第25話 翹岐
三十一
筑紫の空は、倭の内の空とは少し違って見えた。
広いのではない。
低いのでもない。
ただ、どこか、遠くへ抜ける気配があった。
海が近いゆえであろうと、鎌足は思った。
風は陸を渡るだけではない。
向こうから来て、ここを抜け、また向こうへ行く。
そのような風であった。
第一の結地よりさらに西へ寄ると、人の顔つきが変わった。
大和で見る顔ではない。
河内とも違う。
難波とも違う。
兵である。
人足である。
浜の者である。
船の者である。
そして、ことばだけは倭のものでも、その息づかいや目の置きどころが、どこか向こうの地に寄っている者どもがいた。
結地では、兵の数だけでは足りぬ。
船腹を見、荷を分け、誰がどの舟に乗り、誰が浜に残るか、その順を誤らぬことが要る。
そのため、渡来のことばに通ずる者、港の理を知る者、向こうの国のしきたりを知る者どもが、自然と集まってくるのであった。
鎌足は、その日も川瀬の後ろについていた。
川瀬は、前を歩く。
立ち止まる。
人の顔を見る。
荷を見る。
船を見る。
そして、何もないように見えるところで、ひとつふたつ、短くことばを置く。
置かれたことばのあと、流れがほどける。
それを見ているうちに、鎌足は、兵とは槍と弓ばかりではないと、もう骨のうちで知りはじめていた。
その日の昼過ぎ、川瀬は浜の端に建てられた仮の板屋へ入った。
鎌足もその後ろに入ろうとして、川瀬に止められた。
ここで待て
は
呼ぶまで入るな
鎌足は板屋の外で膝をついた。
中からは、ことばが聞こえた。
倭のことばである。
だが、ところどころに、音の切れ方の違う響きが混じる。
百済ことばを含んだ倭語であることは、鎌足にも分かった。
ひとりの声が、低く、少し笑うように言った。
兵は多うございますな
多うございますが、多いことと働くこととは、違います
川瀬が答えた。
それは承知しておる
承知しておられる方は、たいてい、その承知の半ばほどしか承知しておられませぬ
鎌足は思わず耳を澄ませた。
その言い方は、無礼とも聞こえる。
だが、ただの無礼ではない。
相手を試しながら、しかも相手が怒らぬぎりぎりを知っている者の言い方であった。
川瀬は少しも声を荒げなかった。
残りの半ばを申せ
舟を先に立てすぎれば、浜が痩せます
兵を先に下ろしすぎれば、粮が痩せます
粮を見せすぎれば、向こうの目が肥えます
何を先に立てるかは、数ではなく、誰に見せるかで変わります
しばし沈黙があった。
その沈黙ののち、川瀬が言った。
おぬし、やはり蘇我の屋に長うおるだけはある
中から、また少し笑う気配がした。
長うおるのではありませぬ
長う置かれておるのです
その返しで、鎌足は相手の顔を見たくなった。
やがて川瀬が戸口をわずかに開き、鎌足へ目を向けた。
入れ
鎌足は中へ入った。
板屋の内は明るくなかった。
浜の光が、板の隙から細く入っているだけであった。
中には川瀬と、もうひとり、知らぬ男がいた。
年は三十を少し越えるか越えぬか、そのあたりに見えた。
細すぎぬ。
太くもない。
衣は渡来の風ではなく、もう倭の形に寄っている。
だが、着ているというより、仮にその形に収まっているように見えた。
どこか、衣のほうがこの男に合わせているようであった。
顔立ちは整っていた。
整っているのに、やわらかくはない。
目が少し細く、眠たげにも見える。
だが、眠たげに見えるのは目の形だけで、その奥は少しも眠っていなかった。
男は鎌足を見ると、少し首を傾けた。
これが
川瀬が答えた。
鎌足さまだ
男は立たなかった。
だが、無礼にも見えぬほどに、わずかに姿勢を正した。
はじめてお目にかかります
いまは蘇我本宗家に寄寓しております
名は翹岐と申します
鎌足は、その名を聞いても、すぐには返せなかった。
百済風の名である。
だが、百済の名をそのまま名乗る者にしては、倭の場に慣れすぎている気がした。
川瀬が、鎌足の沈黙を見て言った。
百済の人だ
王族の末と申す
いまは蝦夷どのの近いところに置かれておる
翹岐は、少し笑った。
