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第32話 損と耗


三十八


 難波の津に着いたとき、兵どもの顔には、ようやく地を踏んだ者の緩みがあった。


 だが、浜は迎えの声ばかりではなかった。

 舟が寄るそばから、荷が降ろされる。

 馬が引き出される。

 人の名が呼ばれる。

 返る声もあれば、返らぬところもある。

 濡れた綱が砂に落ち、割れた箱が脇へ寄せられ、欠けた櫂がまとめて積まれる。


 帰った、というより、まだ片づいていないものが一度に岸へ上がってきたようであった。


 鎌足は、舟を降りてからもしばらく、その場を動かなかった。


 往きのときとは違う。

 あのときは、皆、前だけを見ていた。

 今は違う。誰もが足もとを見ている。何が残り、何が減り、誰が戻り、何が壊れたか。それを見ねば、帰ったことにならぬのである。


 難波吉士真敷が、浜の真ん中に立っていた。


 声は高くない。

 だが、よく通った。


 その箱は後だ

 先に札を合わせろ

 馬をそっちへ出すな、板がもたぬ

 名を呼べ

 返らぬなら返らぬで印をつけろ


 置かれることばのあと、乱れかけた流れが少しずつ収まってゆく。

 浜には人が多い。兵だけではない。人夫も、帳持ちも、馬を引く者も、負傷者を支える者もいる。

 その者どもがそれぞれに動いているのに、真敷のことばひとつで、荷の向きまで変わるのが見えた。


 川瀬が鎌足のそばへ来た。


 ご覧のとおりにございます


 何を見ればよい


 川瀬は少し目を細めた。


 戻った者だけではございませぬ

 戻らなんだものも、でございます


 そのとき、浜の端で声が強くなった。


 この俵はうちの分ではない

 数が違う

 道中で三つ減ったはずだ


 三つでは済まぬ

 濡れたぶんを入れれば五つは欠ける


 帳を持った男が間に入ろうとする。

 だが、言い合う二人は、どちらも引かない。


 真敷が振り向いた。


 減ったというなら札を出せ

 口先で数は動かぬ


 片方が板札を差し出す。

 もう片方がそれを覗き込み、また何か言おうとする。

 真敷はもう一度だけ言った。


 ここで取り合っても俵は増えぬ

 浜で決めるな

 帳場へ回せ


 それでようやく、二人は引いた。


 鎌足は、そのやりとりを見ていた。


 俵がいくつ減ったか。

 それだけのことで、人の声はあそこまで変わる。

 だが、それは卑しいからではない。兵を出すとは、こうして減るものを抱えることでもあるのだと、今は分かった。


 日が少し傾いたころ、鎌足は真敷に伴われて、浜から離れた仮の帳場へ入った。


 倉の脇に板を渡しただけのようなところである。

 だが中には札と簡が積まれ、人がひっきりなしに出入りしていた。

 運び込まれた荷の名、数、傷み、受け取った者の名、それが板札と口と手のあいだを往き来している。


 史部真根が、板の前に坐っていた。

 すでに何枚もの簡が脇へ重ねられている。


 真根は顔を上げ、鎌足を見ると、わずかに頭を下げた。


 ご覧になりまするか


 何をだ


 帰ったあとの戦でございます


 真敷が言った。


 兵の数だけ見ても足りませぬ

 馬を出した家がある

 舟を出した家がある

 人足を余分に抱えた家がある

 荷を途中で替えたところもある

 そのどれもが、戻ってから言い立ってまいります


 国子もそこにいた。


 目の速い男であった。札を一つ取るごとに、何をどこへ振るべきかを、もう見ている顔であった。


 国子が一枚の札を指で押さえた。


 兵二十に見えても、同じ二十ではありませぬな


 鎌足はその札を見た。

 読めぬところもあったが、馬二頭、俵幾つ、櫂幾本といった文字が並んでいるのは分かった。


 国子は言った。


 兵だけ出した家はまだ軽い

 舟を出したところは板が傷みます

 馬を出したところは、帰ってもすぐには耕しに戻せませぬ

 干飯と塩を多く持たせたところは、そのぶん蔵が痩せます


 真根が受けた。


 戦の功はひとつに見えましても、費えの形はひとつではございませぬ


 真敷が鼻で息をした。


