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第27話 将の旗


   三十三


 岸へ寄せるころには、夜の色はもう薄れていた。


 半島の地は、海の上から見えたときより低く、近く、そして硬く見えた。

 黒くつづく起伏の下に、浜が細くひらいている。

 その浜に、すでに人影があった。


 倭の兵は、まだ船腹の中にいた。

 馬は鼻を鳴らし、

 昨夜の揺れで顔色の戻らぬ者もある。

 それでも、岸に人が待っていると知れたとたん、兵どもの身のうちに、別の張りが戻ったのを鎌足は見た。


 広手が低く言った。


 寄せるぞ


 網手が別の舟へ声を飛ばした。


 先を争うな

 浅瀬に乗り上げれば、そこで詰まる


 大船は沖に残り、

 中船が先に浅みへ寄り、

 さらに小舟が人と荷を岸へ運ぶ。


 まず下ろされるのは、兵そのものではなかった。

 先に浜へ立ったのは、土地に慣れた案内の者、

 荷の置きどころを定める者、

 弓を濡らさぬための覆いを持った者どもであった。


 兵はそのあとである。


 浜は狭くはない。

 だが、二万余を一息に受ける浜ではない。

 ゆえに、ここでもまた順が要った。


 馬を下ろすときが、いちばん危うかった。


 海は昨夜よりおとなしい。

 それでも、船から板を渡し、揺れる足場を踏ませれば、馬は地の上のようには動かぬ。

 一頭が板の途中で止まり、首を振った。

 もう一頭は脚を突っぱり、海の匂いに怯えて身を返そうとした。


 牛甘が怒鳴らぬ声で言った。


 目を見せるな

 腹を押せ

 後ろを詰まらせるな


 男たちが馬の首、腹、尻に手を当てる。

 滑りかけた脚を別の者が支える。

 馬はようやく板を渡り、浅瀬へ脚を入れた。

 水が跳ね、浜の砂が黒く崩れた。


 鎌足は、それを見ていた。


 軍は、海を越えたからといって、一息に岸へ立つものではない。

 人も馬も荷も、ひとつずつ危ういところを越えて初めて地へ移る。

 それが浜の現実であった。


 だが、その現実を、そのまま岸へさらしてはいなかった。


 上がった兵は、すぐに列を取った。

 吐いていた者も、槍に寄りかかるようにして立った。

 馬はまだ落ち着ききらぬ。

 それでも引き綱の手は乱れぬ。

 荷は置き場へ送られ、

 将の旗は、まだ多くを立てぬまま、見えるべきところにだけ置かれた。


 昨夜の渡海で、兵は疲れている。

 揺れに吐いた者もあり、

 濡れた衣もまだ乾ききっていない。

 だが、その疲れをそのまま岸へひろげてはいない。

 疲れた兵ではなく、

 整った兵として浜に立っている。


 そのとき、鎌足のそばで翹岐が低く言った。


 ようやく、人に見せられる形になりましたな


 何がだ


 鎌足が問うと、翹岐は浜の方を顎で示した。


 兵ではございませぬ

 兵の見え方にございます


 鎌足は黙っていた。


 翹岐は続けた。


 この浜には、伽耶の者だけがおるのではありませぬ

 新羅に耳を売る者もおりましょう

 今日じゅうに向こうへ走る足が、必ず出ます


 鎌足は思わず浜のあちこちの顔を見た。


 迎えに出た伽耶の者ども。

 荷を受ける者ども。

 ただ立って見ているように見える男ども。

 その中に、誰がそうであっても不思議はなかった。


 翹岐が言った。


 その者どもが持って走るのは、兵の数ばかりではございませぬ

 崩れておらぬ列を見ます

 将の旗を見ます

 倭の将がこの地へ沓を置いたことを見ます


 それで足ります


 川瀬は、浜から目を離さぬまま言った。


 だから、崩すなというのだ


 翹岐はうなずいた。


 兵は、ことごとく見せればよいのではありませぬ

 見せるべきところだけを見せ、

 なお奥に手が残っていると思わせるのがよろしい


 鎌足は、そのことばを深く聞いた。


 翹岐はさらに言った。


 ゆえに、新羅はすぐには打って出ぬやもしれませぬ


