっている、というほどではない。
だが、落ち着かないらしい。
リュカもまた、トビアスをじっと見ることがあった。
その目つきが、あまりよくない。
「トビアス」
「はい」
「王都の状況を、もう少し詳しく聞きたい」
彼は馬の速度を少し落とした。
「私が知っていることは、召喚状に書かれている通りです」
リュカの尾が、ぴたりと止まった。
俺は肩の上の白い獣を横目で見る。
リュカはトビアスの背中を見ていた。
「本当に、それだけか」
「はい。私は使者ですので」
リュカの毛が、ほんのわずかに逆立つ。
嘘。
言葉にはならない。
だが、そう見えた。
俺は手綱を引き、馬を止めた。
トビアスも少し遅れて止まる。
「どうされました」
「水を飲む」
俺は馬から降りた。
街道の脇には、小さな石橋がある。その下を細い沢が流れていた。リーベル村での経験以来、沢の水をそのまま飲む気にはなれない。
俺は革袋から煮沸して冷ました水を出し、一口飲んだ。
リュカは肩から降りると、トビアスの馬の前へ歩いていった。
トビアスの馬が落ち着きなく鼻を鳴らす。
「その獣を、あまり近づけないでいただけますか」
「噛みはしない」
「そういう問題では」
「では、どういう問題だ」
トビアスは黙った。
リュカは彼の足元に座り、薄い金色の目で見上げている。
逃がさない、と言っているようだった。
俺は水袋の栓を閉めた。
「もう一度聞く。王都の状況は、召喚状に書かれた通りだけか」
「……はい」
リュカが低く唸った。
トビアスの顔色が変わる。
白い獣は、普段ほとんど声を出さない。
そのリュカが唸ると、人は思ったより動揺する。
「リュカは嘘が嫌いらしい」
「嘘など」
「では、隠していることか」
トビアスは視線をそらした。
分かりやすい。
嘘をつくのが下手だ。
俺には数字が浮かぶ。
トビアス、情報隠匿率、88%。
悪意による隠匿率、14%。
命令による隠匿率、73%。
個人的な恐怖による沈黙、61%。
悪人ではない。
だが、言っていないことがある。
「オスカーに口止めされたのか」
トビアスは肩を揺らした。
肯定と同じだった。
「言え」
「言えば、私は職を失います」
「言わなければ、王都で人が死ぬ可能性が上がる」
「そんなことを言われても、私は」
彼の声が震えた。
俺は少し息を吐いた。
脅したいわけではない。
だが、時間がない。
それでも、目の前の男をただ責めれば、口はさらに閉じる。
セラなら、別の言い方をするだろう。
強い人から休んで。
弱い人を守るために。
あの言葉を思い出す。
「トビアス。黙っていた場合、責任を負わされるのは誰だ」
彼は眉を寄せた。
「え?」
「上級研究員か。院長か。王太子府か。それとも、使者であるおまえか」
トビアスは黙った。
答えは見えていた。
責任転嫁される率、67%。
その対象、トビアス、42%。
「命令に従っただけのつもりかもしれない。だが、何か起きれば、書類を運んだのはおまえだ。報告を伝えなかったのもおまえだ。そう言われる」
「そんな」
「研究院は、そういう場所だ」
自分で言って、少し嫌になった。
だが、否定はできない。
トビアスの顔から血の気が引いた。
彼は馬から降り、革袋の奥に手を入れた。
「……召喚状とは別に、持たされています」
「何を」
「王都の発熱患者の簡易記録です。ただし、あなたには見せるなと」
「俺に見せるために呼んだのではないのか」
「研究院で、ヴェルナー様の立ち会いのもとで確認させると」
「つまり、先に俺が内容を見て対策を出すのを避けたかったわけか」
トビアスは答えない。
リュカがまた低く唸った。
「分かった。出してくれ」
彼は薄い紙束を取り出した。
王立病院の簡易記録。
発熱患者数。
職種。
居住区。
接触した荷。
治癒魔法の実施有無。
死亡者数。
字は乱れている。
急いで写したのだろう。
俺は紙を広げた。
視界の端に数字が浮かぶ前に、紙の数字が目に入った。
発熱患者、3日前は7人。
2日前は19人。
昨日は38人。
今朝の時点で、推定64人。
倍加時間、およそ1日半。
建国祭準備関係者、全体の57%。
南部荷扱い関係者、41%。
水場共有者、不明。
王立病院収容余力、残り22床。
薬草在庫、通常時の31%。
俺は息を止めた。
これは、召喚状に書かれていた「発熱患者の増加」などという穏やかな話ではない。
明らかに拡大している。
王都発熱拡大率、68%から82%。
建国祭強行時の大規模感染発生率、74%。
王立病院機能不全発生率、58%。
薬草不足による重症化率上昇、43%。
「遅い」
声が出た。
自分でも驚くほど低い声だった。
トビアスが身をすくめる。
「申し訳ありません」
「謝る相手は俺ではない。だが、遅い」
俺は紙束をめくる。
発熱者の分布。
王都東区の職人宿。
南門の荷下ろし場。
王宮前広場の観覧席建設班。
祭り用の臨時厨房。
水場が共通している。
水桶、手桶、調理場、職人宿。
線が見えた。
赤い線ではない。
