第15話 戻る理由がない
出発の朝、リーベル村は霧に包まれていた。
井戸の縄は、まだ張られている。
麦倉の前には、色分けした木札が並んでいる。
水路のそばでは、朝から若者たちが土を掘り返していた。
数日前まで混乱していた村とは思えないほど、それぞれが自分の持ち場を分かって動いている。
水を汲む者。
水を沸かす者。
病人を見る者。
麦を干す者。
水路を直す者。
村は、危機の中で形を変えていた。
そのことに安堵するべきなのに、俺は落ち着かなかった。
リーベル村、7日以内の再悪化率、13%。
セラとギルが手順を確認した場合、11%。
村長が毎朝点検を続けた場合、9%。
数字は悪くない。
悪くないはずだ。
だが、9%は0ではない。
俺は手帳を閉じた。
0ではないものを全部抱え込もうとすれば、どこにも行けなくなる。
その理屈は分かる。
分かるのに、足が重い。
「まだ行かない理由を探している顔ですね」
セラが隣で言った。
彼女は薬草の籠を抱えている。朝の光で見ると、目の下の隈がまだ濃い。
「そんな顔をしていたか」
「していました」
「どんな顔だ」
「村中の桶の数を数え直したい顔です」
「それは、かなり具体的だな」
「実際、さっき数えていました」
見られていたらしい。
俺は咳払いをした。
「桶の数は重要だ」
「重要です。でも、もう記録しました。煮沸用と運搬用も分けました。赤い紐と青い紐もつけました」
「紐が外れたら」
「予備の紐も作りました」
「誰かが間違えたら」
「間違えた時の確認表もあります」
「確認表をなくしたら」
「ギルが木片にも同じ印を刻んでいます」
セラは少しだけ笑った。
「あなたが心配していることの半分くらいは、もう対策済みです」
「半分か」
「残り半分は、たぶん心配しても仕方ないことです」
その言葉は、正しい。
正しいが、難しい。
心配しても仕方ないことを、心配しないで済むなら、苦労はしない。
リュカが俺の足元で、外套の裾を軽く噛んだ。
今回は引き止める力ではなかった。
急かしている。
たぶん。
「お前は行く気なのか」
リュカは返事をしない。
ただ、王都の方角を向いた。
白い背中が、霧の中で少しだけ光って見える。
村長が広場の方から歩いてきた。
手には、乾いた黒パンと燻製肉の包みを持っている。
「持っていけ」
「村の食糧はまだ十分ではない」
「十分ではないが、1人分の旅支度も出せんほどではない」
「返せるか分からない」
「返さなくていい」
村長は包みを俺へ押しつけた。
「代わりに、王都で同じように嫌なことを言ってこい」
「嫌なことを言うのが仕事のようになっているな」
「得意だろう」
「得意ではない」
「好き嫌いと、得意不得意は別だ」
村長はそう言って、わずかに笑った。
俺は包みを受け取った。
「村の点検は、朝と夕方。発熱者は最低3日、記録を続けてくれ。井戸は」
「使わん。水路が安定し、セラがよいと言うまで使わん」
「麦倉は」
「赤い札の袋は焼く。青い札は干す。白い札は高い棚へ。種麦は別にする」
「隣村との交換は」
「水路修理の人手と種麦の相談。ギルを行かせるな、だろう」
「発熱明けだからな」
遠くでギルが「聞こえてるぞ」と怒鳴った。
怒鳴れるなら、回復している。
俺は少しだけ安心した。
ギルは鍬を肩に担ぎ、こちらへ歩いてきた。
「おい。俺を病人扱いしたまま出て行くな」
「では、病み上がり扱いにする」
「同じだろ」
「少し違う」
「どこが」
「病み上がりは、文句を言う元気がある」
ギルは一瞬ぽかんとし、それから苦笑した。
「お前、本当に最後まで腹が立つな」
「最後ではない」
「戻ってくる気か」
「分からない」
正直に答えると、ギルは真顔になった。
「王都に行ったら、また研究院の連中にこき使われるんじゃないのか」
「可能性は高い」
「行くなよ」
「王都の発熱拡大を抑えられる可能性がある」
「それも数字か」
「ああ」
「で、低いんだろ」
「41%。高くはないが、0ではない」
ギルはため息をついた。
「その言葉、嫌いになりそうだ」
「俺もだ」
そう言うと、ギルは黙った。
少し驚いた顔をしている。
俺自身も、少し驚いた。
本音が出た。
0ではない。
その言葉は、俺を動かす。
同時に、休ませない。
ギルは鍬の柄を地面に突いた。
「なら、せめて王都で倒れるな」
「努力する」
「努力じゃなくて、倒れるな」
「約束はできない」
「そこは嘘でも約束しろよ」
リュカが俺の靴を踏んだ。
ギルがリュカを指差す。
「ほら、白いのもそう言ってる」
「リュカは嘘を嫌う」
「じゃあ本気で約束しろ」