 なぜだ


 鎌足が問うと、翹岐は少しだけ目を細めた。


 来たことより、来て崩れておらぬことの方が厄介だからにございます

 荒れて着けば、向こうはたやすく侮ります

 整えて着けば、こちらは長く居る気だと知ります


 賢い相手なら、まず損得を勘定いたします

 そのうえで、打つより先に和を探る

 このたびは、こちらの将にではなく、倭の宮へ使いを立てるやもしれませぬ


 その言い方は預言めいてはいなかった。

 利を並べた結論として、そう言っているのであった。


 そのあいだにも、浜の流れは変わっていた。


 上陸した兵を、すぐそのままひとところへ固めてはならぬ。

 固めれば浜が詰まる。

 馬が騒ぐ。

 粮が傷む。

 ゆえに、川瀬と広手が、浜の手前からもう兵を分けていた。


 ここまで

 そこから先へはまだ出すな

 馬は右へ

 粮は奥へ

 弓は濡れぬところへ寄せよ


 その声の下で、兵は少しずつ浜から奥へ吸われていった。


 やがて、伽耶の者が進み出て、深く頭を下げた。


 お待ち申し上げておりました


 国子はまだ船を下りていなかった。

 先に境部雄摩呂が浅瀬へ入った。

 水が膝下を濡らしたが、歩みは変わらなかった。

 その後ろに国子が続いた。

 物部依網乙等、波多広庭、近江脚身飯蓋、平群宇志らも、順に浜へ立った。


 鎌足は川瀬に付いて、少し遅れて下りた。


 砂は筑紫の浜とも違った。

 粒が細かく、踏めば少し深く沈む。

 海の匂いもまた違う。

 同じ海であるはずなのに、向こうの海はどこか硬かった。


 迎えの者は、国子と雄摩呂の前で、もう一度礼をした。


 倉下どのより、諸将すでに着かるべしと承っております

 浜の置き場、馬の寄せ場、兵の休めどころ、先に整えてございます


 そのことばに、鎌足は胸のうちで少し驚いた。


 整えてある。


 それは、倭の兵が来ることを、現地がただ頼って待っていたのではないということでもあった。

 来ると決まったからには、それを受ける側もまた、自らの理で手を打っていたのである。


 川瀬が低く言った。


 倉下どのは


 その者は答えた。


 すでに奥にて待っておられます


 波多広庭が、そのことばを受けた。


 伽耶の諸家は


 揃いきってはおりませぬ

 されど、主だった者どもは、今日のうちに顔をそろえましょう


 その返しは整っていた。

 整っているぶんだけ、現地の心がまるごと安んじているわけではないことも分かった。


 雄摩呂が言った。


 よい

 先に兵を置く


 ここからが、浜の第二の難しさであった。


 上陸した兵を、すぐそのままひとところへ寄せてはならぬ。

 川瀬と広手が浜の内外で声をつなぎ、

 網手が船の順を改め、

 牛甘が馬の寄せ場を変え、

 翹岐は伽耶の案内の者どもへ半島ことばで二言三言だけ短く渡した。


 それで流れが変わる。


 兵が立ちどまるところ、

 荷をまだ伏せておくところ、

 現地の者どもに見せるところ。


 その分け方が、ただの上陸ではなく、上陸の場を整える手つきになっていた。


 鎌足は、そのことを目のあたりにした。


 筑紫の結地では、まだ諸氏の兵が寄ったように見えた。

 だが今、半島の地に立つと、

 境部の列、

 国子の列、

 副将らの列、

 その後ろに控える兵と馬と荷とが、

 ひとつの外征の軍に見えた。


 将たちは、その日のうちに倉下のもとへ集まることになった。


 浜から少し奥へ入ったところに、仮にしつらえた広い板屋があった。

 もとは伽耶の有力者の倉であったらしい。

 柱は太く、床は高く、風が通るように作られていた。

 その周りに倭の兵が控え、

 さらに外側に現地の者どもが控えた。


 そこで初めて、倉下を見た。


 年は国子より少し上に見えた。

 日に焼けている。

 だが武辺の荒れ方ではない。

 顔の皮膚は薄く、目だけが異様に静かであった。

 長く現地で、ことばと人と顔色を見てきた者の目であると鎌足には思われた。