青黒い流れ。
水の流れと人の流れが、王都の中で絡み合っている。
その交点がいくつも光る。
危険点。
王都南門井戸。
職人宿共同水場。
王宮前広場仮設厨房。
王立病院裏手の洗い場。
目の奥が痛い。
「レイン殿?」
トビアスの声が遠い。
リュカが俺の足元へ戻り、外套の裾を噛んだ。
見すぎるな。
そう言っている気がした。
俺は目を閉じた。
数字と線が、暗闇の中にも残る。
数秒かけて、ようやく消えた。
「予定を変える」
俺は言った。
「王都へ直行しない」
トビアスが目を見開いた。
「なぜですか。急がなければ」
「急ぐ。だからこそ、先に手を打つ」
「どういう意味ですか」
「この先の宿場町に寄る。そこから王都へ先触れを出す。南門井戸を閉じろ。職人宿の水場を分けろ。臨時厨房の水桶を確認しろ。発熱者を会場準備から外せ。薬草は王立病院ではなく、症状別に分けて配れ」
「そんな命令、私たちには」
「命令ではない。警告だ。ミナに届ける。災害記録部から衛生局へ回させる」
「ヴェルナー様の許可なく?」
「許可を待つと数が増える」
トビアスは言葉を失った。
リュカが彼を見上げる。
今度は唸らない。
ただ、じっと見ている。
トビアスは唇を噛んだ。
「私は……王都へ戻ったら、罰を受けるかもしれません」
「可能性はある」
「そこは否定してくれないんですね」
「嘘になる」
彼は小さく笑った。
ひどく弱い笑いだった。
「あなたは、本当に嫌なことを言う方ですね」
「よく言われる」
「でも」
トビアスは紙束を俺へ渡したまま、手を離した。
「持っていてください。私は見なかったことにします」
「それも嘘だ」
リュカが耳を動かす。
トビアスは困ったように眉を下げた。
「では、見たけれど、止めなかったことにします」
「それなら、まだましだ」
俺は紙束をしまった。
リュカがトビアスの足元へ歩いていく。
トビアスは緊張で体を固くした。
リュカは彼の靴の匂いを嗅ぎ、それから前足で軽く踏んだ。
「これは?」
「たぶん、嘘をやめた褒美だ」
「踏まれているのに?」
「身内にする態度らしい」
ギルの言葉を思い出してそう言うと、トビアスは少しだけ笑った。
リュカはすぐに俺の肩へ戻ってきた。
小さな体が、いつもより重く感じる。
「お前、嘘が分かるのか」
俺が小さく聞くと、リュカは答えない。
ただ、俺の頬に額を押しつけた。
それは珍しい仕草だった。
慰めているのか。
叱っているのか。
それとも、急げと言っているのか。
たぶん、全部だ。
宿場町へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
最初に寄った肉串の店の女将、マーサが、俺を見るなり目を丸くした。
「おや、統計士さんじゃないか。今度は何を止めに来たんだい」
「王都の水場だ」
「また大きく出たね」
「大きい方が困る」
マーサは俺の顔を見て、冗談をやめた。
「本当にまずいのかい」
「ああ」
「何をすればいい」
その即答に、少し驚いた。
「聞くのか」
「前に聞いて、納得したからね」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
俺は店の奥に紙を広げた。
王都へ向かう先触れを3通。
1通はミナへ。
1通は王立病院へ。
1通は南門衛兵隊へ。
同じ内容を少しずつ変えて書く。
水場を分けろ。
発熱者を会場から外せ。
南部荷扱い者の名簿を作れ。
井戸と水桶を確認しろ。
治癒魔法の回数ではなく、発症者数を記録しろ。
建国祭の人流を減らせ。
書いている間、リュカは紙の端を前足で押さえていた。
また邪魔だった。
だが、どかそうとは思わなかった。
トビアスは店の隅で黙って立っていた。
マーサは馬を出せる者を探しに行った。
外では、宿場町の人々が荷の動きを止め、水桶を洗い始めている。
リーベル村で起きたことが、ここにも少し伝わっていたらしい。
人は噂で動く。
悪い噂も、よい噂も。
なら、今だけは使わせてもらう。
未来を見ている男が、王都の水を止めろと言っている。
そう伝わっても、今だけは構わない。
俺はそう思った。
嘘ではない。
完全な真実でもない。
だが、人を動かすには、正しい説明だけでは足りないと、もう知っていた。
手紙を書き終えたとき、リュカが窓の外を見た。
王都の方角だ。
夕暮れの空の下、遠くに尖塔がかすかに見える。
俺の視界に数字が浮かぶ。
先触れ到達率、69%。
到達時に一部対策が始まる率、34%。
建国祭強行率、81%。
まだ悪い。
だが、何もしないよりはましだ。
リュカが俺を見上げた。
その目は、嘘を許さない目だった。
俺は小さく頷いた。
「分かっている」
王都へ戻れば、たぶん嘘が増える。
体面の嘘。
責任逃れの嘘。
安心させるための嘘。
混乱を避けるための嘘。
そして、俺自身の嘘。
大丈夫だ。
平気だ。
まだ動ける。
リュカは、きっとその全部を嫌う。
面倒な獣だ。
だが、今はその面倒さが必要だった。




