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第29話 細る国


三十五


 和成るとの報が届いた。


 それで何もかもが解けたわけではない。

 兵を退くことは決まった。だが、まだ退いてはいない。帰ると決まった。だが、まだ帰ってはいない。その半ばの時が、陣の上に落ちていた。


 兵どもの気は、目に見えてゆるんだ。


 持ち場を離れる者はない。命が下っておらぬ以上、勝手はできぬ。だが、肩の力は抜けた。声は少し高くなり、笑う者もいる。馬の鼻息も前ほど荒くはない。舟の綱を見に行く者、荷の数を改める者、帰ったあとのことを口にする者まであった。


 鎌足は、それを少し離れて見ていた。


 和はなった。

 だが、それで何かが終わったようには見えなかった。張っていたものが、別のかたちでほどけ、別のかたちで動き出したように見えた。


 川瀬が来た。


 外を見てこい


 鎌足は顔を上げた。


 兵の列の外か


 さようにございます

 勝手には歩かれますな


 川瀬は少し目を動かした。


 翹岐


 荷の陰から、ひとりの男が半歩出た。


 衣は倭の形に寄っている。だが、着なれているというより、仮にその形へ収まっているように見えた。姿は細すぎず、太くもない。目は少し細い。眠たげにも見える。だが、その奥は醒めていた。


 翹岐です


 鎌足さまに、浜と倉を見せ申せ

 前へは出しすぎるな


 分かりました


 川瀬は鎌足を見た。


 日が傾く前にお戻りください

 問われぬことは言われますな


 は


 川瀬はもう別の方を見ていた。荷の置きどころが少し詰まりかけていたのである。そちらへ歩きながら二言三言だけ置く。置かれたことばのあと、流れはほどけた。


 翹岐が言った。


 じゃ、参りましょうか


 陣の外へ出ると、半島の地は、上陸したときとは違って見えた。

 あのときはただ硬かった。敵の地でしかなかった。だが今は違う。道がある。倉がある。人夫がいる。馬がいる。ことばが飛び交っている。


 海へ向かう道には、荷が寄っていた。


 布を束ねたもの。

 木の箱。

 口を縄で結わえた壺。

 干した魚。

 塩。

 鉄らしい重い塊。


 誰かが計る。

 誰かが数える。

 誰かが帳を持つ。

 誰かが運ばせる。


 兵は見えぬ。

 だが、国はここにもあった。


 翹岐が歩きながら言った。


 倭の方々は、兵が立つと兵ばかり見ますね


 兵で足りぬのか


 足りれば楽なんですが


 少し笑った。


 たいてい足りません

 兵の前に、荷

 荷の前に、道です


 鎌足は黙って聞いた。


 翹岐は海の方を顎で示した。


 あっちが浜へ下ろす荷

 こっちはまだ奥へ抱える荷


 見分けられるのか


 見分けないと、あとで皆が困ります


 翹岐は言った。


 締め方が違う

 置きどころも違う

 先に要るものを奥に入れたら、あとで泣くのは決まってます


 倉の前へ来ると、人が板札を手にして荷の数を言い合っていた。

 ひとりが言い、

 ひとりが書きつけ、

 ひとりが受けて別のところへ運ばせる。


 どのことばでもよいのか


 よくはないです

 でも通じなきゃ話にならない


 翹岐は、そこにいた帳持ちへ半島ことばで二言三言だけ言った。

 相手はうなずき、人夫に声をかけた。止まりかけていた荷がまた動く。


 いま何を言った


 それは先に入れるな、と


 なぜだ


 重いものを奥へ入れると、軽いものが傷みます


 少し間を置く。


 帳に書いてあることと、現に積まれてることは、まあ、少し違うこともあるんで


 少しか


 少しで済めば上等です


 その言い方に、鎌足は思わず翹岐を見た。

 翹岐は、こちらを見ずに歩いていた。


 道が保ってるから兵が働く

 道が切れたら、兵はただ腹を減らす人数です


 それは父君も言われておった


 あの方は、よく分かってます


 倉の奥へ入ると、倭とも半島ともつかぬ顔ぶれの者どもがいた。ことばも混じっている。渡来の者どもであろうと知れた。


 倭の兵は、兵だけでここへ入ってきたわけじゃないです


 翹岐が言った。


 荷、馬、人

 それに簡と書と帳


 帳もか


 要ります


 誰の荷か

 誰が受け取ったことになるか

 そこが曖昧だと、あとで皆、自分に都合よく言い出します


 それは、どこでも同じか


 どこでも同じです


 翹岐は少し間を置いた。


 半島の国々も同じです

 兵で押し合ってるように見えて、その前から、人と物とことばの道を取り合ってる


 伽耶も、そうか


 伽耶は、それで痩せてます


 鎌足は足を止めた。

 翹岐も止まった。


 しばらく、ことばがなかった。


 名は残る

 でも、名の下に集まる手が散れば、国は細る


 風が吹き、倉の軒の布が揺れた。


 国が滅びるってのは、いつも城が焼けることじゃないです

 山も河も変わりません


 翹岐は低く言った。


 先に、人の行き先が変わる


 鎌足は何も言えなかった。


 倉の向こうを、女が三人、水甕を運んで横切った。

 ひとりが少しだけこちらを見た。

 兵を見る目でもなく、渡来人を見る目でもなく、ただ新しく増えた人を見る目であった。


 翹岐はそれを見送り、それから言った。


 ひとり、会ってみますか


 誰にだ


 伽耶の女です


 どのような者だ


 賢い女です


 翹岐は答えた。


 こっちのことばも知ってる

 向こうのことばも知ってる

 で、伽耶が細るってのを、身で知ってる


 それを、なぜわたしに会わせる


 兵と倉と荷だけじゃ、足りないでしょう


 翹岐は言った。


 国が細るってのは、帳や荷の上だけで起こるわけじゃない

 人の顔の中にも出る


 鎌足は黙った。


 今日は顔だけでもいい

 話すのは、そのあとでも遅くない


 なぜ今日は顔だけだ


 初めて会う相手に、いきなり国の滅びを聞くのは無骨でしょう


 翹岐は平然と言った。


 人にも順がある

 国にも順がある


 その言い方に、鎌足はもう一度だけ周りを見た。


 倉。

 荷。

 人夫。

 帳。

 ことば。

 馬。

 海。

 そして、向こうを横切っていった女たち。


 翹岐が歩き出した。


 じゃ、行きましょう

 日のあるうちに、顔だけは見ておいた方がいい


 鎌足は、そのあとに従った。


 まだ見ぬその女のことだけが、胸に小さく残った。




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