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第34話 帰る地


四十


 冬の気が、ようやく朝の底へ降りてきていた。


 小墾田宮の庭はまだ白くはならぬ。

 草は朝ごとに色を失い、石は光を返さず、空気だけが薄く硬い。


 その日、鎌足は御食子に伴われ、御座に近い小さな間へ入った。


 広くはない。

 だが、そこで交わされることばは、表の朝議より重かった。

 廊を渡る足音も、戸の開く音も、みな低く吸い込まれるようであった。


 大王が坐しておられた。

 老いは、もう隠しようがない。

 御座の上にあってなお高い。

 だが、その高さを支えるものが、以前より静かに細っているのが見えた。


 嶋大臣もいた。

 この人もまた老いていた。

 肩はなお落ちきらず、目にもゆるみはない。

 されど、若いころのように前へ出ることで場を圧する老いではない。

 多くを見て、なお引かずに残った者の老いであった。


 御食子が進んで礼をし、鎌足もその後ろで深く頭を下げた。


 近う寄れ


 御食子が進み、鎌足も半歩寄った。


 間には火が置かれていた。

 火は小さい。

 そのため、ことばばかりがよく聞こえた。


 嶋大臣が先に口を開いた。


 半島のことは、ひとまず収まりましたな


 大王は少し目を細められた。


 収まったというより、静まったのではないか


 さようにございます


 御食子が受けた。


 兵を渡したゆえに、向こうは和を申し出ました

 されど、和が来たからとて、事が尽きたわけではございませぬ


 嶋大臣が低く笑った。


 そなたらしい

 皆が安んじようとするところで、まだ安んずるなと申す


 御食子は答えなかった。


 大王が火を見たまま言われた。


 安んではならぬのであろうな


 そのことばに、誰もすぐには続かなかった。


 やがて嶋大臣が言った。


 外が静まれば、内を見ねばなりますまい


 その一言で、今日の場が半島のことだけではないと知れた。


 日嗣のことにございますか


 御食子が静かに問うた。


 大王はすぐには答えられなかった。

 かわりに嶋大臣が言った。


 そのことを申さぬまま、いつまでおれるかということよ


 火が、ひとつ小さく鳴った。


 上宮皇子が薨ってより、すでに年を経た。

 決めぬことで朝を保ってきた。

 だが、外へ兵まで渡した今、その決めぬという政は前より重い。

 それを、この場の三人は皆知っているのであった。


 大王が、ゆっくりと言われた。


 朕も老いた


 ことさらに嘆くふうではなかった。

 隠しようのない事実を、御座の上から自ら置かれたのである。


 そして、少し置いて続けられた。


 そなたも老いたな


 嶋大臣は、わずかに頭を下げた。


 老いました


 さらに大王は御食子の方を見られた。


 そなたも、若くはない


 御食子は深く礼をした。


 さようにございます


 朝をここまで保ってきた者どもが、みな若くはない。

 火を囲む狭い間には、そのことだけで足りる重さがあった。


 嶋大臣が静かに言った。


 厩戸がおれば、また違うたのでしょうな


 大王は目を伏せられた。


 違うたであろう


 そう言ってから続けられた。


 あの人は、自ら前へは出すぎず、しかも皆を前へ出さぬようにしておった


 御食子が低く言った。


 そのゆえにこそ、あの方がおられぬことが、いま重いのでございます


 嶋大臣が受けた。


 山背皇子は、父君とは違う


 御食子が少しだけ顔を上げた。


 違う、か


 さよう


 嶋大臣は言った。


 あの御方は静かだ

 静かで、まわりが先に心を正す

 それは父君にもあった

 だが、厩戸はそのまま御座へは上がらなんだ

 子を立てれば、まわりが上宮をそのまま前へ押し出そう


 御食子が言った。


 父君の朝と、子の朝とは、同じ名ではありませぬ


 大王はしばらく黙っておられた。

 やがて、田村は、と問われた。


 御食子が答えた。


 田村皇子は、待つことのできる御方にございます

 軽々には前へ出られませぬ

 されど、待ちながら重さを保たれます


 嶋大臣が低く言った。


 山背は、立つだけで前へ押し出される

 田村は、押し出される前に、自ら重くある

 どちらも厄介だ


 大王は、そこで初めてかすかに笑われた。


 厄介、か


 厄介にございます

 よき御方を立てれば済むというほど、朝は軽くございませぬ


