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第28話 調


三十四


 小墾田宮の朝には、まだ冷えが残っていた。


 門の方で足音が乱れた。

 舎人が駆け込み、板敷の端で膝をつく。


 難波より急ぎの報せにございます

 新羅の使者、着きました

 和を請い、調を奉る由にございます


 それだけで、宮の気は変わった。


 人が呼ばれる。

 簾が上がる。

 控えていた者どもが散る。

 急ではある。だが乱れはない。呼ぶべき者の順は、すでに定まっている。


 御食子も出た。


 病は癒えていた。

 痩せはなお残る。頬も細い。だが、目に濁りはなく、歩みにもよろめきはない。政の座へ戻る者の歩みであった。それを見て、近侍の者どもはようやく胸の底を緩めた。


 やがて、座があらたまる。


 嶋大臣が来る。

 老いは見える。肩もやや落ちている。だが、その人が坐すだけで、座の軽みは失せた。


 史部真根も召されていた。

 書を読み、ことばの筋を定める者である。真根は前に筆と板を置き、黙して待った。


 使者はどこに置いた


 嶋大臣が問う。


 難波に留め置き、沙汰を待たせております


 書は


 届いております


 では、開け


 真根が書を受けた。

 封を検め、ひらき、ひと目走らせる。

 それから声に出した。


 新羅王、倭国に白す

 倭兵、海を渡ると聞き、国の上下みな憂う

 いま兵を収め、旧好に帰らんことを願う

 よりて調を奉る

 黄金三百両、白銀五百両、彩帛若干、良馬二十匹

 あわせて海辺の兵を罷め、使の往来を旧のごとくせんことを請う


 真根の声は低い。

 だが、黄金、白銀、彩帛、良馬と品が並ぶごとに、座の気は少しずつ変わった。

 和を言うだけではない。

 目に見えるかたちで頭を下げてきたのである。


 彩帛若干とは濁しておるな


 誰かが言う。


 数を曖昧にしております


 馬二十は見栄えでございましょう


 別の者が受ける。


 だが黄金三百、白銀五百は軽くない


 軽くないな


 嶋大臣が言った。


 軽くないからこそ、ことばだけではあるまい


 御食子は黙って聞いていた。

 膝の上の指が、一度だけ合わさる。


 ひとりの老臣が口をひらいた。


 ここまで和を乞い、調を出してくるほどなら、あの派兵、やや早まったやもしれませぬな

 待っておっても、新羅の方から頭を下げたやもしれませぬ


 座はしずまった。


 御食子が顔を上げる。


 いや


 声は高くない。

 だが、板敷の端までまっすぐに届いた。


 兵を出したからこそ、新羅は和を言い出したのであろう


 誰も口を挟まぬ。


 出さずに待っておれば、向こうは倭の心を見誤る

 海を渡る気ありと示したからこそ、調を出してきたのだ


 御食子は咳き込まなかった。

 言い切ったのちも、息は乱れぬ。

 そのときはじめて、座の者どもは、御食子の病がたしかに癒えたことを身で知った。


 嶋大臣が目を細めた。


 さよう


 ひとことだけ言う。


 兵は、戦うためのみにあらず


 その一言で、さきほどの見立ては消えた。


 兵を渡す。

 退かぬと見せる。

 そのうえで相手に口を開かせる。

 和は向こうから来た。

 だが、それを来させたのは、こちらが何もせずにいたからではない。

 その理が、ようやく座に定まった。


 真根が、もう一度書へ目を落とす。


 海辺の兵を罷めよ、とありまする

 また、使の往来を旧のごとく、と


 旧のごとくとは、どこまでを申す


 嶋大臣が問う。


 先の関係へ戻したし、との意にございましょう

 されど、書は広く書いております


 広く書けば、あとでどこへでも引ける


 御食子が言う。


 真根がうなずく。


 停戦のみとも取れます

 調の継続を約すとも読めます

 使の往来を旧のごとく、も、境の扱い、津の出入り、賓礼の等級まで、のちの争いの種となりましょう


 ことばは、そのままでは働かぬ。

 どう読むかで、あとが変わる。


 黄金三百、白銀五百、彩帛、良馬二十

 これをそのまま受けるとして、足りると見るか


 誰かが問う。


 足りる足りぬではありませぬな


 真根が言う。


 何の名で出してきた調か、それをまず定めねばなりませぬ

 軍を退くことへの礼か

 旧好回復のしるしか

 今後の朝貢の始めか

 名が定まらねば、受けても後で揉めます


 よい


 嶋大臣がうなずいた。


 品より先に、名を定めねばならぬ


 大王の御前に、ただちに上ぐるべきでしょうか


 と、ひとりが問うた。


 上ぐる


 御食子が答える。


 されど、先に群臣の意をそろえよ

 何をもって和とするか

 何をもって調とするか

 その骨を立ててから奏すべし


 誰も異を唱えなかった。


 大王の御前は国の中心である。

 だが、中心がただちに細事の先へ出て、ことごとくを裁くのではない。

 群臣が議し、書を読み、名を定め、返す形を整え、そのうえで奏する。

 そうして国は保たれる。


 使者は難波に置く

 軽んじたようには見せるな

 されど、急ぎて返すな


 嶋大臣が言う。


 宿は整え、礼は失するな

 返しの書は、真根、まず骨を起こせ


 は


 真根は頭を下げた。


 返しの書には、兵を収むることばを用いまするか

 それとも海辺の安寧と申しまするか


 まだ早い


 御食子が言う。


 向こうの出した調を、何の名で受けるか、それが先だ

 受け方を誤れば、書はそのまま鎖となる


 兵の側には、帰る支度を伝えておくべきでしょうか


 別の者が問う。


 まだ早い


 今度は嶋大臣が答えた。


 和の書が来たからとて、兵を先にゆるめれば、向こうに足もとを見せる

 使を収め、書を返し、順を立ててからだ


 御食子は静かにうなずく。


 まず使者を収める

 次に名を定める

 そのうえで兵を動かす


 ことの順が、ようやく座の上に立った。


 議がほどけたあとも、すぐには誰も立たなかった。

 新羅が和を乞い、調を奉ってきた。

 たしかにそれは大きい。

 だが、それ以上に、倭がそれを何と名づけ、どう受け、どう返すかで、この先の形は決まる。


 御食子が立つ。

 侍る者が一歩進みかけて、やめた。

 支えは要らぬと知ったからである。

 痩せはなお残る。

 だが、その背は、もはや病人のものではなかった。


 嶋大臣はしばらく残った。


 和を言い出したか


 誰にともなく低く言う。


 ついで、真根の前に置かれた書へ目をやった。


 兵を渡せば、口を開く国もある


 それだけであった。


 外では、もう足音が散っていた。

 使者の宿を定める者がいる。

 調の品を検める者がいる。

 返しの書の骨を起こす者がいる。


 和はまだ結ばれてはいない。

 だが、倭の国は、すでにそれを収めるために動き始めていた。



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