 倉下は、将たちの前で深く礼をした。


 よくぞ来られた


 その声に、安堵がまったくないわけではなかった。

 だが、それよりも先に、これでようやく次の手が打てるという、実務の安堵の方が強く響いた。


 国子が言った。


 そなたの見たところ、ここで改めて聞こう


 倉下はうなずいた。


 新羅は、ただちに兵を押し出してはおりませぬ


 その第一声で、場の空気がひとつ定まった。


 ならば、こちらの上陸は間に合ったのである。


 倉下は続けた。


 されど、手を緩めてもおりませぬ

 港へ手を入れ、

 工人へ手を入れ、

 馬飼へ手を入れ、

 ことばの通う者どもを先に寄せております

 任那の名はなお残る

 されど、名の下に集まる手は、放っておけば散りましょう


 雄摩呂が問うた。


 こちらの上陸を聞けば、どう動く


 倉下は答えた。


 昨夜のうちにも、こちらの着きを見た者は走っておりましょう

 今朝には、将がそろって岸へ立ったことも、向こうへ入っておるはずにございます


 打って出るより先に、まず量ります

 こちらがどこまで留まるか

 伽耶の者どもがなお倭へ寄るか

 そこを見ます


 国子が問うた。


 それで終わるか


 終わりますまい


 倉下は言った。


 ことばを通わせてまいりましょう

 この浜の将へではなく、御座の近くへ道を探るやもしれませぬ


 そのことばに、翹岐がわずかに目を上げた。

 だが何も言わなかった。


 鎌足は、胸のうちでうなずいた。


 翹岐は理を述べた。

 倉下は、すでに向こうでそういう足が動きはじめるはずだと告げている。

 同じことではない。

 理と、現地の気配である。


 ついで、現地の者が順に顔を出した。


 伽耶の首長たち。

 倭に近い者。

 まだ距離を置く者。

 それぞれ衣も従える者の数も違う。

 違うが、皆、倭の将たちの顔ぶれを強く見ていた。


 その目つきには、

 助けを待った安堵もあれば、

 これほどの軍が来たことへの警戒もあった。


 鎌足は思った。


 ここでは倭は救う側である。

 だが、救うほどの力で来たということは、そのままこの地を圧する力でもある。

 現地の者どもが、ただ喜ぶだけで済むはずがなかった。


 議は、日が傾きはじめるころに始まった。


 倭の将が上座に並んだ。

 雄摩呂。

 国子。

 物部依網乙等。

 波多広庭。

 近江脚身飯蓋。

 平群宇志。

 大伴方の将。

 大宅軍。


 その列の前に倉下が坐し、

 さらにその向こうに伽耶の者どもが控えた。


 最初に国子が言った。


 ここへ来たゆえ、まず守るべきところを定める

 兵をひろげすぎぬ

 されど、来たことが軽く見えぬようにする


 雄摩呂がそれを受けた。


 浜に兵を重ねすぎれば、疲れる

 奥へ寄せすぎれば、来たことが見えぬ

 ゆえに、見せる兵と伏せる兵を分ける


 そこは、筑紫で幾度も言われてきたことの延長であった。

 ただ、ここでは相手が伽耶であり、新羅であった。


 倉下が言った。


 新羅は、こちらが奥へ入りすぎるのを待ちましょう

 奥へ入れば、道は細る

 帰りも細る

 それを知っております


 物部依網乙等が低く問うた。


 では、留まるか


 留まるだけでは、任那の手は散ります


 倉下は答えた。


 岸とその近き地でこちらの形を保つほかございませぬ

 深入りせず、

 されど来たことは軽く見せぬ

 そのような保ち方が要りましょう


 ここで、翹岐が初めてことばを発した。


 兵は、抜けば血が出ます

 見せれば、まだ出ませぬ


 場の目が、そちらへ向いた。


 翹岐は少しも慌てなかった。


 相手がこちらの譲歩を引き出そうとするとき、

 こちらが先に兵を使えば、向こうはその痛みに賭けてまいります

 こちらも減り、

 向こうも意地になります


 ゆえに、兵を用うるは下の策にございます

