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第26話 海を越える


   三十二


 筑紫の結地に入った朝、鎌足は、兵が兵になるところを見たと思った。


 いや、まだ兵になりきってはいないのかもしれなかった。


 平群の兵は平群のまま立っていた。

 物部の兵は物部のまま武具を置いた。

 波多の者どもは、海辺の者らしく、荷より先に風を見ていた。

 近江の人足は、まだ道の上の土を靴に残していた。

 境部の軍は、境部の名の下にありながら、その背の厚みのどこかに蘇我の重さを含んでいた。


 みな同じ方を向いている。

 だが、まだ同じ身のこなしにはなっていない。


 旗の立て方が違う。

 馬の寄せ方が違う。

 槍のまとめ方が違う。

 声をかけるときの抑え方が違う。


 結地とは、兵をただ集めるところではないのだと、鎌足は思った。

 ばらばらに立った諸氏の兵を、なお一つの兵に見せはじめるところである。


 川瀬が言った。


 見えるか


 鎌足はうなずいた。


 まだ、みな別々にございます


 川瀬は、海の方を見たまま答えた。


 それでよい

 別々のまま寄せて、

 別々のままではおれぬようにする

 そのための結地だ


 海からの風は、朝から絶えず吹いていた。

 吹いている。

 だが、空は晴れきってはいない。

 薄い曇りが、ひどく高いところでひろがっていた。


 浜では、すでに船の出し入れが始まっていた。


 大船は沖寄りに置かれ、

 中船は岸に近く、

 小舟がそのあいだを絶えず往復している。


 人を乗せる船。

 粮を先に運ぶ船。

 馬を渡すための船。

 戻りを受ける船。


 網手と広手が、浜でそれぞれ別の声を出していた。

 高くはない。

 だが、聞き分けねばならぬ声であった。


 あれは先へ回せ

 それはまだ上げるな

 馬を寄せすぎるな

 船腹が先に傷む

 人を先に乗せるな

 粮が先だ


 浜は騒がしかった。

 だが、乱れてはいなかった。


 乱れていないことが、かえって怖ろしかった。


 それだけ多くの手が、あらかじめ乱れぬように置かれているということであった。


 その昼前、国子のところへ中央からの使いが着いた。


 供は少ない。

 馬も二頭にすぎぬ。

 だが、走り方で急ぎの使いと知れた。


 鎌足は、その少し後ろにいた。

 国子のそばには川瀬がいた。


 使いは礼をし、簡を差し出した。


 国子は開いた。

 短い簡であった。

 だが、読み終えたあとも、すぐには畳まなかった。


 どうだ


 川瀬が問うた。


 国子は答えた。


 渡れとある


 鎌足は、胸のうちで何かが一つ落ちるのを感じた。


 渡れ。


 ことばにすれば、それだけであった。

 だが、その二文字の向こうに、海がまるごと入っているように思われた。


 国子は、なお簡を見ていた。


 将軍ら、兵を率いて海を渡れ

 筑紫にてとどまるな

 新羅の手の及ぶ前に、向こうへ形を見せよ

 倉下の見たところとも合すべし


 そこまで読んで、少し置いた。


 鎌足もまた、川瀬に付して渡らしむ

 前へ出しすぎるな

 見て戻らしめよ


 川瀬は、顔を動かさなかった。


 御食子の君の意か


 使いが答えた。


 御食子の君のことば、国子どのへ伝え置かれたるところを踏まえ、

 そのように整えられた由にございます


 国子は、そこで初めて鎌足を見た。


 渡るぞ


 鎌足は、すぐには答えられなかった。


 海を渡る。


 結地まで帯同が許されたとき、

 筑紫へ来たとき、

 渡来人の男から、海の向こうのことばの軽さと重さとを聞いたとき、

 そのたびに、海は近づいてきた。


 だが今、初めて、それが現実として胸へ入った。


 は


 ようやく、それだけ答えた。


 国子は言った。


 ここから先は、結地を見るのとは違う

 浜へ出れば、兵の理より先に、海の理が出る

 それを忘れるな


 川瀬が低く続けた。


 船では、兵も将も同じようには立てませぬ

 吐く者は吐く

 転ぶ者は転ぶ

