第35話 葛城を望む
四十一
そのことばが表へ出たのは、雪の降らぬ冬の朝であった。
空は白い。
だが、白いまま閉じてはおらぬ。
遠くまで抜けるようでいて、地の上の色だけを静かに奪っている。
鎌足は、その日も御食子のそばにいた。
御屋の中には火が置かれていた。
寒いというほどではない。
だが、その火の届くところより、ことばの届くところの方が広かった。
嶋大臣が来た。
供は多くない。
それでも、その人が戸をくぐると、間の内の空気が少し変わる。
ただ衰えた人の老いではない。
その後ろに、なお多くの手がつながっていることを皆が知っている老いであった。
御食子が礼をし、鎌足もそれにならった。
嶋大臣は坐してしばらく何も言わなかった。
やがて口を開いた。
昨日のことば、そなたも忘れてはおるまいな
忘れてはおりませぬ
では、今日は隠さずに申そう
そのひとことで、今日の用向きは明らかになった。
嶋大臣は少し間を置いてから続けた。
葛城の地を望む
間の火が、ひとつ小さく鳴った。
御食子は、すぐには返さなかった。
葛城、にございますか
さよう
嶋大臣は言った。
わしの母は葛城の女よ
稲目がその縁を得て、わしが生まれた
それは、そなたも知っておろう
御食子はうなずいた。
承知しております
嶋大臣は続けた。
わしもまた、幼きころより葛城の気を吸うて育った
あの山、
あの道、
あの地の水、
あれを知らずに老いたわけではない
ことばは静かであった。
長く胸の底にあって、ようやく外へ出てきた望みの静けさであった。
御食子が言った。
老いゆえに、でございますか
嶋大臣は、わずかに笑った。
老いゆえ、とは申せような
そして続けた。
若きころは、取ることばかりを思う
広げること、
寄せること、
前へ出ることよ
だが老いると、どこへ戻るかを思う
何を己の手でたしかに持って死ぬかを思う
鎌足は、そのことばを聞きながら、前の間での
帰る地
ということばを思い出していた。
御食子は、なお軽々には受けなかった。
葛城は、ただの懐かしき地ではございますまい
嶋大臣が目を上げた。
申してみよ
御食子は言った。
あの地は、ただ古き葛城の地というだけではございませぬ
いまは大王家の手に近く、
みだりに臣の家へ渡すには重すぎる地にございます
嶋大臣は少しも怒らなかった。
さよう
ゆえに、今日こうして申しておる
では、なぜ葛城にございます
御食子が問うた。
嶋大臣はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと言った。
葛城は、蘇我より古い
そのことばに、間の空気が少し変わった。
嶋大臣は続けた。
蘇我の名は、いま朝の中で重い
それは分かっておる
されど、わしの身の底にあるものは、蘇我だけではない
母の血、
育った地、
その地におった人々の記憶、
それらは、ただ今の氏の名の下へきれいに収まるものではない
少し声を低くした。
葛城の本宗家は、昔は大王家に深くかかわった家であった
それが今では、
名のみが残り、
地は手を離れ、
人の覚えの中で薄れておる
御食子は、そこでようやく望みの根を見たらしかった。
よみがえらせたいのでございますか
嶋大臣は首を振った。
よみがえらせる、とは申しますまい
だが、自分の身の底にあったものが、
どこにも形を持たぬまま尽きてゆくのは、
老いた者にはつらい
御食子は黙った。
嶋大臣は続けた。
わしは蘇我の長である
されど、蘇我の長である前に、
葛城の地に育てられた子でもあった
老いて、そちらの方が近うなることもある
間の火が、小さく音を立てた。
鎌足は、そのことばに、ただの隠居願いではないものを感じた。
余生を送りたいのではない。
自分の身の深いところにある出自を、最後に地として確かめたいのである。
御食子が言った。
葛城の地を、嶋大臣へ渡す
それは、ただ土地を与えることにはとどまりませぬ
嶋大臣はうなずいた。
承知しておる
葛城の古き名に、
いまの蘇我の手が重なることになります
しかも、大王家に近い地にて、でございます
さよう
それを、朝はどう見るとお考えか
嶋大臣は少し笑った。
だが、その笑いに愉しさはなかった。
そなたは、いつもそこへ行く
行かねばなりませぬ
御食子は答えた。
嶋大臣どのの望みを、ただ嶋大臣どのだけの望みとして受けることは、もはやできませぬ
そうであろうな
嶋大臣は、そのことばをそのまま受けた。
そして少し踏み込んだ。
ゆえにこそ、今のうちに申しておく
のちに、人がいろいろの名をつけぬように
御食子が問うた。
いろいろの名、とは
嶋大臣は言った。
日嗣の前触れよ、とも申そう