 まずは、使わずに利かせるのがよろしい


 雄摩呂が、その男を見た。


 どう利かせる


 翹岐は答えた。


 将をそろえて見せる

 列の乱れぬところを見せる

 こちらがこの地へ足を下ろし、しかもまだ余しておると悟らせる


 それで相手が腰を下ろすなら、その方がはるかによろしい

 兵は、斬って勝つより、使わずに折らせる方が上でございます


 国子が問うた。


 それで新羅は退くか


 退ききりはいたしますまい


 翹岐は言った。


 されど、まず戦を遠ざけます

 調を差し出し、

 時を稼ぎ、

 こちらの腹を量る

 その方が損が少ないからにございます


 波多広庭が言った。


 それは、兵が効いたということか


 翹岐は、少しだけ口元をゆるめた。


 まだ兵は使っておりませぬ

 ゆえに、いちばんよく効いております


 そのことばは、鎌足の胸へまっすぐに入った。


 乙等が低く言った。


 それで任那の手が戻るか


 倉下が静かに答えた。


 戻りきりはいたしますまい

 されど、散る速さは止まりましょう


 そのことばは、ひどく今の戦の本質を表しているように鎌足には思われた。


 取り戻しきることはできぬ。

 だが、失う速さを止める。

 いまは、そのような勝ちしかない。


 日がもう傾ききるころ、伽耶の一人が外から入ってきた。

 礼をし、倉下へ二言三言だけ告げた。


 倉下の目が、わずかに動いた。


 申せ


 国子が言った。


 倉下は答えた。


 新羅の側より、倭の御座近くへことばを通わせたしとの気配あり

 こちらへ使いを寄こすより先に、宮へ走る道を探っておる由にございます


 それだけで十分であった。


 この日の上陸と勢揃いが、すでに向こうを動かしはじめている。

 しかも、その動きはこの浜ではなく、小墾田宮の方を向きはじめている。


 将たちは、そのことを皆知った。


 雄摩呂は立ち上がらなかった。

 国子もまた坐したままであった。

 だが、場の空気はひとつ変わった。


 軍は、まだ戦っていない。

 それでも、もう相手を動かしている。


 鎌足は、そのことにひどく打たれた。


 渡海までは、軍とは苦労の集まりであった。

 結地までは、軍とは諸氏の力を縛る形であった。

 だが今、半島の地に立つと、

 軍とは戦う前から、相手の損得を変える形でもあるのだと分かった。


 議が終わったあとも、外はまだ明るさを少し残していた。


 将たちが出ると、伽耶の者どもはみな道をあけた。

 あけ方は、筑紫で兵が将の前に道を作ったときと似ていた。

 だが、同じではなかった。


 筑紫では、それは倭の内の理であった。

 ここでは、それが半島の者の目に映る力であった。


 鎌足は、板屋の外で立ち止まり、暮れかけた空の下に並ぶ列を見た。


 境部の列。

 国子の列。

 副将たちの列。

 その後ろに並ぶ兵。

 そして、少し離れて立つ伽耶の者ども。


 それらは夕暮れの中で、大きくは動いていない。

 だが、動かぬまま、十分に力を持って見えた。


 夜に入れば、兵は休む。

 馬も下ろされる。

 粮も分けられる。

 現地の者どもとの細かな詰めは、まだ続く。


 だが、この日のうちに、もう一つ決まったことがある。


 倭の兵は、無事に岸へ立った。

 将はそろった。

 そして新羅は、それを見て、まずは和を探る方へ傾きつつある。


 戦わずして動いたものが、たしかにあった。


 鎌足は、その夜、仮の宿の外で半島の風を受けながら思った。


 ここまで来て、ようやく分かったことがある。


 兵とは、斬るためだけのものではない。

 立つことそのものが、もう相手の心へ入る。


 使わずに利かせる。

 使うとしても、そのあとである。


 そのことを知った朝は、もう前の朝ではないのだと、強く思った。



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