 濡れる者は濡れる

 それでも向こうへ着かせる

 そのための順になる


 それから、ほんの少しだけ目を細めた。


 おぬしは、ただ見ておれ

 船の上でまで、理を追うな

 まず、落ちるな


 そのことばに、浜の現実が初めて鎌足の身に触れた。


 落ちるな。


 そこまで言われて、ようやく、海がただの道ではないことが分かった。


 その日の午後から、渡海の順が組み替えられた。


 先に渡る兵。

 あとから渡る兵。

 先に粮を送る船。

 馬を分けて乗せる船。

 将軍の乗る船。

 伝令の乗る小舟。


 結地にてようやく一つに見えはじめた兵が、

 浜に来ると、また別の順にほどかれていった。


 鎌足は、そのほどかれ方を見ていた。


 兵を寄せる。

 またほどく。

 ほどいたものを、海の向こうでまた寄せる。


 軍とは、ただ一度立てれば済むものではないらしかった。

 地で立て、

 浜でほどき、

 向こうでまた立てる。


 そのたびに、同じ兵でありながら、別の顔を持たねばならぬのである。


 夕方近く、風が少し変わった。


 網手が空を見た。

 広手が海を見た。

 川瀬は黙って船腹を見た。


 出せるか


 国子が問うた。


 網手が答えた。


 今日のうちに出ます

 夜にかかる

 だが、いま出ねば、明日の風がまだ読めませぬ


 広手が言った。


 波は高うはありませぬ

 されど、沖へ出れば、船は揺れましょう


 川瀬は短く言った。


 揺れぬ船などない

 揺れるうちに崩れぬようにするだけだ


 それで決まった。


 夕暮れとともに、先発の船が出ることになった。


 浜では、最後の積み替えが行われた。


 粮袋が運ばれる。

 槍が束ね直される。

 弓が布で巻かれる。

 馬は目隠しをされ、二頭ずつ、慎重に船へ移された。


 馬は、浜では強かった。

 だが、板を渡され、揺れる船腹の方を向かされると、急に鼻を鳴らし、脚を突っぱった。


 牛甘が怒鳴りはしない声で言った。


 引くな

 首を押せ

 目を見せるな


 その低い声の下で、男たちが馬の首と腹と脚のわきを支えた。

 一頭は乗った。

 次の一頭は、板の途中で滑った。

 あわや落ちるかと思われたが、三人がかりで吊るようにして持ち直した。


 鎌足は、その場で初めて、海を渡るとは兵だけを船へ載せることではないのだと知った。

 馬一頭を乗せることすら、これほどの手を要する。


 人の方も同じであった。


 若い兵の中には、まだ乗る前から顔色を失っている者がいた。

 海の匂いに慣れぬ者であろう。

 浜では平気であっても、船腹へ足をかけたとたん、足が止まる者もあった。


 川瀬が、鎌足の肩を軽く押した。


 乗れ


 鎌足は小舟から大船へ移された。

 板が揺れた。

 足裏の下で、木が海に浮いているのが分かった。

 それだけで、胸の底が少し冷えた。


 船へ上がると、もう地の上のようには立てなかった。

 船は、まだ岸に近いのに、息をしているように上下した。

 身体がそのたびに少し遅れてついてゆく。


 川瀬が言った。


 膝を固くするな

 余計に揺れる


 鎌足は、言われたとおり少し力を抜いた。

 だが、抜けば抜いたで、別の揺れが脚へ入った。


 やがて、岸が少しずつ遠ざかりはじめた。


 最初はゆるやかであった。

 人の声がまだ届く。

 浜の火もまだ近い。

 だが、気づくと、岸の人の顔はもう見えず、動くだけの影になっていた。


 空は暮れきってはいない。

 西にまだ光が残り、

 その下で、筑紫の岸が低く長く横たわっていた。


 鎌足は、その岸を見ていた。


 あれが倭である。


 見慣れた山でもなく、

 小墾田の庭でもなく、

 鹿嶋の海でもない。

 だが、いま自分が離れつつあるものの名を、一つにすれば倭であると思った。


 沖へ出るにつれて、揺れは強くなった。


 大きくはない。

 だが、絶えず来る。

 下から持ち上げられ、

 つぎの瞬間、少し落とされる。


 兵のうち、一人が吐いた。

 つづいて二人、三人と、船縁に顔を向けた。

 波が高いわけではない。