 しかも、帳どおりには戻りませぬ


 帳場の奥で、また声がした。


 この馬は脚を傷めている

 使いものにならぬ


 死んではおらぬだろう


 死なねばよいのか

 田へ戻せぬ馬を、どうして元の数に入れる


 国子は立ち上がらずに言った。


 そこも札へ書け

 傷みを無事の戻りと一つにするな


 男はなお言いたげであったが、札を取って引いた。


 鎌足は国子を見た。


 それで足りるのか


 足りませぬ


 国子は即座に言った。


 ですが、まず分けねばなりませぬ

 分けねば、皆が一つにして言い立てます


 真根が言った。


 そして、ここで分けたことばが、そのまま宮での名になりまする


 名、か


 真根はうなずいた。


 損と言うか

 耗と言うか

 返りの傷みと言うか

 ことばを違えれば、のちの扱いも変わりまする


 鎌足はしばらくその場に立っていた。


 帰った兵の顔よりも、今はこの帳場の方が国の底を見せているように思えた。

 戦とは斬り合うことかと思っていた。だが、斬り合いのあとに、減った俵、傷んだ馬、欠けた舟板の置きどころを決めねばならぬ。決めねば、次に兵を起こせない。


 その日の暮れどき、真根は整えた簡を結び、宮へ上げる支度をした。


 真敷が言う。


 浜ではもう収まりませぬ

 名を立ててもらわねば、皆、うちの損だとうるさい


 国子は淡々と受けた。


 うちの損で済めばよいのです

 そのままにすれば、次には舟を惜しみ、馬を惜しみ、人を惜しみます


 それでは兵が立たぬ


 さようにございます


 国子は簡を束ねながら言った。


 兵を立てる前に、家が痩せます


 そのことばが、鎌足の胸に残った。


 翌日、鎌足は小墾田宮にあった。


 難波から上がった簡と札とは、すでに議の座に並べられていた。

 嶋大臣が坐し、御食子がその脇にいる。蝦夷もいた。入鹿もいた。国子と真根はやや下がったところに控えている。


 難波の浜と違い、ここでは声は低い。

 だが、低いまま、人の持つ重みが違った。


 真根が、難波から上がった損耗のあらましを読み上げた。


 兵数、帰還の人数、傷者、失われた兵糧、傷みたる舟、脚を損じたる馬、人足の不足。

 ひとつひとつは細かい。

 だが、並ぶほどに、兵を渡した費えの重さが見えてくる。


 読み終えてしばらく、誰もすぐには口を開かなかった。


 最初に言ったのは蝦夷であった。


 思ったより減っておるな


 国子が答えた。


 減っただけではありませぬ

 戻ってもすぐに役に立たぬものが多うございます


 舟か


 舟、馬、兵糧、いずれもにございます


 嶋大臣が真根の前の簡へ目を落とした。


 これを各氏の負いのままに置けば、次は渋るか


 国子が言う。


 表立っては渋らずとも、よい舟を出さなくなりましょう

 馬も同じにございます

 兵数は揃いましても、中身が痩せます


 入鹿が、そのとき初めて口を開いた。


 兵は数では立たぬか


 国子は少しも慌てなかった。


 数でも立ちます

 されど、数だけでは遠くへは参れませぬ


 入鹿はそれきり黙った。


 御食子が言った。


 兵を出したからこそ、新羅は調を出した

 ならば、その調はまず、兵を出して痩せたところへ回すべきであろう


 蝦夷が少し顎を動かした。


 皆へ分けるのか


 真根が言った。


 ただ分けるといたしますと、褒美のように見えます

 褒美では、出さなんだ家が黙りませぬ

 また、功の軽重で争いも起こりましょう


 では、何とする


 嶋大臣の問いに、真根は少し言い淀んだ。

 そのかわり、国子が口を開いた。


 兵を立てうる力を、もとのごとく保つための補いにございます


 補い、か


 足りぬところを均し、

 痩せたところを、そのままにせぬためにございます

 さもなくば、次に兵を命じても、舟も馬も表には出てまいりませぬ


 御食子がうなずいた。


 家が痩せれば、国が痩せる


 嶋大臣が言う。


 新羅の調は、見栄えのために倉へ積むものではない

 まず、今回の兵で痩せたところを埋める

 ただし、露骨に各氏へ分けたようには見せるな


 真根が頭を下げた。