末と申すほど立派なものでもございませぬ
王族の庶流に生まれ、都で筆と札をいじっておっただけにございます
筆と札
鎌足が思わず言うと、翹岐は目を向けた。
はい
蔵の出し入れを見、
港に入る荷を見、
法の文言を写し、
役人の嘘を半ばほど見抜く
そのような、つまらぬ役目にございました
その言い方は、自らを低くしているようでいて、少しも卑してはいなかった。
むしろ、そういう役目の重さをよく知っている者の言い方であった。
川瀬が言った。
つまらぬ役目であるなら、蝦夷どのがわざわざここへ置かぬ
翹岐は肩をすくめた。
蝦夷どのは、人の使いみちをよくご存じにございます
それは恩でございます
恩であるゆえ、軽々しく逃げられぬのが面倒でもございます
鎌足は、そのことばを聞いて、この男がただの客ではないと知った。
蘇我に養われている。
だが、蘇我の郎党という顔はしていない。
かといって、離れて立っているわけでもない。
そのあいだにいる。
川瀬が言った。
こやつに、浜と舟と、向こうのことばの継ぎとを見せてもらう
翹岐が、あからさまに眉を上げた。
この子に、でございますか
子ではない
川瀬は短く言った。
御座より遣られた目だ
翹岐は、そのことばを聞いて、初めて鎌足を少し違う目で見た。
細い目の奥で、何かを測り直したように見えた。
なるほど
それだけ言った。
それから、鎌足に向かって言った。
では、お若い目
ひとつ、こちらの恥をたっぷりご覧になるとよろしい
恥、とは
鎌足が問うと、翹岐は、板屋の外を顎で示した。
兵が多いことに安心している者どもの顔
舟が立ったことに安心している者どもの顔
百済がなお倭を頼ると思っている者どもの顔
そのどれも、いまの筑紫にはよくございます
川瀬が低く言った。
申すな
翹岐は少し笑った。
申さねば、あとで皆、最初から知っておったような顔をなさいます
鎌足には、そのことばが、ひどく嫌らしく、同時にひどく正しいようにも聞こえた。
翹岐は立ち上がった。
参りましょう
まずは浜でございます
三人は板屋を出た。
浜では、舟が二列に引かれていた。
人を乗せる舟。
粮を積む舟。
馬を渡すために腹を改めている舟。
まだ出ぬが、戻りを受けるために残されている舟。
翹岐は歩きながら言った。
倭の方々は、兵を数えるとき、つい人の数をご覧になります
もちろん人は要ります
されど、海を渡る兵は、人の数で立つのではありませぬ
では、何で立つ
鎌足が問うた。
遅れぬことでございます
翹岐は答えた。
遅れぬこと。
先に着くべきものが先に着くこと。
遅れてよいものが、むやみに前へ出ぬこと。
そして、遅れたとき、その遅れをその日のうちに埋める手があること。
兵とは、そのようなものでございます
川瀬が、黙ってうなずいた。
翹岐はさらに言った。
向こうの国では、法があり、令があり、式がございます
されど、法や令だけで兵が動くわけではありませぬ
遅れぬこと。
滞らぬこと。
どこで何が詰まるかを、先に知っておる者がいること。
結局はそこにございます
鎌足は、そのことばを聞きながら思った。
この男は、兵を見ているようでいて、兵だけを見てはいない。
人の動き方そのものを見ている。
浜の端で、ひとつの小さな騒ぎが起きていた。
馬を乗せるはずの舟に、先に粮が積まれてしまっていたのである。
舟の者は、先に積めと言われたと申す。
兵の側は、馬が遅れれば全部が遅れると申す。
どちらも理である。
だが、その理が浜の上でぶつかれば、ただの詰まりになる。
翹岐は、その場へ近づいた。
怒鳴らなかった。
走りもしなかった。
まず舟の腹を見た。
次に馬を見た。
次に、誰が先に命を受けたかを問うた。
そして、すぐに言った。
粮を半ばだけ下ろせ
馬を先に二頭入れよ
残りの粮は次の舟へ回せ
次の舟には、人を乗せるな
人は浜で一刻待て
兵の側の者が不満げな顔をした。
翹岐は、その顔を見て言った。
ご不満はもっとも
ですが、一刻待つ不満と、明日じゅう遅れる不満と、どちらが軽うございます
兵の者は黙った。
