第33話 内へ戻る目
三十九
難波の浜での騒ぎがようやくおさまっても、朝の内が静まったわけではなかった。
兵が帰った。
新羅は調を出した。
半島へ渡した軍は、ひとまず役を終えた。
そのことばだけ見れば、外のことは一段落したようにも見える。
だが、そうではなかった。
外へ向けていた目が、いまはまた内へ戻ってきたのである。
しかも、ただ戻ったのではない。海の向こうへ兵を渡し、それで和を引き出したあとの目で、皆が朝の内を見直しはじめていた。
鎌足は、その変わり目を、まず人の足音で知った。
小墾田宮の廊は、前と同じように低く静かであった。
朝まだきの光も、庭石の影も、何も変わらぬように見える。
だが、そこを渡る者どもの間が違う。
以前は、半島からの報、難波からの報、舟、馬、粮、そうしたものが先であった。
いまは違う。
人は表立って何も言わぬまま、誰がどこへ出入りしているかを見ている。
山背皇子のもとへ向かう足は、増えたとも減ったとも見えなかった。
それがかえって重かった。
以前と同じように、必要な者だけが参る。
必要でない者は寄らぬ。
声高に人を集めることもない。
だが、誰もが、あの御方のところへ人が絶えていないことを知っていた。
田村皇子の方は、少し違った。
こちらも露骨ではない。
だが、出入りの顔ぶれがわずかに広い。
しかも、長く留まらぬ者が多かった。
入って、ほどなく出る。
立ち話とも見えぬほど短い用を済ませ、すぐ去る。
その短さが、むしろ用の軽くないことを知らせた。
鎌足は、その両方を見ていた。
山背皇子の側は、動かぬことで重い。
田村皇子の側は、見せぬことで重い。
どちらも、もう新しく知ることではない。
だが、半島へ兵を出し、その費えを見たあとの目で見ると、その違いは前よりもはっきりした。
派兵は、朝の手がまだ遠くまで届くことを示した。
それで新羅は和を言い、調を差し出した。
ならば、その兵を出した朝の内で、次に誰が重くなるか。
皆がそれを量らぬはずがなかった。
ある夕べ、鎌足は御食子の御屋の脇を通る細い廊に呼ばれた。
御食子は、庭を向いて立っていた。
病のあとの痩せはなお残る。
だが、立つ背はもはや弱ってはいなかった。
庭には、秋の色が少し入っていた。
草はまだ青い。
だが、日が傾くと、その青さの底に乾いたものが見える。
鎌足
は
御食子は振り向かなかった。
おぬし、近ごろ何を見ておる
鎌足はすぐには答えなかった。
人の出入りを見ております
誰の
山背皇子の御屋
田村皇子の御屋
そのほか、宮の内を
御食子は、少しだけうなずいた。
どう見える
山背皇子の方は、変わらぬように見えます
田村皇子の方は、変わらぬように見せておられます
御食子は、そのことばのあと、しばらく黙っていた。
やがて言った。
よい
それだけであった。
だが、その一言で、見ているところは外れていないのだと分かった。
御食子は続けた。
兵を渡した
和を引き出した
それで外はひとまず収まる
すると、人の目は内へ戻る
鎌足は黙っていた。
戻った目は、前と同じではない
前は、ただ次を量っておった
今は、外へ手を伸ばせる朝のうちで、次に誰が前へ出るかを量る
御食子は、そこで初めて鎌足を見た。
違いが分かるか
少し
少しでよい
御食子は言った。
分かりすぎたつもりになれば、たいてい誤る
風が細く吹いた。
庭の草がわずかに揺れた。
山背皇子は、なお静かでおられる
御食子は、その名を重くは言わなかった。
だが、軽くも言わなかった。
静かでおられるがゆえに、あの御方のまわりでは、人が自ら心を正してしまう
立てば、そのまま前へ出る王に見えよう
では田村皇子は
鎌足が問うと、御食子は少し間を置いた。
田村皇子は、前へ出るときの出方を知っておられる
自らを軽く見せぬ
されど、重く見せすぎもしない
待つことのできる人だ
鎌足は、そのことばを胸のうちで繰り返した。
山背は、立っているだけで前へ押し出される。
田村は、押し出される前に、自ら重さを保って待っている。
どちらも王になりうる。
だが、王になりうるそのありようが違うのであった。
御食子は言った。
上宮皇子がおられたころは、皆、あの御方の在り方を見ておった
今はもうおられぬ
されど、その不在の上で、なお山背皇子を見る