面倒なことになった。
だが、ギルの顔は真剣だった。
セラも、村長も、同じように俺を見ている。
俺は少し考えた。
「倒れない努力をする。危ないときは、自分で危ないと言う」
「弱い約束だな」
「今の俺にできる最大値だ」
ギルはしばらくこちらを見て、やがて頷いた。
「なら、それでいい」
村の入口に、研究院の使者が馬を連れて待っていた。
彼は昨夜より顔色がよくなっている。村で出された煮沸水と粥を素直に食べたらしい。
「レイン殿。ご決断は」
「王都へ行く」
使者の顔に安堵が広がった。
「ありがとうございます。では、すぐに」
「勘違いしないでくれ」
俺は言った。
「研究院に戻るわけではない」
使者は足を止めた。
「ですが、召喚状には」
「俺は解任された。復職でもないと書いてあった。なら、研究院の人間として戻る理由はない」
「では、何として」
「王都の被害を減らしに行く」
口にした瞬間、自分の中で少し整理がついた。
そうだ。
俺は研究院に戻るのではない。
オスカーに認めてもらうためでもない。
院長に謝らせるためでもない。
追放を取り消してもらうためでもない。
王都で倒れる人間を、少しでも減らしに行く。
それだけだ。
理由は、それで十分だった。
セラが静かに頷いた。
「それなら、行けますね」
「ああ」
「でも、ひとつだけ」
「何だ」
「戻る場所がないと思わないでください」
俺は言葉を失った。
セラは少し恥ずかしそうに視線をそらした。
「この村は、あなたにいてほしいと思っています。ずっといろという意味ではありません。でも、戻る場所の1つくらいにはなれると思います」
村長が咳払いをした。
「まあ、麦倉の点検役くらいなら空けておく」
ギルが笑う。
「井戸の嫌味係でもいいぞ」
「嫌な役ばかりだな」
俺はそう言ったが、胸の奥が少し熱かった。
戻る場所。
研究院を追い出されたとき、そんなものはないと思っていた。
王都に家はあるが、あれは寝るための部屋でしかない。研究院は職場であって、居場所ではなかった。
リーベル村は、まだ数日しか滞在していない場所だ。
それなのに、戻る場所と言われてしまった。
どう返せばいいのか分からない。
分からないので、俺はいつものように事務的に答えた。
「では、麦倉の点検表は残しておく」
セラが笑った。
「本当に、そういうところです」
「悪かった」
「いえ。少し安心しました」
リュカが俺の荷袋の上に飛び乗った。
そのまま当然のように中へ潜り込もうとする。
「お前も来るのか」
リュカは顔だけ出して、俺を見上げた。
来るに決まっている、という顔だった。
「荷物が増える」
リュカは俺の手袋を噛んだ。
「分かった。連れて行く」
セラが小さく笑った。
「最初から決まっていたみたいですね」
「俺の意見は反映されないらしい」
「リュカの方が賢いですから」
「否定しづらい」
使者が困ったように馬の手綱を握っている。
王都へ向かう道は、まだ霧の中にあった。
俺は最後に村を見た。
井戸。
麦倉。
水路。
発熱者の空き家。
子供たちの納屋。
地面に引いた線の跡。
そのすべてに、薄い数字が浮かぶ。
9%。
13%。
21%。
どれも0ではない。
だが、以前よりずっと低い。
俺がいなくても、村は動いている。
それを信じるのも、たぶん必要な仕事なのだろう。
「行ってくる」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
セラが頷いた。
「行ってらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ足が軽くなった。
王都へ戻る理由はない。
研究院へ戻る理由もない。
それでも、行く理由はある。
俺はリュカを荷袋から引っ張り出し、肩に乗せた。
「落ちるなよ」
リュカは俺の襟を前足で押さえた。
落ちる気はなさそうだった。
馬に乗ると、使者が先へ進み始める。
村人たちが手を振った。
ギルは鍬を掲げ、村長は杖を軽く上げた。
セラは、薬草の籠を抱えたまま立っていた。
霧の中へ村が遠ざかる。
視界の端に、王都の数字が浮かぶ。
王都中心部、60日以内の大規模混乱発生率、76%。
建国祭強行時の発熱拡大率、68%。
俺が介入した場合の抑制可能性、41%。
低い。
だが、0ではない。
俺はその数字を見つめた。
そして、初めて少しだけ思った。
0ではないから動くのではなく。
0ではないものを、少しでも上げるために動くのだと。
その違いが何なのか、まだうまく説明できない。
だが、前よりは少しだけ息がしやすかった。