 そのことばは、この場の底を言い当てていた。


 御食子が言った。


 いま決めれば、皆がその決め方を覚えます


 大王が目を上げられた。


 決め方


 はい


 御食子は続けた。


 山背皇子を立てれば、上宮の名がそのまま御座へ立つことを皆が覚えます

 田村皇子を立てれば、また別の筋が御座へ通ることを覚えます

 ただ一人の御方を立てるだけには済みませぬ

 その御方の背にあるものまで、ともに立ちます


 嶋大臣が長く息を吐いた。


 老いてなお、そのようなことを考えねばならぬ

 若いころは、もっと単純であったわ


 大王が言われた。


 若いころは、朝の方がまだ若かったのであろう


 誰もそれに逆らえなかった。


 鎌足は、そのことばを深く覚えた。


 朝の方がまだ若かった。


 それは人の老いではない。

 朝そのものが、まだ多くを抱えずに済んだということなのであろう。


 そのとき、大王が鎌足の方を見られた。


 そなた、何を聞いておる


 突然であった。

 だが、鎌足は慌ててはならぬと思った。


 老いを、でございます


 大王の目がわずかに細くなった。


 老い、か


 鎌足は深く頭を下げたまま言った。


 人の老いではなく、

 朝の老いを聞いております


 間が静まった。


 やがて大王が低く言われた。


 よい耳だ


 それだけであった。

 だが、鎌足にはひどく重く響いた。


 嶋大臣が、ふいに火から目を外し、少し遠くを見るようにして言った。


 老いた者は、帰る地を思うものかもしれぬな


 御食子は、そのことばを受けてもすぐには返さなかった。


 大王が問われた。


 帰る地とは


 嶋大臣は少しだけ笑った。

 だが、その笑いに軽みはなかった。


 若き日を過ごした地

 父祖の縁の深い地

 そういうところでございましょう


 御食子が、そこで初めて嶋大臣を見た。

 嶋大臣は、その視線を避けなかった。


 人は老いると、広く取ったものより、深く知るところを思うのでございます


 だが鎌足には、そのことばがただの感慨ではないと分かった。

 まだかたちを持たぬ望みが、その底にある。


 御食子もまた、それを聞き逃してはいなかった。

 だが、あえて受けずに言った。


 老いたゆえにこそ、なお決めぬこともございます


 嶋大臣が目を戻した。


 決めぬことで、朝が保つか


 いまは


 御食子は答えた。


 まだ、その方が壊れが少うございます


 まだ、か


 その短さが、かえってこの「まだ」が長くは続かぬことを示していた。


 大王が、ゆっくりと立とうとされた。

 女官が一歩寄った。

 だが、手は添えなかった。

 添える前に、大王が立たれたからである。


 今日はここまでにせよ


 その御声で、場は閉じた。


 外へ出ると、冬の空気が間の火よりはっきりと冷たかった。


 御食子はすぐには歩き出さなかった。

 廊の端で一度だけ立ち止まり、庭の向こうを見た。


 鎌足


 は


 いまのことば、何が残った


 嶋大臣どのが、帰る地を思うと仰せられたことにございます


 御食子はわずかにうなずいた。


 それだけか


 大王も老い、

 嶋大臣どのも老い、

 朝を決めぬまま保ってきた者どもが、皆、老いておられることにございます


 御食子は言った。


 よい


 そして続けた。


 老いは、人を弱らせるばかりではない

 隠しておった望みを、外へ出させることがある


 鎌足は黙った。


 嶋大臣は、今日、まだ何も望まれなかった

 だが、望みの置きどころは、もうことばのうちに出ておる


 帰る地、でございますか


 さよう


 御食子は言った。


 人は老いると、どこへ戻るかを思う

 そして、ただ戻るだけでは足りず、

 そこを己の手で確かめたくなる


 鎌足は、そのことばの先をまだ完全には取れなかった。

 だが、次に来るものの気配は感じた。


 日嗣はなお決まらぬ。

 だが、その決まらぬことを支えてきた老いた者ども自身が、もう別のことを望みはじめている。


 その望みが、やがて朝の形へ触れる。


 御食子は歩き出した。

 鎌足もその後ろに従った。


 冬の庭は静かであった。

 だが、その静けさの底で、朝はまた別のところから動きはじめているように思われた。



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