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第31話 帰りの海


三十七


 帰る日が定まると、陣の空気はすぐに変わった。


 兵は声をひそめなくなった。まだ命の下にあることは変わらぬ。勝手に列を離れる者もいない。だが、歩き方が違った。肩の張りがゆるみ、ことばの端に笑いが混じる。舟の順を確かめる者も、荷を縛り直す者も、もう敵の目より帰りの遅れを気にしているように見えた。


 馬も落ち着いていた。鼻を鳴らすことはあっても、前のように耳を立てつづけてはいない。兵のひとりが、帰ったらまず何を食うかと言い、別の者が、難波の酒の方がよいと返した。さらに誰かが、半島の塩魚も悪くなかったと口を挟み、笑いが起こった。


 鎌足は、その少し外で見ていた。


 和はなった。

 だが、終わったというより、張っていたものがほどけて、別の散り方をしはじめたように見えた。


 帰る支度の中には、まだ片づいていないものが多かった。運び残した荷、返すべき札、引き渡しの帳、舟ごとの人数、馬の振り分け。和がなったからこそ、それらを急いで間違えぬようにせねばならぬ。兵の顔はゆるんでいるのに、川瀬や広手や網手の顔は、かえって前より忙しく見えた。


 鎌足は、ふと阿満のことを思った。


 顔ではなかった。

 先に浮かんだのは、あのことばであった。


 自分で決めることを、もうやめた日に亡びます


 鎌足は、陣の外へ目を向けた。


 翹岐を一度見かけた。

 倉の脇で、帳を持つ男と何か言い合っていた。半島ことばで二言三言、短くやり取りし、そのあとすぐ別の荷の方へ歩いてゆく。捕まえて何か問う隙はなかった。


 阿満のことを口にしかけた。

 だが、口には出なかった。


 何と問えばよいのか、自分でも分からなかったからである。


 そのうちに、舟へ移る兵の順が呼ばれた。


 川瀬が鎌足を見た。


 お移りください


 鎌足はうなずいた。


 浜では、すでに帰りの荷が分けられていた。来るときより声が高い。だが、手つきは軽くない。舟腹に入れる荷と、まだ岸に残す荷と、先に返す馬と、あとに回す馬とが、細かく分けられていた。


 馬は、来たときほど荒れなかった。海の匂いに慣れたのか、あるいは人の手つきが慣れたのか、板を渡る脚のためらいが少ない。それでも、一頭が途中で首を振り、後ろの者が腹を押した。牛甘が低く何か言う。人の手がすぐ増え、馬はまた前へ出た。


 兵もまた、来たときほど黙ってはいなかった。

 舟へ上がる前から顔色の悪い者はいる。だが、それを隠そうともせず、隣の者が笑い、吐くなら先に吐いておけと言い返す。恐れているのではない。もう帰るのだという気のゆるみが、かえって海への用心を薄くしているように見えた。


 鎌足は、自分の乗る舟へ移った。


 板がたわむ。

 海が下で動く。

 足の裏が、まだ地を探す。


 来るときにも味わった揺れである。だが、あのときは前しか見ていなかった。今は少し違う。舟腹のどこへ何を置くか、人がどこへ坐るか、馬をどちらへ向けるか、その一つ一つで舟の気配が変わることに、鎌足は気づくようになっていた。


 岸が少しずつ遠ざかった。


 半島の地は、来たときと同じように低く見えた。

 だが、もう敵の岸というだけには見えなかった。倉があり、帳があり、荷があり、人の顔がある。そう思うと、岸はただの陸ではなくなっていた。


 兵のひとりが、向こうで世話になった女のことを大声で言い、別の者が笑った。さらに別の者が、帰れば妻に何と言うのかとからかい、また笑いが起こった。


 鎌足は、その笑いを聞いていた。

 腹は立たなかった。

 だが、同じ岸を見ていても、自分の見たものとはまるで違うのだと思った。


 舟が沖へ出るにつれ、また揺れが増した。

 ひとり吐いた。

 つづいてもうひとりが船縁へ顔を向けた。

 誰かが水を寄こし、誰かが汚れるぞと文句を言い、広手が短く黙らせた。


 来るときと同じ海である。

 だが、来るときの舟は張っていた。

 今の舟は、ほどけている。


 その違いが、揺れ方にまで出ているように鎌足には思えた。


 川瀬は平気な顔でいた。

 平気というより、舟の揺れをそのまま受けているように見えた。踏ん張りすぎず、かといって崩れもせず、人の動きと荷の置き方だけを見ている。


 前を見るな

 遠きをご覧ください


 そう言われ、鎌足は海の先を見た。


 空は明るすぎず、暗すぎず、ひどく広かった。

 舟はその下をきしみながら進む。

 人はその上で吐き、笑い、あくびをし、黙りこむ。

 槍も弓も持っている。

 だが、ここではそれらより先に、水、板、風、荷の順がものを言う。


 日が傾くころ、兵の声は少し静まった。

 吐く者は吐ききり、笑っていた者も疲れ、みなそれぞれ黙る時間が増えた。


 その静けさの中で、鎌足は半島で見たものを一つずつ思い返した。


 結地で、ばらばらの兵が一つに見えるまで。

 浜で、人を乗せる前に荷を分けたこと。

 倉で、帳にある数と現に積まれた荷とが食い違っていたこと。

 翹岐が二言三言で止まりかけた流れを動かしたこと。

 阿満が、水を汲み、魚を干し、笑いながら、なお自分たちでは決められぬと言ったこと。


 どれも、まだうまくつながらない。

 だが、みな同じところへ触れているようにも思えた。


 自分で決めることを、もうやめた日に亡びます


 あのことばは、まだ鎌足の胸の中で、きれいには収まっていなかった。

 ただ、海の上で揺られていると、そのことばだけが沈まずに残った。


 夜に入る前、遠くに岸が見えはじめた。


 最初は低い影であった。

 だが、しだいに、それが倭の岸であると分かる。

 兵のひとりが声を上げた。

 つづいてあちこちで声が重なった。


 帰ったぞ

 見えた

 あれだ


 誰もが、岸へ目をやった。


 鎌足も見た。


 倭の岸であった。

 だが、前と同じようには見えなかった。


 兵たちは、岸が近づくにつれ、また声を高くした。

 誰かが立ち上がりかけ、すぐに叱られて坐り直した。

 笑う者がいた。

 泣きそうな顔で岸を見つめる者もいた。


 鎌足は、その中でひとり、黙っていた。


 帰ってきた、とは思った。

 だが、それだけではなかった。


 向こうを見た目のまま、もう一度この岸を見ている。

 そのことの方が、帰ったということより重かった。


 舟はなお進んだ。

 岸は少しずつ大きくなった。


 倭はそこにあった。

 だが鎌足には、そこへ戻る自分の方が、すでに前とは少し違っているように思われた。



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