蘇我がさらに王の地へ食い入ると申す者もあろう
あるいは、老いた大臣が最後に地を欲したと軽く申す者もあろう
だが、どれも違う
少し間を置いた。
わしは、老いた
大王も老いられた
この朝をここまで支えてきた者どもが、みな老いた
そのとき、自分の身の根へ戻りたいと思うた
ただ、それだけが、まずは真である
御食子は、その
まずは真
という言い方を聞き逃さなかった。
まずは、でございますか
嶋大臣は目を細めた。
そなた、耳が速いな
御食子は答えなかった。
嶋大臣が続けた。
人の望みは一つでは済まぬ
戻りたいと思う
確かめたいとも思う
あるいは、
のちの者どもに、
ここがただの空き地ではないと見せておきたいとも思う
御食子が言った。
のちの者、とは蝦夷どのでございますか
それとも入鹿どのにございますか
嶋大臣は少し長く黙った。
どちらとも申せよう
そう言ってから、さらに言った。
あれらは蘇我の子だ
されど、蘇我の名だけで立つ者どもになってはならぬ
この朝が、どこから来て、どこに深い根を持っておるかを、見失ってはならぬ
鎌足には、そのことばが強く残った。
御食子もまた、そこを見ていた。
嶋大臣どのの望みは分かりまする
では、どう聞く
御食子は少しだけ目を伏せた。
難しゅうございます
嶋大臣は、そこで初めて深く息を吐いた。
難しかろうな
葛城は、臣の古き地でもあり、
いまは大王家に近き地でもある
そのようなところへ、蘇我の長たるわしが戻る
それを、ただ老いの望みとしては通せぬ
通せませぬ
では、どうする
御食子はすぐには答えなかった。
間の火はもう小さくなっていた。
やがて言った。
これは、日嗣とは切り分けて扱わねばなりませぬ
嶋大臣はうなずいた。
さよう
まずはそこだ
山背皇子、
田村皇子、
そのいずれへも直に結びつくものと見せてはなりませぬ
また、のちの備えとも見せてはなりませぬ
そこまで言うか
言わねば、のちが乱れます
御食子は答えた。
嶋大臣どのの老いと、
母方葛城との縁と、
育った地へ戻る望みと、
その三つの名で、まずは立てねばなりませぬ
鎌足は、そのことばを聞きながら、ことばが先に立つことで望みの形そのものが整えられてゆくのを感じていた。
嶋大臣が言った。
そなたは、ようものを切り分ける
切り分けねば、一つに見られます
それが政か
政にございます
その返しに、嶋大臣はしばらく黙っていた。
やがて低く言った。
厩戸も、そなたのこのようなところを買うておった
御食子は、ほんのわずかに目を伏せた。
買われたほどの働きはできませなんだ
いや
今も、その手で朝を保っておる
そのことばは静かであった。
だが、鎌足にはこの日もっとも重く響いた。
しばらくして、嶋大臣は立った。
今日はこれでよい
すぐに沙汰をせよとは申さぬ
ただ、そなたの耳へ先に入れておきたかった
御食子は深く礼をした。
重く承ります
嶋大臣は、戸のところで一度だけ足を止めた。
鎌足
は
そなた、葛城を見たことはあるか
まだ、よう見てはおりませぬ
そうか
嶋大臣は言った。
あの地は、山が近い
近いが、山に閉ざされてはおらぬ
水があり、
道があり、
人の根が深く沈む地だ
それだけ言って、嶋大臣は出ていった。
御食子は、しばらく動かなかった。
やがて鎌足に言った。
聞いたな
は
何が残った
嶋大臣どのが、葛城をただ欲しておられるのではなく、
自らの根を地として確かめたいと望んでおられることにございます
御食子はうなずいた。
それだけか
その望みが、ただの私情とは申せぬことにございます
よい
御食子は言った。
人の望みは、たいてい真です
だが、真であることと、朝のうえでそのまま通ることとは違う
なぜでございます
あまりに重い人の真は、そのまま地を動かし、朝を動かすからだ
御食子は庭の方を見た。
葛城は、古い地だ
古いということは、人があとからいろいろの意味を積めるということだ
嶋大臣どのがそこへ入れば、人は必ず意味を読む
老いた大臣が戻る地と読む者もあろう
蘇我が古い根を取り戻すと読む者もあろう
あるいは、これより先の朝の形を、そこに見る者もあろう
それゆえ、軽くは扱えぬ
葛城は、ただ欲しいと言われて終わる地ではない。
それをどう受け、どう名づけ、どう大王へ上げるか。
そこでもまた、御食子のような手が要る。
外では、冬の光が庭の石を白くしていた。
老いた大王。
老いた嶋大臣。
なお決まらぬ日嗣。
そして、老いた大臣が最後に望んだ葛城の地。
それらはまだ一つにはなっていない。
だが、別々のまま、すでに同じ朝の底でつながりはじめているように、鎌足には思われた。