そのことが、前より重くなっておる
鎌足は黙った。
山背皇子を立てれば、上宮の名がそのまま立つ
田村皇子を立てれば、別の朝の筋が立つ
いずれにせよ、もうただの皇子のひとりとしては見られておらぬ
では、なお決めぬのでございますか
御食子は、すぐには答えなかった。
それから、庭の端の石を見たまま言った。
決めねばならぬことと、
いま決めてはならぬこととは、
同じ折に来る
そのことばは、半島の議のときにも似ていた。
だが今は、もっと冷たく聞こえた。
外の道を守るために兵を出した
それは決めねばならぬことであった
だが、兵を出したからこそ、内で次をめぐる目もまた重くなった
その重くなった目の前で、軽々しく日嗣を決めれば、今度は内が割れる
御食子は低く続けた。
朝とは、よい折に一つだけ決まるものではない
悪い折に、どれを先に決め、どれをなお決めぬかを違えぬことだ
そのとき、川瀬が廊の端まで来て、膝をついた。
難波より、返りの荷のうち、なお帳の合わぬもの三件
真敷どの、明朝あらためて上ぐる由
御食子はうなずいた。
よい
真根に回せ
は
川瀬はすぐに去った。
鎌足は、その短いやり取りを見ながら思った。
外から戻った兵のあと始末は、まだ終わっていない。
しかも、その未決のまま、朝の内では次をめぐる重みが増している。
朝は、ひとつのことだけを片づけて進むのではない。
片づききらぬものを抱えたまま、別の重みを受けてゆくのである。
その数日後、鎌足は山背皇子を見た。
小墾田宮の南の廊であった。
供は多くない。
以前と同じく、少ないのに、その御方が通ると、人は自然に半歩退く。
だが、この日は前と少し違って見えた。
誰もが礼を失わぬ。
道をあける。
声も立てぬ。
それは以前と同じである。
だが、そのあけ方のうちに、ただ敬っているだけではないものがあった。
あの御方がこの先どこへ立つのか、それを自らに問いながら退いているように見えたのである。
山背皇子は、変わらぬ歩みで廊を渡っていった。
衣に乱れはない。
目は伏せすぎず、上げすぎず。
人を強く見もしなければ、避けもせぬ。
ただ通るだけで、人が自ら場を正す。
その後ろ姿を見ながら、鎌足は思った。
この御方は、前と同じに静かでおられる。
だが、朝の方が前と同じようにはこの御方を見ていない。
もう一度、田村皇子も見た。
こちらは夕刻近く、宮の外れに近いところであった。
供は少なく、衣もことさらに目立たぬ。
立ち止まることもなく、短くことばを交わし、そのまま歩み去る。
だが、その短いことばを受けた相手の顔だけが、少し変わるのである。
田村皇子は、重く見せて場を支配する人ではない。
むしろ、言葉を少なくし、見せるものを削り、その削った分だけ相手に重く受けさせる人のように見えた。
この御方もまた、前と同じに軽々しくは動かぬ。
だが、動かぬまま、前へ出る日のための重さを保っておられる。
それを見て、鎌足はようやく分かった。
朝の内では、山背と田村が向かい合って動いているのではない。
どちらも、まだ動いてはいない。
ただ、互いに重くなっている。
しかも、その重くなり方が違う。
山背は、上宮の名と静けさのうちに重い。
田村は、見せぬことと待つことのうちに重い。
ゆえに、どちらへも軽々には決められぬのである。
ある晩、鎌足はひとりで廊の外に立っていた。
空は高くなく、低くもない。
ただ、ひどく澄んでいた。
兵を渡した。
新羅は和を言い、調を差し出した。
外へ向けた手は、ひとまず功を立てた。
だが、そのことで朝が軽くなったわけではない。
かえって、外へ手を伸ばせる朝の内で、次に誰が前へ出るかという問いが、前より重くなった。
決めぬことで保ってきた朝は、なお決めぬままにある。
だが、その決めぬことの重さそのものが、もう前とは違っていた。
御食子は老いを深め、
嶋大臣もまた老いている。
上宮皇子はおらず、
山背皇子は静かに立ち、
田村皇子は見せぬまま重い。
半島から兵が帰ったそのあと、朝は静まるどころか、むしろもっと深いところで内へ沈みはじめていた。
鎌足は、夜の庭を見た。
風はなかった。
草も動かなかった。
だが、動かぬものの下で、朝の形だけが少しずつ変わっているように思われた。




