第30話 伽耶の女
三十六
翹岐がその女を連れてきたのは、暮れきる前であった。
浜から少し離れた、低い屋である。
倉でもなく、民家でもない。荷の置き場の脇にあって、人を長く留めるためではなく、少し待たせ、少し話させるためにあるような屋であった。
鎌足は先に中へ通されていた。
戸は半ば開いている。海の匂いが細く入る。外では、まだ荷の動く音がしていた。兵の声も、まったくは絶えていない。
翹岐が戸口に影を落とした。
お連れしました
その後ろに、女がいた。
年は鎌足よりいくらか上に見えた。
若い。だが、若さを前へ出す顔ではなかった。衣は淡い色で、華やかではない。髪は乱れておらず、立ち方にも無駄がない。
それでも、まず目を引くのは、その顔であった。
白いというだけではない。薄い暮れ色の中で、その人のところだけ光がよるように見えた。目は涼しく、口もとは小さい。顎から頬へかけての線が澄んでいる。こちらの知る女の顔立ちとはどこか違う。だが、その違いが不自然ではなかった。
こちらを見た。
見たが、値踏みするようではない。かといって、倭の将たちに交じっている少年を軽く見る目でもない。ただ、一人の人を見る目であった。
翹岐が言った。
阿満です
この地で、うちの書や使いの世話をしてきた家の娘です
帳も、人の顔も、よく知ってます
女は、わずかに頭を下げた。
鎌足は名乗った。
鎌足だ
半島のことばで言った。
音はまだ硬い。だが、通じぬほどではない。
阿満の目が、少しだけ動いた。
倭のことばだけではないのですね
少しは分かる
それは便利です
声は静かであった。
翹岐のように皮肉を含ませもしない。だが、人に合わせてやわらぐ声でもなかった。
翹岐が、戸口の脇へ退いた。
わたしは外におります
何かあれば呼んでください
そう言って出てゆく。
気を利かせたのであろうが、あからさまではなかった。
屋の中に、鎌足と阿満だけが残った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に言ったのは阿満であった。
翹岐から聞いています
倭の中臣の若い方だと
若い方、か
鎌足は少しだけ笑った。
若いのは、そのとおりだ
阿満も口もとをわずかに動かした。
あなたは、兵を見に来たのですか
兵だけではない
鎌足は答えた。
倉も見た
荷も見た
港も見た
阿満はうなずいた。
では、よい順で見ています
なぜだ
兵だけ見て帰る人は、たいてい何も見ていません
言い方は静かであった。
だが、その静けさの中に、少しだけ棘があった。
鎌足は黙った。
腹は立たなかった。
阿満は言った。
兵が来れば、人は安心します
少しのあいだは
でも、その前から、国は別のところで痩せています
翹岐も同じことを言った
あの人は、言うでしょう
阿満は言った。
あの人は、見ているところが少し冷たい
おぬしは違うのか
違いません
ただ、こちらで生きているだけです
その返しは速かった。
言いよどみもなかった。
鎌足は、その顔を見た。
美しい、と思った。
だが、それだけでは足りなかった。
伽耶は、それで痩せているのか
阿満はすぐには答えなかった。
外の音を少し聞いてから、言った。
毎日ではありません
でも、いつもです
鎌足は黙って聞いた。
誰に貢ぐかで、その年の顔ぶれが変わります
誰の使者が先に着くかで、その日の空気が変わります
役人の口のきき方も変わります
裁きの重さも変わります
税がどこへ行くかも変わります
そこで切れた。
また、つづいた。
国は残っています
名も残っています
でも、何を先に決めるかを、自分たちで決められない日が増えました
増えた、か
阿満はうなずいた。
昔は違ったと、年寄りは言います
でも、わたしの知っている伽耶は、もう長くこのままです
使者が来る
人が顔色を変える
昨日までの約束が、今日には軽くなる
明日にはまた別のことを言う
そうやって皆、生き延びます
それは、生きていると言えるのか
鎌足は思わず言った。
阿満は、はじめてまっすぐ鎌足を見た。
死んではいません
その一言が、鎌足の胸に落ちた。
阿満は続けた。
朝になれば水を汲みます
火を焚きます
魚を干します
荷を運びます
子は育ちます
人は笑います
少し間を置く。
でも、どこへ従うふりをするかで、その日の無事が決まる
誰の名を先に口にするかで、その場の顔色が決まる
それが国なら、国なのでしょう
鎌足は、何も言えなかった。
新羅が怖いか
新羅だけではありません
阿満は言った。
新羅も怖い
百済も怖い
倭も怖い
倭もか
倭は兵を連れて来ます
来れば、助かる者もいます
でも、来るということは、その人たちの理で動くということです
それを怖いと思わぬほど、子どもではありません
鎌足は息を止めた。
阿満は続けた。
倭の兵が来れば、新羅は少し考えます
百済も少し息をつきます
伽耶の者どもも、今日すぐには押し流されぬかもしれません
でも、それで急に自分たちの国に戻るわけではありません
戻らぬのか
戻りません
きっぱりと言った。
税をどこへ流すか
争いを誰が裁くか
そういうことも、もうこちらだけでは決まりません
使者の顔を見て、皆が先に口を変えます
慣れた日に、国はもう前とは違います
外で、人の足音がした。
誰かが荷を運んでいるらしい。木の擦れる音がして、また遠のいた。
阿満は、その音を聞きながら言った。
このあたりでも、昔は、誰の使いをどこへ通すかを、こちらで決められたのだと聞いています
いまは違います
先に着いた大きい国の使いの顔を見て、皆がその日の並びを決めます
それでは、国の体をなさぬ
そうです
阿満は静かに言った。
でも、体をなさなくなってから、長いのです
鎌足は黙った。
阿満が立った。
もう戻られた方がよろしいでしょう
日のあるうちに
鎌足も立った。
阿満
女は振り向いた。
おぬしは、伽耶はまだあると思うか
阿満は少しだけ考えた。
考えたというより、どこまで言うかを量ったように見えた。
あります
その返しに、鎌足は少し安んじかけた。
だが、次のことばがすぐに来た。
でも、それは名があるという意味です
屋の内の空気が少し冷えた気がした。
阿満は続けた。
国は、攻め落とされた日に亡びるのではありません
自分で決めることを、もうやめた日に亡びます
鎌足は何も言い返せなかった。
阿満は、それ以上は言わなかった。
ただ軽く頭を下げただけで、戸口の方へ歩いた。
その背を見ながら、鎌足は動けなかった。
戸の外で、翹岐の影が少し動いた。
待っていたのであろう。
鎌足はようやく歩き出した。
阿満の名と、その最後のことばだけが、胸の深いところに残った。