 だが、揺れに身体がまだ馴れていないのである。


 鎌足もまた、胃のあたりが冷たくなった。

 吐くほどではない。

 だが、口をきけば、ことばより先に胸のむかつきが出そうであった。


 川瀬は平気な顔でいた。

 いや、平気ではないのかもしれぬ。

 ただ、その揺れを身体のうちへ入れぬようにしているように見えた。


 前を見るな

 遠くを見ろ


 そう言われ、鎌足は海の先を見た。


 闇はまだ来ていない。

 薄い灰色が、どこまでもひらいていた。

 その中を、船はぎしぎしと音を立てながら進んでいた。


 夜に入るころ、風がひとつ強くなった。


 帆が鳴った。

 船腹がきしんだ。

 一人の兵が、思わず槍に手をかけた。

 だが船の上では槍は支えにならぬ。

 その槍の穂先を別の兵が押さえた。


 川瀬が短く言った。


 座れ


 皆が一斉に低くなった。


 それで揺れは収まらぬ。

 だが、人の重みが落ち着くと、船の気配も少し変わる。

 鎌足にはそう感じられた。


 波の一つが、船腹を強く打った。

 水しぶきが上がり、前の方にいた二人の肩を濡らした。

 火を覆っていた布が、危うく飛びかけた。

 船手がすぐ押さえた。


 広手が隣の船へ声を送った。

 短い声であった。

 だが、海の上では、その短い声がひどく遠くまで通った。


 鎌足は、歯を食いしばっていた。

 怖ろしい。

 だが、その怖ろしさは、地での怖ろしさとは違った。


 敵が見えぬ。

 刃も見えぬ。

 あるのは、足の下の板が、倭の地のようには決して固くないということだけであった。


 それでも船は進んだ。


 夜が深くなるころには、岸はもう見えなくなった。

 倭の火も消えた。

 四方は海と空だけになった。


 鎌足は、その闇の中で、ふとあの渡来人の男を思い出した。

 海の向こうを知る者の顔で、ひょうひょうとしていた男である。

 あの男には、この闇もまた、ただの道の一つに見えるのであろうかと思った。

 そう思うと、かえって、海の向こうを知るとはどういうことか、少しだけ分かる気がした。


 夜半を過ぎるころ、揺れは少しおさまった。


 風が変わったのであろう。

 船手どもの声も低くなり、

 吐いていた兵どもも、ようやく黙った。

 その黙りは、安んじた黙りではなく、疲れきったあとの黙りであった。


 鎌足は、船腹に身を寄せたまま、うとうとしかけた。

 だが、そのたびに船がわずかに持ち上がり、眠りの底まで沈ませてはくれなかった。


 やがて、夜の色が薄くなりはじめた。


 東が明るんだのではない。

 前の方の闇が、少しだけ灰色にゆるんだのである。


 船手の一人が、低く言った。


 見える


 川瀬が顔を上げた。

 広手も、網手も、前を見た。


 鎌足も、その方を見た。


 最初は雲かと思った。

 海の上に、低く、長く、黒いものが横たわっていた。

 だが、それは雲ではなかった。

 光が少しずつ増すにつれ、下の方が海から離れているのが分かった。


 岸である。


 半島の岸である。


 鎌足は、息を止めた。


 海の向こうは、これまでことばの中にあった。

 簡の中にあり、

 渡来人の顔の中にあり、

 御食子や国子の議の中にあった。


 それが今、初めて、土の形として目の前にあらわれた。


 岸は、まだ遠かった。

 細かいところは見えぬ。

 だが、確かに地であった。

 山とも丘ともつかぬ黒い起伏が、薄明かりの中に連なっていた。


 船手が言った。


 まだ気を抜くな

 寄るまでが海だ


 そのことばで、鎌足はようやく息をついた。


 半島の岸は見えた。

 だが、まだ着いてはいない。


 それでも、見えたということだけで、胸のうちの何かが大きく変わっていた。


 倭を離れ、

 海に揺られ、

 危うく濡れ、

 吐く者も出し、

 それでも越えてきたその先に、今、別の地が見えている。


 鎌足は、その黒い岸を見つめた。


 朝は、ついに海を越えたのだと思った。



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