その隙に、川瀬が二つ三つ短く命を飛ばした。
荷が動いた。
馬が入った。
浜の流れが戻った。
鎌足は、その一部始終を見ていた。
翹岐は、振り向かずに言った。
いまのを見て、何を思われました
鎌足はすぐには答えられなかった。
どちらも誤ってはおりませなんだ
翹岐は、少しだけ口元をゆるめた。
よろしい
では、なぜ詰まったのか
兵が、兵の理で申したからにございます
舟の者は、舟の理で申した
どちらも、そのままでは通らぬので
翹岐は、そこで初めて鎌足を見た。
なおよろしい
その目の奥が、少しだけ変わったように見えた。
鎌足には、この男が自分を試しているのだと分かった。
しかも、子としてではなく、少し先のものとして試している。
日が傾くころ、三人は浜の上から結地の方へ戻った。
風が強くなっていた。
兵の列のあいだから、知らぬことばが幾つも聞こえた。
倭語に百済の音が混じる。
新羅の訛りもある。
そのどれもが、今はなお倭の兵の周りで働いている。
翹岐が言った。
お若い目
は
蝦夷どのが、なぜあなたをここへ寄せたか、お分かりになりますか
鎌足は少し驚いた。
その問いは、まるでこちらの胸の中を先に読んでいたようであった。
分かりませぬ
翹岐は笑った。
それが自然でございます
それから、風の方を向いたまま続けた。
蝦夷どのは、おそらく二つを見ておられます
一つは、御食子どのの目を、ここへ先に置くこと
もう一つは、中臣の目を、蘇我の手のうちへ深く寄せること
鎌足は、足を止めた。
中臣を、蘇我に
はい
翹岐は、少しも振り向かなかった。
兵が立つ。
将が立つ。
名が立つ。
そのどれも、のちには人を引き寄せます
いまのうちに、誰の目が誰の手のうちで物を見るかは、大事でございましょう
鎌足には、そのことばがすぐには胸へ収まらなかった。
蝦夷が自分をここへ出したのは、ただ見せるためではない。
蘇我のそばで見せるためでもある。
そういうことなのか。
川瀬が、そのとき初めて口を挟んだ。
申しすぎだ
翹岐は、肩をすくめた。
申さずとも、この方はそのうち気づかれましょう
鎌足は黙っていた。
風が吹き、結地の旗が鳴った。
遠く、兵の声がひとつ上がり、すぐに消えた。
翹岐は、今度は少しだけやわらかく言った。
ですが、それだけではありますまい
何が
鎌足が問うと、翹岐は答えた。
御食子どのは、おそらく本当に、あなたに見せようとしておられる
この朝が、どのように人を束ね、
どのように人を壊し、
どのように一つの兵を作り、
そしてその一つが、どれほど危うくできているかを
鎌足は、そのことばに返せなかった。
蝦夷の思惑。
蘇我の思惑。
御食子の思惑。
それらが、別々でありながら、一つのことの上に重なっている。
そういうことが、今の朝にはあるのだと、前より少しだけ分かった気がした。
結地へ戻ると、日はもうほとんど落ちていた。
兵はなお、兵として完全には馴染んでいない。
諸氏の兵が、まだそれぞれの顔を残している。
だが、そのばらばらの顔のあいだを、川瀬がつなぎ、翹岐のような者がことばと順で埋めている。
鎌足は、その夕べ、ひとつのことを深く覚えた。
兵は、槍と弓だけで立つのではない。
国もまた、ただ王と大臣だけでは立たぬ。
人のあいだに立ち、
違う理を違うままぶつけず、
しかも最後には一つの形に見せる者がいる。
そのような者どもが、朝の見えぬ骨を支えている。
夜になると、浜の火が遠くいくつも灯った。
風はなお海の方から来ていた。
その風の中で、翹岐の横顔が、火に半ばだけ照らされた。
笑っているようにも見える。
醒めているようにも見える。
何も信じていないようにも見える。
だが鎌足には、その男が、ただひょうひょうとしているだけではないことだけは分かった。
この人は、国が壊れる順も知っている。
そして、国を立て直すには、何を先に整えねばならぬかも、知っているのだろう。
そのことが、ひどく気にかかった。
そしてその気がかりは、鎌足の胸のうちで、ただの興味としてではなく、のちへ残る何かのはじまりのように感じられた。