 名を立てまする


 蝦夷が、ひとつ問うた。


 すべて足りるか


 国子が答えた。


 足りませぬ

 されど、足りぬまま放るよりは、次の備えになります


 入鹿が薄く笑ったように見えた。


 足りぬものを、足りる形に見せるのも政か


 嶋大臣は、その方を見もせずに言った。


 足りぬものを、足りぬまま収めるのが政だ


 それで入鹿も黙った。


 鎌足は、列の後ろで聞いていた。


 難波では、減った俵の数で人が争っていた。

 ここでは、その争いをどう名づけて収めるかが話されている。

 同じことが、浜では声になり、宮では理になる。


 議が終わると、真根はすぐに文言を起こし、国子は配り方の目安を定め、難波へ返すための札を書き分けた。

 簡と札と口伝である。

 だが、それで荷の向きが変わり、人の損の重さが変わる。


 その日のうちに、鎌足はまた難波へ出た。


 浜は前日より少し静かであった。

 とはいえ、荷はなお残り、倉の前では札を見比べる者どもがいる。


 真敷が宮からの指示を受け取っていた。

 国子の手で分けられた札が、そこへ届いている。


 これは舟へ

 これは馬へ

 こっちは兵糧の減りへ回す

 傷みの大きいところを先に見る


 昨日まで強く言い立てていた者どもも、完全に満ち足りた顔ではないにせよ、筋が立ったと見れば引く。

 筋がなければ、誰も引けぬのである。


 鎌足は、その様を見ていた。


 宮で定められたことばが、ここでは札の置き換えとなり、荷の行き先となる。

 国とは、命を出すところかと思っていた。

 だが、出した命のあとに残る傷みを、こうして元へ戻そうとする手もまた国であるらしかった。


 日が沈んだあと、浜の外れに出ると、潮の匂いが昼より濃かった。


 翹岐がいた。

 倉の影にもたれて、海の方を見ている。


 まだ帰らぬのか


 鎌足が言うと、翹岐は少しだけ笑った。


 荷の行き先が決まるまでは、こっちも帰れません


 今日、宮で決まった


 でしょうね


 翹岐は海を見たまま言った。


 そうでなきゃ、浜が収まりません


 鎌足は、その横顔を見た。


 おぬしは、分かっていたのか


 だいたいは


 翹岐は肩をすくめた。


 兵を出せば金が減る

 舟が傷む

 馬が痩せる

 人も減る

 勝っても同じです


 面倒、か


 面倒です


 少し間を置いて、また言った。


 その面倒を投げると、あとが細るんですよ


 鎌足は黙った。

 波の音がしていた。


 ふと、阿満の顔が浮かんだ。

 暮れ色の中で、ただ立っているだけで、そのあたりの空気が少し澄むように見えた、あの女のことが。


 阿満は、どうしている


 翹岐は、すぐには答えなかった。


 どう、と申しますと


 まだ、あのあたりにいるのか


 いるかもしれませんし、いないかもしれません


 その答えに、鎌足は顔を上げた。


 分からぬのか


 ああいう土地では、人の行き先は早いんです


 翹岐は淡々と言った。


 ひとつの使いが来れば動く

 ひとつの荷が切れれば動く

 明日どこにいるか、本人にも決まってないことがある


 そうか


 それだけであった。


 阿満のことばを、もう一度聞きたいと思っていたのかもしれぬ。

 だが、いまの返しを聞けば、その思い自体が、この浜に置いてゆくしかないもののように思えた。


 翹岐が言った。


 会えたなら、それでよかったんでしょう


 何がだ


 さあ


 翹岐は少しだけ笑った。


 そういうのは、あとで効きます


 鎌足は返さなかった。


 半島へ渡ったとき、目に入っていたのは兵ばかりであった。

 今は違う。

 舟板の傷みも、俵の減りも、馬の脚も、人の言い分も、そのどれもが国のうちであるように見える。


 夜の海には、舟の影が低く揺れていた。


 翹岐はもう何も言わなかった。

 鎌足も言わなかった。


 ただ、兵を起こすとは、剣を取ることだけではないのだと、そのことだけは、もう戻らぬ前の自分のままでは済まぬほど、胸の奥に残っていた。



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